2026年9月 1日 (火)

昭和の会社と役所は「軍組織」

昨夜放映されたNHK「陸軍VS海軍」(映像の世紀バタフライエフェクト)では、日本の旧陸軍と旧海軍が、互いに張り合うように、それぞれの組織の目的と利益を追求する有り様を伝えていた。

「陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた」(ある元海軍大佐の言葉)。自らの組織優先の軍の在り方は、戦後になって日本の会社や役所に受け継がれた。番組ナレーションはこう語る。

組織に身を捧げ競争を勝ち抜く。戦後の企業社会に流れ込んだ組織優先の論理は、人々を経済成長という新たな戦場へと駆り立てていった。国家の運営を担う省庁にも縦割りの構造と縄張り意識が根付き、組織の論理が形を変えて受け継がれた。

作家の山本七平は戦場での体験をもとに、日本の組織における責任の曖昧さを問い続けた。山本は戦後社会に、敗戦で消えたはずの日本軍の影を感じ取っていた。

番組は、山本の著作から以下の言葉を伝えて終わる。
「確かに戦争は終わった。だが私はいつも奇妙な❝戦時中の顔❞がこちらを覗いていることに気づかないわけにいかなかった。」
「すべてが「タテ」だけで動き横の協同はできない。(組織への)責任の追及は消失し無責任体制となる。日本軍を貫いていたあの力がいまだに我々を拘束している。」
「組織の名誉が絶対化すれば常に同じことのくりかえしとなるであろう。」

・・・タテ社会あるいはムラ社会、無責任体制、いろいろ言い方はあるだろうけど、昭和の軍や会社は、組織なんて立派なものでもなく、単なる気合と根性集団だったような気もする。

思い出すのは、昭和期にやってた「地獄の特訓」なる管理職育成研修イベント。たぶんだけど、自衛隊の訓練っぽいことをがんがんやるような感じ。こういう研修の広告が、堂々と日経新聞に出てたような記憶がある。

昭和の前期(戦前)は軍国主義の時代、昭和の後期(戦後)は体育会主義の時代だったといえると思う。戦後になって多少マイルドにはなったが、昭和の社会集団では基本的に軍隊式が横行していた感じ。社会に出るとか会社に入るとか、なんか怖かった覚えがある。

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2026年8月31日 (月)

「国体」について雑感

佐藤優の新刊『戦略の罠』(フォレスト出版)は、戦前・戦中の日本の思想を現代的な文脈の中で読み直そうという試みの書。「国体」をテーマとする第1章からメモする。

国体とは、国家を国家たらしめている根本原理、つまり、国家を内側から支える理念構造のことである。

では、日本の国体とは何なのか。1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」に対する激しい批判、いわゆる「天皇機関説事件」が起きる。その後の国体明徴運動を経て、1937年に文部省が刊行した『国体の本義』では、「日本の国体とは天皇を中心とする皇統の連続性にある」と説明された。ただし、ここで注意しなければならないのは、「国体」と「天皇制」を混同してはならないという点である。『国体の本義』が問題にしていたのは、単なる統治制度としての天皇ではない。日本という共同体を内側から支える精神的・歴史的連続性であり、日本国家の理念構造そのものだった。つまり、国体とは制度以前の問題なのである。

『神皇正統記』において、北畠親房が繰り返し強調したのは、「皇統の連続性」だった。ここで重要なのは、皇統が単なる血統として理解されていない点である。親房が問題にしていたのは、「歴史的連続性」そのものだった。天皇とは、日本国家の継続性を象徴する存在なのである。

・・・「国体」とは「皇統の連続性」であると考えると、先の皇室典範改正で取り沙汰された「皇位の安定的継承」は、まさに「国体の維持」の観点から最重要の課題といえよう。と言葉を並べてはみたものの、何だかどうもピンとこない。

