2026年5月30日 (土)

岸田秀先生、お亡くなりに

先日、岸田秀氏の訃報が伝えられた。『ものぐさ精神分析』で知られる心理学者。享年92歳。

自分は50年前、高校生の時に、同級生のナカタニ君から岸田秀の「唯幻論」について教えられた。その後彼は岸田秀の教えを受けるため、和光大学に入った。彼に誘われて自分も一度だけ、岸田先生の講義を聞きに鶴川にある和光大学まで行ったことがある。

唯物論の向こうを張って「すべては幻想である」と説く唯幻論。しかし、おそらくはこの「幻想」という言葉に少々語弊もあり、初めて聞くと「何のこっちゃ」と言われそうな気もする。でも、人間は「本能が壊れた動物」であり、赤ん坊の時に「全能の幻想」に捉われている、との前提から、人間心理の「神経症的」様相を説明し、人間の作り出す社会的秩序についても疑似現実である、つまり人間の心理も社会秩序も「幻想」であるとする論旨は、割りと明快だと思われる。

自分には、岸田理論に対する吉本隆明の「評価」、その印象が今も強く残っている。岸田との対談(『現代思想』1981年9月号掲載)の中で、吉本は以下のように発言している。

「いちばんの特徴は、一種の破壊的な言説というか、つまり全部つまんねえという、(笑)それがアッピールするところで、そういうのが非常にいいんじゃないでしょうか。全部どうでもいいやというのが、文章にものすごくよく出ていて、面白いと思いました。それがものすごく受けるところじゃないでしょうか。」

人間の作り出す社会的秩序は疑似現実でしかない、つまり大した根拠はないのだから全部どうでもいい、ということになるだろう。その結果的な「相対主義」的スタンスは、『ものぐさ精神分析』発行の少し後に流行するポストモダン思想を先取りしていた部分もあったように思う。(ちょっと意外感のある人物では、歌手の来生たかおも、なぜか岸田唯幻論をめっちゃ信奉していたなあ。)

最近、ホモ・サピエンスには「フィクションを共有する」能力がある(ユヴァル・ノア・ハラリ)という話を聞いた時も、まあ岸田唯幻論で言ってた「共同幻想」と大体同じことなんだろうな、と感じた。人間が否応なく持つことになる「幻想」は、当然「言語」や「脳」とも関係する話だろうから、唯幻論の有効性は現在も失われてはいないと感じる。

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2026年1月 4日 (日)

ニーチェ的に生きるとは

新春セール中のブックオフで、『ニーチェ[超]入門』(白取春彦・著、2010年発行)を値札の20%引きで買った(笑)。以下に、「力への意志/生きることとは何か」の章からメモする。

(生きることの)目的はともかくとして、人は生きるとは何かと問う。個人的な生き方のみがあるために、一般的な回答は得られないのかもしれない。ところが、哲学では一般的な回答を目指す。ニーチェの観点はまた少し異なる。

ニーチェは生の正体を見ようとは思っていない。生きるとはどういうふうになっていくことなのか、という見方をする。生きることの本質とは、「絶えざる拡張と増大に向かう力への意志」だというのだ。しかも、この力への意志には目的とか目標というものがない。何のためがなく、無限増大ばかりを目指す不断の働きなのだ。

こういう力への意志だけに染まった人格として、ニーチェは「超人」をイメージしている。超人は力への意志を純粋に体現し、ひたすら創造的でもある人格だ。創造的というのは、昨日までの自分を否定して、つねに新しい自分になっていくということだ。

・・・ニーチェの「力への意志」が意味するところは、生きるとはテンション上げて生きていくことだ、という感じかなと思う。生きることについて、おそらく一般的な意味や目的はない。人はそれぞれ、自分の意味や目的を設定して生きていくほかない。生きる根本に意味や目的があるというよりも、テンションを上げて生きていくために意味や目的が必要とされる、ということだろう。その時々の自分のテンションを上げるために、必要な意味や目的も変わっていく。変化する意味や目的と共に、自分自身も更新されていく。「自分らしく」生きるとは、常に新しい自分を発見するということだろう。まあ「実存的」に生きる、と言っていいんでしょうね。

