2024年3月18日 (月)

九鬼周造の「シーシュポス」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也、哲学者二人の対談の中で、カミュの「シーシュポスの神話」は、九鬼周造の議論の焼き直しのようなものだと、古田先生が話しているのが目に付いた。九鬼もシーシュポスを取り上げていたというのは、正直不勉強で知らなかった。とりあえず、九鬼論文「時間の観念と東洋における時間の反復」(原文フランス語、坂本賢三訳)から、シーシュポス(シシュフォス)について述べている箇所を引用する。

いつも皮相だと思うのは、ギリシア人がシシュフォスの神話の中に地獄の劫罰を見たことである。彼が岩塊をほとんど頂上まで押し上げると岩は再び落ちてしまう。そして彼は永遠にこれを繰り返す。このことの中に、不幸があるであろうか。罰があるであろうか。私には理解できない。私は信じない。すべてはシシュフォスの主観的態度に依存する。彼の善意志、つねに繰り返そうとし、つねに岩塊を押し上げようとする確固たる意志は、この繰り返しそのものの中に全道徳を、従って彼の全幸福を見出すのである。シシュフォスは不満足を永遠に繰り返すことができるのであるから幸福でなければならない。これは道徳感情に熱中している人間なのである。彼は地獄にいるのではなく、天国にいるのである。すべてはシシュフォスの主観的見地に依存する。

・・・九鬼論文は1928年にフランスで出版されており、カミュの「神話」発行(1942年)に先立つこと14年前になるが、カミュが九鬼論文を知っていたかどうかは不明とのこと。確かに「シーシュポスは幸福なのだ」という趣旨はよく似ている。ただ、カミュのシーシュポスは「不条理」を語る中でのアイコンなのに対し、九鬼のシーシュポスは「回帰的時間」を語る中でのアイコンという違いがある。とりあえず前者は不条理への終わりなき反抗の意志の現れであろうし、後者はニーチェ的な永遠回帰の中で生を肯定する意志を示しているのだろう。(まあ、ニーチェはカミュのアイドルでもあったわけですが)

ヨーロッパに留学した九鬼周造は、一歳違いのハイデガーに直接学んだ。九鬼哲学には、同時代の実存哲学的背景が反映されている。その九鬼がシーシュポスに着目し、著作における言及もカミュより先というのは、かなり興味深いです。

| |

2024年3月17日 (日)

シーシュポスの「幸福」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也の対談から、二人の哲学者がカミュの「シーシュポスの神話」について語る部分をメモする。

森岡:カミュは人間存在において注目すべきは不条理というあり方であると考えました。今まで安心して立っていた世界の底が抜けることを不条理という言葉で捉えています。不条理に満ちた世界で運命に反抗することで、自分が生きることを肯定していけるのではないかというメッセージをカミュは出しています。カミュはその際、古代ギリシャのシーシュポスの神話を例に出します。シーシュポスは、神々からの罰を受けて山の上に岩を押し上げなければなりませんが、岩は必ず転がり落ちてしまうので、何度も岩を押し上げ続けないといけない。カミュは、まったく意味がないように見えるシーシュポスの行為であっても、運命に反抗するというスタンスを取ったときには、何かそこに自己肯定的な、幸福につながるものが見えてくるのではないかと考えます。

古田:僕自身はカミュの問いーーあるいはそれは九鬼周造の議論のほとんど焼き直しのような感じですがーーがずっと気になっています。シーシュポスのあり方は、徒労と無意味を象徴化したものとして捉えられるのが一般的ですが、九鬼とカミュによれば、シーシュポスは幸福でなければならない。彼らはそこで、ある種の発想の転換を果たそうとしているわけです。このときの幸福とは何か。シーシュポスが置かれているのは、一般的な意味では全く幸福ではない状況です。つまり、我々が幸福を見出すことができるような条件は全てはぎとられている。何も達成できないし、何も承認されない。しかも精神的にも肉体的にもずっと苦痛が続く。しかしそれでも、生きることには何らかの肯定性を見出すことができるかもしれない。九鬼やカミュがシーシュポスに見出そうとしている幸福は、そういうギリギリの肯定性です。九鬼やカミュはシーシュポスの姿をめぐって、そういった肯定性を幸福という言葉に託して議論しているわけで、そういう意味では幸福論よりも人生の意味論に分類できると思います。