今では「国体」という言葉自体余り聞かなくなった。国民体育大会(国体)も、国民スポーツ大会に改称されたし(苦笑)。とりあえず「国体」と聞くと、どうしても戦争の時に強調された得体の知れないワードというイメージが拭えない。まあ平たく言えば、日本国の始まりから天皇が代々続いている、そのこと自体を意味しているのであろうけれども。佐藤氏によれば、「天皇制」はもともと左翼用語であり、国体=天皇制ではない、とのことだが、まあ正直なところ自分は両者を一緒くたにしてる感じだったので、ちょっと考え直さないといかんかな。

とりあえず思った。1935年から45年までの10年間、「国体」は軍国ナショナリズムがバブル的に膨らんだ時代を象徴する言葉だったかのもしれない、と。

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2026年8月30日 (日)

満州国について雑感

佐藤優の新刊『戦略の罠』(フォレスト出版)は、戦前・戦中の日本の思想を現代的な文脈の中で読み直そうという試みの書。「満州国」をテーマとする第3章からメモする。

満州国成立の直接的契機となったのは、1931年の満州事変である。この軍事行動を主導したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎と、作戦主任参謀の石原莞爾であった。関東軍内部には、満州を日本防衛の生命線ととらえる強い戦略思想が存在していたのだ。当時の日本にとって最大の仮想敵国はソ連である。満州はそのソ連と接する巨大な緩衝地帯、すなわちバッファゾーンであった。しかも、満州には石炭、鉄鉱石、大豆などの豊富な資源が存在した。つまり、満州は単なる占領地ではなかったのである。日本の安全保障、経済、軍事、産業を支える戦略拠点として認識されていたのだ。

石原は「世界最終戦争論」を唱え、将来的に日本とアメリカが世界覇権を巡って衝突すると考えていた。そして、その最終戦争を戦い抜くためには、日本は大陸資源圏を確保しなければならないと考えた。この視点から見ると、満州国とは単なる植民地ではない。日本という国家を長期戦に耐え得る戦略国家へ改造するための「前進基地」であったのだ。満州国は「国家改造プロジェクト」に近い性格を持っていたのである。

当時、多くの官僚や軍人、知識人たちは、満州国を単なる占領地ではなく、「新しい国家建設」の実験場として見ていた。その中心人物の一人が、のちに首相となる岸信介である。岸は商工官僚として満州国の産業政策に深く関わり、国家主導による重工業化と統制経済を推進した。彼にとって満州国は、単なる植民地ではなく、「国家主導型先進国家」の実験空間でもあった。

・・・佐藤氏によれば、満州国の「王道楽土」「五族協和」という国家理念も、西洋列強に対抗するための、西洋近代へのアンチテーゼとして意味付けられる。しかし現実の統治システムは理念と乖離して、最後はソ連侵攻で満州国は崩壊した。石原莞爾の構想通りに、来るべき日米決戦に備えて、中国を攻めるとか余計なことをしないで、ひとまず満州国経営に集中していれば良かった、のかな。

まあそんな戯言はともかく、満州国における岸信介ら革新官僚の統制経済の実験が、日本国内における総力戦体制(1940年体制)を用意し、戦後も官民一体の「日本株式会社」システムとして機能し高度成長を実現した、というストーリーも語られるわけだから、満州国というのはいろいろな意味で気になるわけです。

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2026年8月26日 (水)

「自由主義者」の特攻隊員

先日24日に放映されたNHK「特攻 若者たちの絶望と祈り」(映像の世紀バタフライエフェクト)の中で、昭和20年5月に戦死した特攻隊員上原良司の遺した言葉が紹介されていた。特攻隊員の中でも、おそらく上原さんはかなりの有名人ではないかと思う。知覧特攻平和会館では彼の遺書が展示され、『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』には彼の残した「遺書」「所感」の二つの文書が収められている。遺書の他にも日記やノートなど多くの文章が遺されており、それらは『あゝ祖国よ恋人よ』(信濃毎日新聞社発行)に纏められている。上原さんの文章の中から、一部を引用してみる。

「私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。」(昭和19年前半に書かれたと見られる「遺書」)