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2025年3月14日 (金)

初心者向け哲学本

昨夜のBSテレ東番組「あの本読みました?」で紹介されていた「人生を楽にしてくれる哲学の本」、初心者におすすめは以下の10冊。

1.『超訳ニーチェの言葉』(白取春彦・訳)
2.『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル・著)
3.『大河の一滴』(五木寛之・著)
4.『現代思想入門』(千葉雅也・著)
5.『反哲学入門』(木田元・著)
6.『荘子 内篇』(ちくま学芸文庫)
7.『反応しない練習』(草薙龍瞬・著)
8.『ゼロから始めるジャック・ラカン』(片岡一竹・著)
9.『哲学史入門(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)』(NHK出版新書)
10.『禅とジブリ』(鈴木敏夫・著)

・・・うーん、超訳ニーチェですか~。これは哲学の本というより、名言集という感じかな。元気が出る言葉を集めました、みたいな。ソフィーの本が出たのは、もう30年も前か。最近、コミック版が出ていて、そっちには目を通したが(苦笑)。まあ哲学史の本は、ふつうに大学の一般教養で使うテキストをおとなしく読んでおくというものではないか、分かっても分からなくても。という感じがする。五木さんの本は、生き方指南書みたいなものか。これが一番「人生を楽にしてくれる」感じかな。『現代思想入門』は、番組にも出演してた千葉雅也先生の本。現代思想(といっても70年代~80年代の思想)を素晴らしく手際よく整理したというか、かつての浅田彰『構造と力』と比べても、とてもこなれた内容の本になっている。『反哲学入門』になると、入門書というより、ある程度哲学史に自分の見通しができた後で読むと、発見があるというか感心できる本ではなかろうか。荘子はよく分からない(苦笑)。『反応しない練習』が取り扱うのはブッダの思想らしいので、これもよく分からない(苦笑)。ラカンも当然分からない(苦笑)。哲学史入門全3巻は、古代から現代まで第一線級の研究者のインタビューで構成されているので、読みやすいとはいえる。禅は分からないし、ジブリは自分にはよけい分からない(苦笑)。

とりあえず、西洋哲学史ということで言うと、個人的にはやっぱりキリスト教の思考の構えが強いなと思っていて、自分がある本で読んだのは、古代哲学は非キリスト教哲学、中世哲学はキリスト教哲学、近代哲学は脱キリスト教哲学、現代哲学は反キリスト教哲学と性格づけたもので、これは印象に残っている。結局西洋哲学は、プラトン哲学とキリスト教を混ぜ合わせて展開してきたものであり、ニーチェがそれを破壊した。加えて、ハイデガーも西洋哲学の伝統とは異なる思考を追究した、というのが木田先生的「反哲学」の見立てであろう。

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2025年3月 4日 (火)

アドラーに学ぶ「幸福」

『アドラーに学ぶ どうすれば幸福に生きられるか』(岸見一郎・著、ベスト新書)からメモする。

アドラーは、「私は自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」といっています。ここでいう勇気とは、対人関係に立ち向かう勇気です。

自分が好きでないという人は、対人関係を避けるために、自分には価値がないと思い、したがって、自分を好きにならないでおこうと決心しているのです。

(自分が好きと思える時は)自分が役立たずではなく、誰かの役に立っていると思える時ではないでしょうか。自分が何らかの形で貢献できたことを知れば、自分には価値があると思え、自分を好きになることができます。

貢献する、あるいは与えるという時、私が考えているのは、他の人のために動くことが自分にとって喜びであるということです。人から「ありがとう」といってもらいたいのではありません。自分がしたいことをすることが人に役立つことになるというのがいいのです。

