「させていただきます」というのは、聞いた時にどうも居心地の悪い感じがする言い方だと思うのだが、使う人は何とも思わないで使っているのかな。いるんだろうな。そんな「させていただく敬語」の裏にある無意識を、コラムニストの小田嶋隆が大批判。日経ビジネス電子版9/10付コラム記事(「させていただく敬語」に抱く敵意の正体)から以下にメモ。
いったいに21世紀の日本人は、させていただきすぎる。この言い方を用いる人々は、自分が主体的に行動したことを表現しているはずの動詞語尾を「させていただく」「引き受けさせていただく」「お知らせさせていただく」てな調子の使役+謙譲語の疑似敬語に変換することで、危険回避をはかっている。
思うに、「させていただく」敬語は、行為者を曖昧化する(というよりも、これは、自分が主体的に為していることを、誰かの許可ないし命令に従って実施している事柄であるかのように偽装した表現だと思う)ことで、責任を回避する話法だ。これを多用する人間を私は信用しない。
単なる言葉づかいの問題としては、「人前でものを言う時には、とりあえず敬語っぽく響く日本語を使っておくことにしよう」「断定的な語尾は避けておいたほうが無難かな」という程度の気分なのかもしれない。
しかし、この言い方が野放図に蔓延したことで、結果として、万事に安全第一を旨とする腰の引けた責任回避思考が国民のデフォルト設定になってしまった気味は否めない。
・・・こんな風に分析されると、なるほどねって思うわけです。要するに何か「ズルい」感じがするわけね。
司馬遼太郎が書いていたのは、「させて頂きます」という語法は、浄土真宗の教義から出たものだ、という話(『街道をゆく』近江散歩)。真宗では、すべて阿弥陀如来によって生かしていただいている。そういう絶対他力を前提に成立する語法が「させて頂きます」。もっとも今は他力への信仰は消滅して、語法だけになっている、ということだけど。
自分の記憶では、かつての鳩山由紀夫首相が「させていただきます」を多用していたような気がする。やっぱり印象は良くない・・・。(苦笑)