・・・「人生の意味の哲学」というテーマを語る中で、カミュの「シーシュポスの神話」がフィーチャーされるのは、至極当然のように思われる。何しろこのカミュのエッセイは、冒頭から「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と、切迫感を伴いつつ単刀直入、ド直球の問題設定で始まる本なのだから。シーシュポスは「ギリギリの肯定性」を体現する「幸福」な者であるならば、シーシュポスに倣って我々も、人生に意味はあると判断できる、ということなのだろう。

| |

2024年3月16日 (土)

「人生の意味の哲学」

『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也、二人の哲学者による対談からメモする。

森岡:人と話すと「生きる意味を考えるのが哲学ですよね」と言われることは多い。けれども哲学のアカデミーの中にいると、人生の意味が哲学の問題として正面から論じられることは実はあまりありません。

古田:村山達也(東北大学教授)さんが指摘されていたのは、「人生の意味」という言葉を用いた哲学的な問いは、18世紀末から19世紀にかけて生まれた比較的新しいものだということです。村山さんによれば、ある種の宗教的権威がどんどん崩れていき、それまで神によって問うまでもなく保障されていたはずの意味が不安定になり、また近代の産業社会が発達し、自分の仕事や労働、生活に意味付けすることが難しくなった。時代の変化により意味を支える土台が崩れていき、虚無的な感覚にとらわれる中で、自分の人生の意味に対して懐疑も含んだ問いがより表立って出てきた。

森岡:18世紀後期以降の近代化の一つの帰結として、人間が自分の生きる意味を考えないといけなくなったというのは大きなことです。それは西洋だけではなく、明治時代から西洋化・近代化した日本も同じ問いを抱えました。だから人生の意味の問いは洋の東西を問わず、近代的な原理で動く社会が必然的に抱えてしまうものだと言えます。

・・・共同体が壊れて社会が流動化して人間が個人になる、要するに「近代化」の帰結の一つの現れとして、「人生の意味の問い」が生まれてきたといえるのだろう。

けれども近現代哲学でも、「人生の意味」がストレートに問われてきたわけではない。哲学と聞くと、一般人は「人生を考える」というイメージを持つことが多いのではないか。しかし学問的に「哲学」というと、概ね「西洋哲学史」を学ぶことだったりする。一般人の哲学イメージに一番近いのは、実存哲学なのだろうが、その流行も遥か昔のことである。

それでも近年、分析系哲学が「人生の意味」を議論する動きがあるとのことなので、ちょっと注目してみたい感じもする。

| |

2023年6月18日 (日)

子を持つ=人生の意味?

子供を持たない人に、人生の意味はあるか。日経新聞電子版6/16発信、生命哲学を研究する森岡正博・早稲田大学教授のインタビュー記事からメモする。

人類は古代から世界中でそれ(人生の意味)を考えてきた。最近では20世紀中ごろにフランスのサルトルらが「実存主義」という観点から、社会の中で生きる意味を問いかけ、学生運動などに大きな影響を与えた。その後やや下火になっていたが、この10年ほどまた、「人生の意味の哲学」が活発になってきた。

人は大きな流れの中に位置づけられると意味を感じやすいというのは、共感する人も多いのではないか。祖父母、親、自分、子供、孫というような血筋の流れに組み込まれることは人生の意味になるという考えだ。ただ、それに反対する考えもたくさんある。

哲学というのは結構極端なことも含め、理詰めで考える学問だ。哲学の次元で話をすれば、本来は「なぜ少子化を解決しなくてはいけないのか」という問いがあってもいいはずだ。日本人が減っても、他の国が栄えれば人類としてはそれで構わないのではないか。また人類はそもそも存在すべきなのか。急な変化は困るかもしれないが、ゆっくりとなら人類は消滅してもいいのでは。そう考えることもできる。人類は消滅しても構わないという話に比べれば、個人の(産む産まないといった)実存的な悩みは目の前が真っ暗になるほどの話じゃないな、とも思える。