与えられた生をどう使うか。プラトンの言葉を借りるならば、ただ生きるのではなく、「よく生きる」ために使いたいのです。「よく生きる」ということの具体的な内実は、アドラーが与えています。「私に価値があると思えるのは、私の価値が共同体にとって有益である時だけである」

先に見た言葉でいえば、私が他の人に役立っていると思える時に、そんな自分のことを好きになれるということです。そのように思える時、この生は生きるに値すると思えるでしょうし、そのように思えるよう他の人と関わるためには、対人関係を主な内容とする人生の課題を回避するわけにはいきません。

人生に意味がない、とか、目的がない、と考えるのは、人生が自分の思うとおりにならないと思う人だけです。この人生には意味がない、と考えることには、目的があります。そのように思うことで、人生の課題を回避しようとしているのです。

私は他の人に負っていることが多々ありますが、私もまた他者に働きかけ、協力することができます。与えられるだけではなく、与えることができるのです。

どのような仕方であれ、他者に貢献している、誰かに役立っていると感じられる時、人は幸福になれます。幸福とは貢献感なのです。

・・・アドラー心理学では、人間の行動を目的論的に考えるという。なので、自分が嫌いだとか、人生は無意味だとか言う人は、対人関係を主な内容とする人生の課題を回避することを目的としている、と説明される。

でも、人間の行動にはいつも目的があるとまでは思えないし、ある考え方をすれば人生の課題や対人関係が回避できる、わけでもないよなあ。むしろ避けようとしても、否応なく向こうからやってくるような気がする。回避しようもない人生の課題や対人関係にぶつかった結果、自分が嫌いだとか人生は無意味だとか感じる、やっぱりそういう順番だろうと思ってしまう。

それはそれとして、「よく生きる」ということが大事であるのは同意する。なぜか自分は今そういう心境だったりする。もちろん、「よく」の内実を自分も考えないといかんのだが。

幸福についても、今の自分は単純に、他者と何事かを共有できればそれが幸福なのだなあ、という感じで思っております。

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2024年3月18日 (月)

九鬼周造の「シーシュポス」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也、哲学者二人の対談の中で、カミュの「シーシュポスの神話」は、九鬼周造の議論の焼き直しのようなものだと、古田先生が話しているのが目に付いた。九鬼もシーシュポスを取り上げていたというのは、正直不勉強で知らなかった。とりあえず、九鬼論文「時間の観念と東洋における時間の反復」(原文フランス語、坂本賢三訳)から、シーシュポス(シシュフォス)について述べている箇所を引用する。

いつも皮相だと思うのは、ギリシア人がシシュフォスの神話の中に地獄の劫罰を見たことである。彼が岩塊をほとんど頂上まで押し上げると岩は再び落ちてしまう。そして彼は永遠にこれを繰り返す。このことの中に、不幸があるであろうか。罰があるであろうか。私には理解できない。私は信じない。すべてはシシュフォスの主観的態度に依存する。彼の善意志、つねに繰り返そうとし、つねに岩塊を押し上げようとする確固たる意志は、この繰り返しそのものの中に全道徳を、従って彼の全幸福を見出すのである。シシュフォスは不満足を永遠に繰り返すことができるのであるから幸福でなければならない。これは道徳感情に熱中している人間なのである。彼は地獄にいるのではなく、天国にいるのである。すべてはシシュフォスの主観的見地に依存する。

・・・九鬼論文は1928年にフランスで出版されており、カミュの「神話」発行(1942年)に先立つこと14年前になるが、カミュが九鬼論文を知っていたかどうかは不明とのこと。確かに「シーシュポスは幸福なのだ」という趣旨はよく似ている。ただ、カミュのシーシュポスは「不条理」を語る中でのアイコンなのに対し、九鬼のシーシュポスは「回帰的時間」を語る中でのアイコンという違いがある。とりあえず前者は不条理への終わりなき反抗の意志の現れであろうし、後者はニーチェ的な永遠回帰の中で生を肯定する意志を示しているのだろう。(まあ、ニーチェはカミュのアイドルでもあったわけですが)

