2024年11月23日 (土)

信長と義昭の接近そして離反

今日は岐阜駅前にある「じゅうろくプラザホール」に出かけた。開催イベントは「第18回信長学フォーラム」、テーマは「安土城からみた岐阜」。目当ては、中井均先生の講演だったわけだが、もう一人の講演者、松下浩氏(滋賀県文化スポーツ部、城郭調査の専門家)のお話も、最近の信長研究を踏まえたと思われる分かりやすいものだったので、配布資料も参照しながら、以下にメモする。

当時、「天下」の意味するところは、京都を中心とする伝統的秩序の領域、そして「天下人」とは天下を静謐にする人(とりあえず室町将軍)だった。織田信長といえば、「天下布武」の印章、ハンコが有名。これはかつては、天下(日本全国)を武力で統一するという宣言として受け取られていた。しかし、天下=京都(畿内)であるならば、この理解は誤り。永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を伴って上洛。義昭は室町幕府15代将軍となったことから、「天下布武」とは、室町幕府の再興を意味すると考えられる。

信長上洛の100年前、応仁の乱で将軍権威は失墜。さらに明応2年(1493)に起きた明応の政変以降、将軍家は分裂し、管領の細川家も後継者争いが続いた。政争に敗れた将軍は京都を追われ、有力大名を頼って京都復帰を目指すというパターンが繰り返される(足利義材(義稙)と大内氏、足利義晴・義輝と六角氏など)。ということで、義昭と信長がタッグを組んだこともこの流れの中にある。

義昭は信長の傀儡ではなかった。信長は義昭から「天下之儀」を任されてはいたが、あくまで天下人は足利将軍であり、信長はその代理人である。天下人の責務である天下静謐は、天下人の代理人である信長の戦争の大義となる。義昭の存在は、信長が天下静謐実現のために戦う前提だった。

しかし義昭は何を思ったか、信長から武田信玄に乗り換えようとする。その理由は明らかではない。信長からは、義昭は天下人の務めを果たしていないように見えたらしく、あれこれ義昭を「指導」していたということはある。とにかく、元亀4年(1573)7月、義昭と信長は決別に至る。天正4年(1576)、義昭は毛利氏を頼って備後鞆に移り、今度は義昭が毛利氏に支援されて、京都に帰ってくる可能性も出てきた。

義昭追放により、天下静謐実現の前提を失った信長は、朝廷からの官位を受けるなど、天皇との結び付きを強めようとする。安土への天皇行幸を計画し、安土城内に行幸御殿を作る。安土城は総石垣作りで高い天守を持つ、それまで無かった城であり、信長自らが天下人であることを示す城だった。

・・・義昭を追放した後、信長は新たな足利将軍を立てずに、天下静謐という大義の源を天皇に求めた。さらに、自らが天下人であることを示そうとした。その理由は何か、史料がないと分からないとしても、なかなか興味深いところだ。それはそれとして、改めて戦国時代の足利将軍、8代義政から後の将軍(いろいろややこしい展開だけど)の本を読み直してみようと思った。

| |

2024年11月 2日 (土)

GHQ占領と東京裁判

昭和問答』(岩波新書)は、田中優子と松岡正剛の対談本。戦後の、アメリカの日本占領政策と東京裁判に係る松岡発言からメモする。

たしかにアメリカによる日本占領政策は、まさにフロンティアを開拓していくというような独創的で実験的なものだったんだろうと思います。アメリカが日本占領のすべての権限を独占的にもつ。ここが日本占領作戦の最も重要なポイントです。ヤルタ体制のままだと、ドイツの東西分裂やベルリン分割同様のことも起こったかもしれなかった。それをアメリカが巧みに出し抜いた。そのうえで、アメリカの日本占領政策が矢のように連打されていった。このシナリオがまさに「昭和」と、その後の今日に至る「日本」の命運をすべて決することになった。

にもかかわらず、これを詳細に検討することは、いまの日本人の〝宿題〟としては稀薄になっています。天皇の問題、憲法の問題、東京裁判の問題、日米安保条約の問題、経済政策の問題、民主主義の問題、独立の問題など、大問題のほぼすべてが占領政策の施行とともに確定してしまったのに、今日の日本はそういうシナリオから脱したかのように錯覚しているよね。

日本では、東京裁判を受け入れるような立場を「敗北史観」とか「東京裁判史観」とみなす考え方が一時流行した。東京裁判そのものはどう分析しても、勝ち組の裁判であることに変わりない。敗者として裁かれるという経験をした日本が、そういうものを抱えたまま国家を維持していくというのはどういうことなのかを、もっと考えつづけたほうがいいと思う。もし東京裁判がなかったら、はたして日本人はあの戦争を自分たちで振り返ることができたのだろうか、ということさえ怪しく思えてくるよねえ。