人生の意味の考え方は多種多様であり、哲学者たちも人生の意味の哲学という分野をいま作っているところだ。

・・・人間に、これだという本質は無い。人間は、自分で自分を作る実存だ。「実存主義」の流行は遥か昔のことだけど、たぶん現代人は自分で意識するしないに関わらず、「実存主義者」なのだと思う。最近は「自分らしく」生きる、などと割と簡単に言うのだが、要するに自分の人生の意味は自分で作るしかないと、今では誰もが了解しているのではないか。であれば、子供を持つことを自分の人生の意味とするのもしないのも、当人の考え方次第ということになる。

もちろん意味が無くても、生きていくことはできる。しかし、なぜかそれでは満足できない、つまらない、空しいと感じる自分がいる。けれども、空しいと思うことを前向きに理由付けすれば、人間はただ生きるのではなく、よく生きることを求めているからだ、と考えてもいい。よく生きる。何だか古代ギリシャ哲学に戻る感じだが、結局そういうことなのかな、と思う。

| |

2023年5月28日 (日)

『ニーチェのふんどし』

近未来の社会は、ますます弱者救済が大義となる社会。だからニーチェの思想を知っておく必要があるのです、と言うのは藤森かよこ先生。新著『ニーチェのふんどし』(秀和システム発行)から、以下にメモする。

歴史は、「弱者救済」と「ユートピア構築(この世に天国を作ること)」を大義にして進んできた。「弱者救済」と「ユートピア構築」が人類の大義となったのは、キリスト教組織が生まれたからだ。

キリスト教組織の大義である「弱者救済」と「ユートピア構築」は、キリスト教の分派のイスラム教は言うまでもなく、根本的にキリスト教の発想から離れられない西洋のさまざまな思想に浸透し、今日にいたっている。社会主義も共産主義も人権思想も、みんなキリスト教の亜流だ。

今の私たちが生きている世界が表層で謳う共通善は「弱者救済」であり、大義は「弱者を大事にするユートピア構築」である。それらの道徳や大義の底にあるのは、自己の力で生きることを引き受けることができる真の高貴な者や強者に対する弱者の嫉妬や恨みの気持ち(ルサンチマン)であると、ニーチェは示唆する。

ルサンチマンから生まれた道徳は、強い者への復讐心なのだ。ニーチェによると、この奴隷道徳こそが、近代精神の賤民主義、民主主義を生み出した。弱者救済とか、弱い者も生きて行けるこの世のユートピア構築という大義は、この奴隷道徳の産物だ。それが、ヨーロッパを席巻し、非ヨーロッパ世界に拡大されたのが近代以降の歴史だった。

・・・昔、少しだけ読んだ『道徳の系譜学』で覚えているのは、強者の観点は「優良」(グート)対「劣悪」(シュレヒト)だが、弱者はそれを引っ繰り返して、劣悪が「善」(グート)で、優良が「悪」(ベーゼ)とする。端的に言って、弱者が善で強者が悪だとする。これが奴隷道徳、強者に対する弱者のルサンチマンの現れだ。

弱者救済やら平等実現やらが、もともとはキリスト教的価値観に根差すものであるならば、アンチクリストを標榜したニーチェの思想は、現代世界の「弱者のユートピア」を目指す動きが行き過ぎた時には、「解毒」作用をもたらすものになり得るだろう。

| |

2023年4月15日 (土)

人生に効くカミュの本

『文藝春秋』5月号で「私の人生を決めた本」を開陳する56人のうち、カミュの『シーシュポスの神話』を挙げている方を2名発見。山根基世氏(フリーアナウンサー)と庄司紗矢香氏(ヴァイオリニスト)。最近の日経新聞(2/4付)の読書欄でも、藤野英人氏(レオス・キャピタルワークス会長兼社長)が同書について語っていた。お三方のカミュ評を、以下にメモする。