ヨーロッパに留学した九鬼周造は、一歳違いのハイデガーに直接学んだ。九鬼哲学には、同時代の実存哲学的背景が反映されている。その九鬼がシーシュポスに着目し、著作における言及もカミュより先というのは、かなり興味深いです。

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2024年3月17日 (日)

シーシュポスの「幸福」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也の対談から、二人の哲学者がカミュの「シーシュポスの神話」について語る部分をメモする。

森岡:カミュは人間存在において注目すべきは不条理というあり方であると考えました。今まで安心して立っていた世界の底が抜けることを不条理という言葉で捉えています。不条理に満ちた世界で運命に反抗することで、自分が生きることを肯定していけるのではないかというメッセージをカミュは出しています。カミュはその際、古代ギリシャのシーシュポスの神話を例に出します。シーシュポスは、神々からの罰を受けて山の上に岩を押し上げなければなりませんが、岩は必ず転がり落ちてしまうので、何度も岩を押し上げ続けないといけない。カミュは、まったく意味がないように見えるシーシュポスの行為であっても、運命に反抗するというスタンスを取ったときには、何かそこに自己肯定的な、幸福につながるものが見えてくるのではないかと考えます。

古田:僕自身はカミュの問いーーあるいはそれは九鬼周造の議論のほとんど焼き直しのような感じですがーーがずっと気になっています。シーシュポスのあり方は、徒労と無意味を象徴化したものとして捉えられるのが一般的ですが、九鬼とカミュによれば、シーシュポスは幸福でなければならない。彼らはそこで、ある種の発想の転換を果たそうとしているわけです。このときの幸福とは何か。シーシュポスが置かれているのは、一般的な意味では全く幸福ではない状況です。つまり、我々が幸福を見出すことができるような条件は全てはぎとられている。何も達成できないし、何も承認されない。しかも精神的にも肉体的にもずっと苦痛が続く。しかしそれでも、生きることには何らかの肯定性を見出すことができるかもしれない。九鬼やカミュがシーシュポスに見出そうとしている幸福は、そういうギリギリの肯定性です。九鬼やカミュはシーシュポスの姿をめぐって、そういった肯定性を幸福という言葉に託して議論しているわけで、そういう意味では幸福論よりも人生の意味論に分類できると思います。

・・・「人生の意味の哲学」というテーマを語る中で、カミュの「シーシュポスの神話」がフィーチャーされるのは、至極当然のように思われる。何しろこのカミュのエッセイは、冒頭から「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と、切迫感を伴いつつ単刀直入、ド直球の問題設定で始まる本なのだから。シーシュポスは「ギリギリの肯定性」を体現する「幸福」な者であるならば、シーシュポスに倣って我々も、人生に意味はあると判断できる、ということなのだろう。

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2024年3月16日 (土)

「人生の意味の哲学」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也、二人の哲学者による対談からメモする。

森岡:人と話すと「生きる意味を考えるのが哲学ですよね」と言われることは多い。けれども哲学のアカデミーの中にいると、人生の意味が哲学の問題として正面から論じられることは実はあまりありません。

古田:村山達也(東北大学教授)さんが指摘されていたのは、「人生の意味」という言葉を用いた哲学的な問いは、18世紀末から19世紀にかけて生まれた比較的新しいものだということです。村山さんによれば、ある種の宗教的権威がどんどん崩れていき、それまで神によって問うまでもなく保障されていたはずの意味が不安定になり、また近代の産業社会が発達し、自分の仕事や労働、生活に意味付けすることが難しくなった。時代の変化により意味を支える土台が崩れていき、虚無的な感覚にとらわれる中で、自分の人生の意味に対して懐疑も含んだ問いがより表立って出てきた。