「自由主義の勝利、それは当然すぎるほど当然であろう。自分は自由の力を信じている。最後に勝利を得るものは自由である。」「自由は人間性なるが故に、自由主義国家群の勝利は明白である。日本は思想的に既に敗れているのだ。」(昭和19年のメモ)

「悠久の大義に生きるとか、そんなことはどうでも良い。あくまで日本を愛する。祖国のために独立自由のため闘うのだ。」(昭和20年のメモ)

「思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者といわれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思います。」「真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念の正しかった事、この事はあるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限りです。」「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。」(昭和20年5月11日出撃の前夜に書かれた「所感」)

・・・自由は人間の本性であると考えた上原さんは、「自由主義者」を自認していた。戦争も、最後には自由主義の国が勝利するのは自明であると考え、そして現実に日本の敗色は濃厚であった。自由主義の勝利という自分の信念の正しさを確信しつつ、敗北に向かう祖国を守るため、彼は特攻機上の人となり、沖縄の空に散った。戦争の時代を生きる羽目になった人々の過酷な運命と無念を思うと、ただただ哀惜の気持ちを覚えるしかない。

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2026年8月23日 (日)

終戦直後の集団自決頻発

81年前の8月23日、「国体明徴」を唱えるある結社の人々が集団自決した。17日付日経新聞のコラム記事「昭和史スケッチブック」からメモする。

前夜からの雨が降ったりやんだりの、蒸し暑い日だった。1945年8月23日のことである。

玉音放送が流れて1週間あまり。東京・新橋の駅前から祝田橋の十字路に向かう12人の一団があった。彼らは楠木正成の銅像のあたりで宮城(皇居)を遥拝すると、用意の短刀や拳銃を手に一斉に自裁に及んだ。午前11時だった。

事件を起こしたのは、日本郵船の海員を中心に「国体明徴」を唱えて活動していた明朗会のメンバーや同調者である。敗戦を迎えて突如、「国体護持ノ征戦」を叫んで集団死に至るのだ。メディアは「一死・皇国に殉ず」(8月29日付「読売新聞」)などと伝えたものの、敗戦の衝撃収まらぬ紙面のなかで相対的に扱いは小さい。各紙とも、同じ時期に起きた右翼団体の集団自決と合わせて明朗会の事件を報じている。22日には「尊攘同志会」のメンバー10人が芝の愛宕山で自決し、25日には「大東塾」の14人が代々木練兵場で割腹し、命を絶った。そもそも終戦直後には、小規模とはいえ軍人による反乱が相次ぎ、自決者も各地で続出していた。その数は600人にのぼるとされる。

戦争体験の継承を訴え続けた評論家の安田武は、彼らの自決は「『憤死』とでも名づくべき相を、色濃くもっていた」と指摘した(「記録 自決と玉砕」)。

・・・「国体明徴」とは何ぞや。とりあえずの調べとして、まず「国体」とは、日本は天皇中心の神の国である(昔、森首相が言ったことです)ということで、「国体明徴」とは、そのような日本国家の在り方をはっきりさせること。これが政治運動として現れたのが1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」(天皇を国家機関の一つとみなす学説)が問題視されて始まった「国体明徴運動」。軍部・在郷軍人会・右翼団体などからの圧力に岡田啓介内閣は耐え切れず、「国体明徴声明」を出して天皇機関説を否定するに至る。以降、軍部の政治への影響力は増大の一途を辿る。

というようなことで、「天皇機関説」も昔、受験勉強で言葉だけは覚えたなあという感じ(苦笑)なのだが、この辺りから戦前日本の政治の前提は、国家>天皇から天皇>国家に、それまでいちおう立憲君主国家だったものが国体至上主義国家に転じたという印象だ。何にしても、戦前の思想は日本の近代化の一つの帰結には違いないし、終戦直後の「国体護持」を訴える「憤死」的集団自決も、戦前の思想に基づいた行動なのだから、日本の近代化の「陰画」的な出来事のひとつとして考えておく必要はあると思う。

