信長と義昭の接近そして離反
今日は岐阜駅前にある「じゅうろくプラザホール」に出かけた。開催イベントは「第18回信長学フォーラム」、テーマは「安土城からみた岐阜」。目当ては、中井均先生の講演だったわけだが、もう一人の講演者、松下浩氏(滋賀県文化スポーツ部、城郭調査の専門家)のお話も、最近の信長研究を踏まえたと思われる分かりやすいものだったので、配布資料も参照しながら、以下にメモする。
当時、「天下」の意味するところは、京都を中心とする伝統的秩序の領域、そして「天下人」とは天下を静謐にする人(とりあえず室町将軍)だった。織田信長といえば、「天下布武」の印章、ハンコが有名。これはかつては、天下(日本全国)を武力で統一するという宣言として受け取られていた。しかし、天下=京都(畿内)であるならば、この理解は誤り。永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を伴って上洛。義昭は室町幕府15代将軍となったことから、「天下布武」とは、室町幕府の再興を意味すると考えられる。
信長上洛の100年前、応仁の乱で将軍権威は失墜。さらに明応2年(1493)に起きた明応の政変以降、将軍家は分裂し、管領の細川家も後継者争いが続いた。政争に敗れた将軍は京都を追われ、有力大名を頼って京都復帰を目指すというパターンが繰り返される(足利義材(義稙)と大内氏、足利義晴・義輝と六角氏など)。ということで、義昭と信長がタッグを組んだこともこの流れの中にある。
義昭は信長の傀儡ではなかった。信長は義昭から「天下之儀」を任されてはいたが、あくまで天下人は足利将軍であり、信長はその代理人である。天下人の責務である天下静謐は、天下人の代理人である信長の戦争の大義となる。義昭の存在は、信長が天下静謐実現のために戦う前提だった。
しかし義昭は何を思ったか、信長から武田信玄に乗り換えようとする。その理由は明らかではない。信長からは、義昭は天下人の務めを果たしていないように見えたらしく、あれこれ義昭を「指導」していたということはある。とにかく、元亀4年(1573)7月、義昭と信長は決別に至る。天正4年(1576)、義昭は毛利氏を頼って備後鞆に移り、今度は義昭が毛利氏に支援されて、京都に帰ってくる可能性も出てきた。
義昭追放により、天下静謐実現の前提を失った信長は、朝廷からの官位を受けるなど、天皇との結び付きを強めようとする。安土への天皇行幸を計画し、安土城内に行幸御殿を作る。安土城は総石垣作りで高い天守を持つ、それまで無かった城であり、信長自らが天下人であることを示す城だった。
・・・義昭を追放した後、信長は新たな足利将軍を立てずに、天下静謐という大義の源を天皇に求めた。さらに、自らが天下人であることを示そうとした。その理由は何か、史料がないと分からないとしても、なかなか興味深いところだ。それはそれとして、改めて戦国時代の足利将軍、8代義政から後の将軍(いろいろややこしい展開だけど)の本を読み直してみようと思った。
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