神々の怒りをかったシジフォスは、間断なく岩を山頂に運び上げるという刑罰を科せられる。山頂に達すると、岩はその重みで又転がり落ちる。再び運び上げる。永劫に続くその繰り返し。全身全霊で運び上げても決して達成することのない労働。だが、それを承知でなお、自分の意志で一歩一歩岩を運び上げるシジフォス。無駄に思えるその一歩にこそ意味があると、私は受けとめ深く頷いた。(山根氏、書名は『シジフォスの神話』表記)

自分の頭で考えて理解できない事に同調はできない。『シーシュポスの神話』は、何も日本に限らず、同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。(庄司氏)

カミュの『シーシュポスの神話』が示す通り、賽の河原で石を積み上げているのが人生です。目標に達したと思った瞬間、スタートに戻る。無限の罰を生きることこそが無限の命であり、徒労の中に輝きがあるのだと思います。(藤野氏)

・・・今年はカミュ生誕110年。最近はコロナ禍で小説『ペスト』が読まれた、なんてことも思い出される。カミュの文学のキーワードは「不条理」とされるが、哲学的エッセイである『シーシュポスの神話』で語られるのは、不条理な世界と無意味な人生に立ち向かう覚悟、というところか。

カミュやサルトルの「実存主義」文学の流行は遠い昔のことではあるが、最近世の中で、何かにつけて「自分らしく」生きるとか言われるのを見聞きすると、何となく今はライトな実存主義の時代なのかな、と思ったりする。

| |

2023年3月13日 (月)

「交換」を生み出す「謎の力」

先頃、「バーグルエン哲学・文化賞」を受賞した柄谷行人。何でも「哲学のノーベル賞」との触れ込みで、賞金も100万ドルという破格の金額。文芸評論家から出発し、80年代には現代思想ブームの一翼を担った柄谷氏は、今や大思想家になったのだなあ。近年、柄谷氏は「交換」という視点から社会システムの歴史を分析。以下は、『文藝春秋』4月号のインタビュー記事からのメモ。

現在の世界は、貨幣による市場経済(交換様式C)によって立つ資本主義、そして国家(交換様式B)の二つが巨大な力を持っています。そのため、互酬交換(交換様式A)の力が非常に弱くなってきている。

ただ、この資本主義と国民国家が大きな力を持つ近代以降の世界(「資本=ネーション(国民)=国家」)は、そろそろ限界に近づいているのではないかと私は思っています。

一方、私が未来の社会として考える交換様式Dというのは、A(贈与と返礼)が高次元で実現される、つまり共同体的拘束はないけれども、助け合いがあるような、自由で平等な社会です。

マルクスは〈交換は共同体と共同体の「間」で始まる〉と書いています。つまり交換とは共同体の内部ではなく、本来、見知らぬ不気味な他者との交換であり、それが成立するためには相手に交換を強制するような「力」が必要なのです。

最近になって気がついたのですが、私は、文芸評論や哲学的エッセイ『探究』を書いていた若い頃から、ずっと交換の問題を考えていたんですね。たとえば、言語の問題に取り組んでいたときも、言語によるコミュニケーションを、一種の「交換」としてとらえていた。

コミュニケーションとは、お互いを見通せない中でなされる不透明なもので、それが成立するにあたって、個人の意識を超えて「人間を突き動かす謎の力」が働いている。私はこの「謎の力」を考え続けていた。そして、その鍵は常に「交換」にあった。

・・・80年代に浅田彰や岸田秀が広めたポストモダン的人間観として、「ホモ・デメンス」(狂ったサル)という考え方がある。人間は狂っている(本能が壊れている)からこそ、秩序を求める生き物である。とすれば交換を成立させる力とは、秩序への意志なのではないか。ニーチェの言うアポロとディオニソスみたいだけど。

| |

2022年8月15日 (月)

問題は二項対立か相対主義か

新著『現代思想入門』が好評の哲学者・千葉雅也と、80年代に『構造と力』で現代思想ブームを巻き起こした浅田彰。両者の対談記事(今なぜ現代思想か)が『文藝春秋』9月号に掲載。以下にメモする。