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2026年8月15日 (土)

終戦の詔書、緊迫の作成

8月3日付日経新聞コラム記事「昭和史スケッチブック」からメモする。

「十日、十一日、十二日の三晩ほとんど徹夜して、何枚も原稿用紙を破りすてながら、ときには、涙で原稿用紙を濡らしながら、どうやら形を作り上げた」
終戦時に内閣書記官長だった迫水久常は、1964年刊行の手記「機関銃下の首相官邸」に、こんな回想をつづっている。45年8月15日に「玉音」として放送された「終戦の詔書」だ。

10日未明の御前会議で、昭和天皇は戦争の即時終結を表明した。終戦詔書づくりの混乱が、この日から始まったのである。

歴史研究者の茶園義男は、国立公文書館に眠っていた詔書作成過程を示す文書を80年に発見。この資料と、終戦時の内閣嘱託で漢学者の川田瑞穂が残した草稿がほとんど一致していることを突き止めた(「密室の終戦詔書」)。

もっとも、御前会議での天皇の発言を川田は聞いていないから、草稿の前の段階で、迫水が下書きを用意した可能性はある。それを川田が草稿にまとめ、迫水が引き取り、案文があわただしく関係者のあいだを行き交った――。

やがて、天皇が「ご聖断」を下し、ポツダム宣言受諾が決まるが、その条件や詔書の表現をめぐるせめぎ合いが続く。詔書は原本にさえ、行間に書き込みがあるのだ。中立国に詔書発布が打電されたのは14日午後11時だった。

・・・日経紙面には、タイプ打ちされた「詔書案」の一部の画像が示されているが、戦局を述べる部分に手書きで「必ずしも好転せず」の文言が追加修正されているのが分かる。この文言に関する閣内の対立が、映画「日本のいちばん長い日」の場面に(旧作にも新作にも)出てくる。陸軍大臣が「必ずしも好転せず」を主張して、反対していた海軍大臣も最後は折れる、ということだったらしい。この辺は、会社の中でもある話だなー、と思ってしまった。

「終戦の日」は、ポツダム宣言受諾を正式通告した8月14日(詔書の日付も14日)、あるいは戦艦ミズーリ船上の降伏文書調印日である9月2日(国際的にはこっち)という考え方もある。まあそれも手続き重視の話かな、と思う。やはり日本国民が玉音放送で敗戦を知った8月15日が、紛れもない「終戦の日」で良いんだろうな。

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2026年8月12日 (水)

日米開戦と大島浩の「情報」

今日のネット記事(「現代ビジネス」のサイト)で、第二次世界大戦時の駐ドイツ大使・大島浩の話を読んだ。

大島浩(1886-1975)は日独防共協定や日独伊三国同盟を推進。ヒトラーに心酔し、ナチス幹部と太いパイプを築いた。戦後は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、終身刑。恩赦による釈放後、公の場に現れることはなかった。

1941年6月、ヒトラーからソ連侵攻を示唆された大島は、この重大情報を本国に伝えた。実際に作戦が始まり、大島は政府内で絶大な信頼を獲得。そして秋には、「ドイツは計画通り、厳冬期前にソ連軍を壊滅し再起不能にできるだろう」と打電。これも信頼できる情報として、日本が対米開戦を決意する要因の一つになったと見られている。だが実際には大島自身も、ドイツ軍の強さを十分な根拠もなく信じ込んでいた、と生前語っていた。昭和史研究の第一人者である作家の保阪正康氏は、「大島さんは、ちょっとドイツびいきすぎた。100パーセント、ドイツにほれてしまった」と評する。以下、記事の一部をメモする。

ただ、保阪さんは、大島だけでなく、当時の指導者や国民の多くが、ナチス・ドイツとヒトラーの勢いに惑わされていたことを忘れるべきではないとも強調した。「日本もドイツに続け」という空気が支配的になっていたのだ。三国同盟締結前後の流行語「バスに乗り遅れるな」に象徴される「付和雷同」の国民性にこそ、本質的な危機があったと語る。