森岡:18世紀後期以降の近代化の一つの帰結として、人間が自分の生きる意味を考えないといけなくなったというのは大きなことです。それは西洋だけではなく、明治時代から西洋化・近代化した日本も同じ問いを抱えました。だから人生の意味の問いは洋の東西を問わず、近代的な原理で動く社会が必然的に抱えてしまうものだと言えます。

・・・共同体が壊れて社会が流動化して人間が個人になる、要するに「近代化」の帰結の一つの現れとして、「人生の意味の問い」が生まれてきたといえるのだろう。

けれども近現代哲学でも、「人生の意味」がストレートに問われてきたわけではない。哲学と聞くと、一般人は「人生を考える」というイメージを持つことが多いのではないか。しかし学問的に「哲学」というと、概ね「西洋哲学史」を学ぶことだったりする。一般人の哲学イメージに一番近いのは、実存哲学なのだろうが、その流行も遥か昔のことである。

それでも近年、分析系哲学が「人生の意味」を議論する動きがあるとのことなので、ちょっと注目してみたい感じもする。

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2023年6月18日 (日)

子を持つ=人生の意味?

子供を持たない人に、人生の意味はあるか。日経新聞電子版6/16発信、生命哲学を研究する森岡正博・早稲田大学教授のインタビュー記事からメモする。

人類は古代から世界中でそれ(人生の意味)を考えてきた。最近では20世紀中ごろにフランスのサルトルらが「実存主義」という観点から、社会の中で生きる意味を問いかけ、学生運動などに大きな影響を与えた。その後やや下火になっていたが、この10年ほどまた、「人生の意味の哲学」が活発になってきた。

人は大きな流れの中に位置づけられると意味を感じやすいというのは、共感する人も多いのではないか。祖父母、親、自分、子供、孫というような血筋の流れに組み込まれることは人生の意味になるという考えだ。ただ、それに反対する考えもたくさんある。

哲学というのは結構極端なことも含め、理詰めで考える学問だ。哲学の次元で話をすれば、本来は「なぜ少子化を解決しなくてはいけないのか」という問いがあってもいいはずだ。日本人が減っても、他の国が栄えれば人類としてはそれで構わないのではないか。また人類はそもそも存在すべきなのか。急な変化は困るかもしれないが、ゆっくりとなら人類は消滅してもいいのでは。そう考えることもできる。人類は消滅しても構わないという話に比べれば、個人の(産む産まないといった)実存的な悩みは目の前が真っ暗になるほどの話じゃないな、とも思える。

人生の意味の考え方は多種多様であり、哲学者たちも人生の意味の哲学という分野をいま作っているところだ。

・・・人間に、これだという本質は無い。人間は、自分で自分を作る実存だ。「実存主義」の流行は遥か昔のことだけど、たぶん現代人は自分で意識するしないに関わらず、「実存主義者」なのだと思う。最近は「自分らしく」生きる、などと割と簡単に言うのだが、要するに自分の人生の意味は自分で作るしかないと、今では誰もが了解しているのではないか。であれば、子供を持つことを自分の人生の意味とするのもしないのも、当人の考え方次第ということになる。

もちろん意味が無くても、生きていくことはできる。しかし、なぜかそれでは満足できない、つまらない、空しいと感じる自分がいる。けれども、空しいと思うことを前向きに理由付けすれば、人間はただ生きるのではなく、よく生きることを求めているからだ、と考えてもいい。よく生きる。何だか古代ギリシャ哲学に戻る感じだが、結局そういうことなのかな、と思う。

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2023年5月28日 (日)

『ニーチェのふんどし』

近未来の社会は、ますます弱者救済が大義となる社会。だからニーチェの思想を知っておく必要があるのです、と言うのは藤森かよこ先生。新著『ニーチェのふんどし』(秀和システム発行)から、以下にメモする。