千葉:今度の拙著の中でも資本主義が発展していく中で、価値観が多様化し、共通の理想が失われた時代、それがポストモダンの時代だと説明しています。そんな時代に生まれた現代思想は、「目指すべき正しいもの」がもたらす抑圧に注意を向け、多様な観点を認める相対主義の傾向がある。しかし現在、世間を見渡すと、相対主義を斥けて、何でも二項対立で考える風潮が高まっている。白か黒か、善か悪か。だからこの本では、そもそも、なぜ二項対立が生じているのか、状況を俯瞰して冷静に考える知性こそが重要だと書いています。
浅田:多文化主義という表層の背後のグローバル資本主義がすべてを支配する状況になり、儲かるかどうか、役に立つかどうかのプラグマティックな〇✕式思考が広まってしまった。80年代初頭に僕が考えていたのは、旧左翼や新左翼の失敗を清算することで、かえってマルクスを初めとする左翼思想を自由に読み替える可能性が出てきたということだった。ところが実際には、左翼はすべて✕、資本主義が〇という方向に動いてしまったんですね。だからこそ、ドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』などにヒントを得ながら、資本主義から逃走するための地図を描きたかった。それが『構造と力』や『逃走論』に結実しました。旧左翼・新左翼のように資本主義を批判するより、資本主義の大波に乗りながら、微妙に方向をずらして新しい空間に向かうこともできるんじゃないか、と。
千葉:ただ、『構造と力』が出た時代は資本主義や左翼思想など、打ち破るべき強固なドグマや権威があったわけですよね。今の時代は戦うべき強固な相手がいなくなってしまったのが実情です。
浅田:1980年代初頭には、「右手に朝日ジャーナル、左手に平凡パンチ(左手に少年マガジンでもいい)」という形で教養主義が辛うじて生き残っていた。それがなければ『構造と力』もブームにならなかったかもしれない。
千葉:権威的な知と、ポップカルチャーの融合ですね。ところが、時代を経て権威的な知が批判され尽くすと、もはやぶつかるべき相手もいなくなり、すべての教養やカルチャーがフラット化してしまう。
浅田:相対主義的多文化主義の背後には、価格だけが唯一の尺度というグローバル資本主義があるわけですね。
千葉:多様性とは言っても、資本主義のもとで消費される商品として展開しているだけなんですね。
浅田:その種の相対主義が蔓延して、教養が衰退していったんだと思います。

・・・千葉先生の本を読んで、浅田先生から40年、現代思想も随分こなれた感じになったものだなーという感慨を抱いた。さて、相対主義の別名はリベラル化、と言えるかもしれない。しかし、人は自分の自由は認めても、他者の自由は簡単には認めない傾向があるように思う。なので寛容であること、その余裕を持つこともなかなか難しいようであるし、逆に言うと、そういう余裕の無さから二項対立というか、「分断」が発生するという面もあるのかも、と思ったりする。

| |

2022年5月 8日 (日)

カント哲学とラカン理論

近代ドイツ哲学の巨人カントと、現代フランス思想の大家ラカン。一見、何の繋がりもないように見えるが、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)によれば、二者の「認識論」には共通するものがあるという。以下に同書からメモする。

時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。

人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOS(WindowsやMacOS) です。

ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。

このようなX(捉えられない「本当のもの」)に牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、神を決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。

ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例なのです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです。

・・・カントとラカン、その認識論の構図は相似形であり、「否定神学的」アプローチも共有している。とりあえずラカンの例であるが、近代批判の色濃い現代思想といえども、近代哲学を承継している部分を見出すことができるというのは、とても面白いと感じる。

| |

2022年5月 7日 (土)

ディオニュソス対アポロン

講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)から、以下にメモする。

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。

ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じる狂乱の祭があった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバい(ディオニュソス的)エネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシアの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

この(アポロンとディオニュソスという対立の)図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。要するにかたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。この形相と質料の区別がアリストテレスにおいてまず理論化されました。あくまでも質料は形相の支配下にあります。

ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。

・・・ニーチェの「アポロンとディオニュソス」が、アリストテレスの「形相と質料」以来の哲学的伝統に連なる概念として位置づけられると共に、ニーチェにおいて秩序優位から非秩序優位への逆転が行われたとする著者の見方は、とても興味深いものに思われる。

| |

より以前の記事一覧