・・・戦争に向かう日本国内の「空気」は、ドイツの快進撃、加えてアメリカの強硬姿勢により醸成されたのだと思える。「空気」というと、何となくできるもののような感じもするが、やはりそれができる理由はあるのだ。おそらく「空気」ができること自体を抑え込むのは、殆ど不可能だとしても、肝心なのは、そこでいったん踏み止まることなのだろう。なぜこんな「空気」になっているのか、その理由を考えてみる。それしかないのか、それでいいのかと疑ってみる。まあ、そうはいっても、一度出来つつある「空気」の中で立ち止まる強さを持つのも、やっぱり難しいよなあ。

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2026年7月21日 (火)

日本国、謎の政体

国家が戦争に向かうとき』(朝日新書)は、片山杜秀と田中駿介、二人の政治学者の対談本。「第5章 戦後民主主義と天皇」から、田中先生の発言を以下にメモする。

普通の国の憲法1条は、自国の最も崇高な理念とか、それこそ国のかたちを示しているはずです。普通は、不可侵な権利とかその国の政体とか、基本的にはそういうものを憲法の最上域に置くわけです。それが近代国家のお約束だと思いますが、日本国憲法の1条から8条には、そのような文言がありません。そもそも何制の国なのかという国体に当たるような条文もありません。そもそも主要国家で、連邦とか共和国とか王国とか、そういう政体に関する文言がついていない国は、日本以外にほとんどありません。

さらにいえば、国民主権の規定は前文を除けば、日本国憲法で直接に規定されているのは第1条のみです。そこでは「主権の存する日本国民の総意に基く」として、象徴天皇制の規定に付随するかのような表現になっています。つまり、日本の国民主権は天皇制の枠内でしか語られておらず、独立した主権の概念としては扱われていないとすらいえます。

つまり日本は、この国がいったい何の政体で、どのような理念があるのか、そして国民主権は本当に独立した概念として確立されたのか。戦後、ずっとごまかしてやってきたという側面があるわけです。

・・・「日本王国」でも「日本共和国」でもない「日本国」とは、一体何ぞやという話(実は一応「日本皇国」なのかもしれないが)。この点、第二次世界大戦後の1946年に、政体選択の国民投票を実施して王政廃止を決め、共和国になったイタリアは大したものだなと思ったりする。まあ日本は、戦後にアメリカが天皇制維持を決めちゃったとか、いろいろ経緯が異なるから仕方がないとはいえ、自分たちで政体を決めたイタリアは、そこだけ見れば、ちょっと羨ましいなと感じるところも正直あるのだなあ。

まあ高市政権も、国論を二分する政策を問うとか言うならば、皇室典範をあれこれ弄るよりも、単刀直入に天皇制の維持か廃止かを問う国民投票でもやったらどうなのかね。

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2026年7月20日 (月)

遠い戦争の記憶、霞む人間天皇像

国家が戦争に向かうとき』(朝日新書)は、片山杜秀と田中駿介、二人の政治学者の対談本。「第5章 戦後民主主義と天皇」の初めに、田中先生は「天皇制という存在自体の問題を考える人がすごく減ったと理解しています」と発言。以下は、片山先生の発言からのメモ。

天皇制を考える近代の前提が失われてしまった。立憲君主の国か共和国か。1945年の敗戦と大日本帝国の崩壊。そのケリの付け方は大きく天皇にかかわるというのが戦後の常識でしたが、それが世代交代と共に、問題意識すら忘れ去られてしまった。「どうでもいい」という無関心派、無党派のような部分が膨らんでいる。

天皇は理論的な問題でもあるはずですが、やはりまずはいきものであって、歴史の実感に基礎づけられているからこそ、結局、世代的な経験に規定されている話なのです。世代が変わると過去は脆くも崩れていく。

結局、人間天皇のイメージが立ち枯れてきているということになるでしょうか。国民に命を捧げさせる現人神へのアンチテーゼが、国民と共にある人間天皇。よって戦争が遠くなると人間天皇もわからなくなるのですね。