歴史は、「弱者救済」と「ユートピア構築(この世に天国を作ること)」を大義にして進んできた。「弱者救済」と「ユートピア構築」が人類の大義となったのは、キリスト教組織が生まれたからだ。

キリスト教組織の大義である「弱者救済」と「ユートピア構築」は、キリスト教の分派のイスラム教は言うまでもなく、根本的にキリスト教の発想から離れられない西洋のさまざまな思想に浸透し、今日にいたっている。社会主義も共産主義も人権思想も、みんなキリスト教の亜流だ。

今の私たちが生きている世界が表層で謳う共通善は「弱者救済」であり、大義は「弱者を大事にするユートピア構築」である。それらの道徳や大義の底にあるのは、自己の力で生きることを引き受けることができる真の高貴な者や強者に対する弱者の嫉妬や恨みの気持ち(ルサンチマン)であると、ニーチェは示唆する。

ルサンチマンから生まれた道徳は、強い者への復讐心なのだ。ニーチェによると、この奴隷道徳こそが、近代精神の賤民主義、民主主義を生み出した。弱者救済とか、弱い者も生きて行けるこの世のユートピア構築という大義は、この奴隷道徳の産物だ。それが、ヨーロッパを席巻し、非ヨーロッパ世界に拡大されたのが近代以降の歴史だった。

・・・昔、少しだけ読んだ『道徳の系譜学』で覚えているのは、強者の観点は「優良」(グート)対「劣悪」(シュレヒト)だが、弱者はそれを引っ繰り返して、劣悪が「善」(グート)で、優良が「悪」(ベーゼ)とする。端的に言って、弱者が善で強者が悪だとする。これが奴隷道徳、強者に対する弱者のルサンチマンの現れだ。

弱者救済やら平等実現やらが、もともとはキリスト教的価値観に根差すものであるならば、アンチクリストを標榜したニーチェの思想は、現代世界の「弱者のユートピア」を目指す動きが行き過ぎた時には、「解毒」作用をもたらすものになり得るだろう。

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2023年4月15日 (土)

人生に効くカミュの本

『文藝春秋』5月号で「私の人生を決めた本」を開陳する56人のうち、カミュの『シーシュポスの神話』を挙げている方を2名発見。山根基世氏(フリーアナウンサー)と庄司紗矢香氏(ヴァイオリニスト)。最近の日経新聞(2/4付)の読書欄でも、藤野英人氏(レオス・キャピタルワークス会長兼社長)が同書について語っていた。お三方のカミュ評を、以下にメモする。

神々の怒りをかったシジフォスは、間断なく岩を山頂に運び上げるという刑罰を科せられる。山頂に達すると、岩はその重みで又転がり落ちる。再び運び上げる。永劫に続くその繰り返し。全身全霊で運び上げても決して達成することのない労働。だが、それを承知でなお、自分の意志で一歩一歩岩を運び上げるシジフォス。無駄に思えるその一歩にこそ意味があると、私は受けとめ深く頷いた。(山根氏、書名は『シジフォスの神話』表記)

自分の頭で考えて理解できない事に同調はできない。『シーシュポスの神話』は、何も日本に限らず、同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。(庄司氏)

カミュの『シーシュポスの神話』が示す通り、賽の河原で石を積み上げているのが人生です。目標に達したと思った瞬間、スタートに戻る。無限の罰を生きることこそが無限の命であり、徒労の中に輝きがあるのだと思います。(藤野氏)

・・・今年はカミュ生誕110年。最近はコロナ禍で小説『ペスト』が読まれた、なんてことも思い出される。カミュの文学のキーワードは「不条理」とされるが、哲学的エッセイである『シーシュポスの神話』で語られるのは、不条理な世界と無意味な人生に立ち向かう覚悟、というところか。

カミュやサルトルの「実存主義」文学の流行は遠い昔のことではあるが、最近世の中で、何かにつけて「自分らしく」生きるとか言われるのを見聞きすると、何となく今はライトな実存主義の時代なのかな、と思ったりする。

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