戦後民主主義的文脈で生きてきた、昭和の皇太子、平成の天皇、令和の上皇の思想と行動もその同世代の国民に支えられているところが大きかった。そういう人々はだいたいもう社会の第一線にはいなくなってきた。ならばもう天皇制をやめるのかというと、そうした熱い政治思想を持っている人も並行して減った。とりあえず皇位継承者がおられ、誰かが皇位についていれば天皇は続くでしょう。ただし、それをなくすような反天皇的なエネルギーもないけれども、それがないと困ると本気で思うエネルギーも減じている。

・・・戦争の時代の現人神。そのアンチテーゼとしての戦後の人間天皇。それゆえ戦争の記憶が遠くなると、人間天皇のイメージも霞んでくるという歴史の皮肉。いまこの国で、皇室のことを真面目に考えている人がどれだけいるのか。真面目に考えていると称する人々は、側室制度なしで男系男子継承を維持しようと悪あがきしている、諦めの悪い人々。一方で女性天皇が本当に「待望」されているかも怪しく、女性天皇でもいいよ、くらいの印象。無関心派としての自分は、皇室が自然消滅するならそれはそれで仕方ない、くらいの感覚だ。片山先生は、「明治国家の天皇中心で国民を従えるというモデルはかなり即席で作られた」と指摘している。近代化の時代に作られた「伝統」は、もはや有効性を失っているように見えるし、それもまた歴史の流れと言えば言えるように思う。

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2026年6月 8日 (月)

文久三年、姉小路公知の暗殺

泰三子(やすみこ)の幕末マンガ『だんドーン』の単行本が出ると読んでいる。先月出た最新第11巻は、文久三年八月十八日の政変を描き、新選組と徳川慶喜も登場。それ以上に印象的なのが、政変の3ヵ月前に起きた尊王攘夷派の公家、姉小路公知(あねがこうじきんとも)の暗殺事件。マンガの中で「世に言う朔平門外の変」と説明されるが、正直知らなかった(苦笑)。で、どういう事件か。別の本の説明からメモする。

姉小路公知は、朝廷の尊王攘夷活動の中心的存在であった。彼は賊から襲撃を受けながら、敵の刀を奪い、自邸まで戻ったものの、被った傷は深く命を落としてしまう。その後の調べにより、この刀は「人斬り新兵衛」こと薩摩藩士田中新兵衛のものとわかったが、捕縛された田中は、刀は自分のものであるとは認めたものの、暗殺事件への関与は認めないまま自害して果ててしまった。この事件をきっかけに、薩摩藩は御所の警護の役を解任されてしまう。尊王攘夷派が勢力を高めているさなかに何故、姉小路公知は暗殺されたのか。勢いづいた尊王攘夷派が公武合体派の薩摩藩を陥れた陰謀説、姉小路公知が尊王攘夷から開国へと方針を切り替えたため天誅として処罰されたという説、また、真に薩摩藩が尊王攘夷派のこれ以上の台頭を抑えるために暗殺を起こしたという説など、さまざまな理由が取沙汰されたが、肝心の容疑者田中新兵衛が多くを語らず自害してしまったがために真相は不明のままとなってしまった。(『読む年表 幕末暦』じっぴコンパクト新書、2010年)

・・・マンガでは、姉小路公知の思想転換を想定しながら、田中新兵衛の心理と行動も描き出す。幕末は、こういう謎の暗殺事件が頻発するから、いやーな感じがして好きになれない時代だな。『だんドーン』は「幕末コメディ」と銘打ってはいるのだが、全然シリアスなマンガという印象で、それは描いている幕末という時代のせいでもあるように思う。しかしマンガ家さんは恐ろしく勉強してるし、そこからまたストーリー作って画を描くというのは驚異的な才能だ。とにかく、『だんドーン』は勉強になります。最近の大河ドラマよりも、歴史を学べる感じがします。

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