東京裁判でA級戦犯をつくりあげて処罰し、天皇のことは不問にする代わりに人間宣言をさせる。そこに加えて民主憲法をつくって与える。それをGHQがあっというまにやってしまった。これでは占領日本は、ぐうの音も出ない。

アメリカは自分たちの影響下での日本の再軍備、ようするに「自衛隊づくり」に着々と向かう。世界戦略として、アメリカは最初から日本をソ連に対抗する地政学的な拠点として見ていたからね。結局、(サンフランシスコ講和条約の調印と同時に)日米安全保障条約が結ばれて、これで日本はずっとアメリカに従属させられることになった。とうてい独立したとは言えないよ。

・・・こんなふうに整理されると、今の日本はアメリカが作った、としか思えなくなる。終戦直後にアメリカから平和憲法を与えられた日本は、冷戦構造の形成に伴い、アメリカの都合により再軍備を強いられ、「反共の砦」となった。冷戦終了後も、国家の在り方が孕む矛盾は解消されないままであり、今も日本は基本的に「属国」的な在り方を引きずっている。

来年(2025年)は「昭和100年」にして終戦80年。戦後日本の根本を問い直す良い機会になるのかもしれない。けど、政治は結局、目先の対応で右往左往するのだろうなあ。

| |

2024年10月26日 (土)

関ヶ原合戦、新説の敗北?

去る10月20日、関ケ原古戦場記念館で若手研究者の成果発表を聴講した。発表者3人の中で自分の目当ては、小池絵千花先生の「関ヶ原合戦像の変遷とその背景」。現在通説とされる布陣図の形成過程について、興味深いお話が聞けた。

会場の最前列には、「関ヶ原研究会」の会員である笠谷和比古先生、水野伍貴先生、高橋陽介先生などが陣取り、発表者への質問を行った。小池先生の発表では、水野先生が「戸田左門覚書」史料について質問し、小池先生は「偽書とまでは言えないが、問題のある史料」と答えていた。「戸田左門覚書」には、石田三成が「自害が岡」に陣を布いたと記されている。この史料に注目して、テレビ番組でも「自害が岡」(現在の「自害峰」)に石田三成陣があったと主張していた高橋先生からは、その場では何のコメントも出なかった。ちょっと残念。

最近、関ヶ原合戦については新説が多く出されて、それはそれでとても面白かったのだが、どうも一巡感が出てきたように思われる。とりあえず白峰旬先生の唱えたところでは、「問い鉄砲」は文献学的裏付けから事実ではないと認定された感じだが、そのほかの「山中合戦」や小早川の即座の裏切りは、通説に取って代わるところまでは行かなかったようだ。

それでも新説のおかげで、歴史ファンは改めて従来説についていろいろ考えることができたというか、妄想のタネ?をもらえたことは有難く感じている。自分の関ヶ原合戦のイメージは、まず1600年9月14日に徳川の大軍が西軍の籠る大垣城の北に到着し、同日関ヶ原では松尾山の守りが伊藤盛正から小早川軍に交代。その夜、大垣城の西軍は関ヶ原に向けて行軍、到着後は北国街道と中山道を押さえる形で布陣した。おそらく、南宮山に毛利がいるので東軍はすぐには関ヶ原に進めない、と考えていたのだろう。ところが吉川広家と黒田長政が交渉して急きょ和睦。これにより、東軍も西軍を追って関ヶ原に進出する。行軍の疲れが残る西軍は、家康到着で士気の上がる東軍と戦う羽目に。9月15日の朝、両軍の前哨戦が始まる。霧の中で手探りの慎重な戦い。松尾山の山上の小早川も霧のため、すぐには動けなかった。やがて霧が晴れて戦場全体の状況が見渡せるようになった時、自分が西軍の背後から攻撃すれば東軍が勝利することが分かった小早川は突撃を決行。西軍は崩壊した。

とにかく吉川広家がさっさと和睦(降伏?)した結果、東軍が迅速に関ヶ原に進出して、それを見た小早川も裏切りの決心がついた、という感じ。そう考えると、西軍敗北の張本人は吉川であるように思う。

| |

2024年10月23日 (水)

野母崎から軍艦島を見る

長崎県野母崎の「恐竜パーク」を訪れた。当地から軍艦島(端島)を遠望できる。恐竜博物館と軍艦島資料館もある。写真は恐竜博物館裏手の浜辺から見た軍艦島。思ったより島の姿がはっきり見えたので、結構気分が上がった。

2_20241024201201

自分のコンパクトデジカメだと、下の写真がズームの限界。晴れているけど、風が強かった。

Photo_20241024201301

端島の炭鉱閉山から今年で50年。軍艦島資料館内で、軍歌島の暮らしの写真や映像を見学したが、「昭和」が凝縮されていると感じた。軍艦島そのものは2009年の上陸解禁時に、自分も一度訪ねている。文字通り廃墟だが、遺跡の風格も既に漂っていた。いろいろな意味で惹き付けられる場所である。

| |

2024年10月22日 (火)

関ヶ原、「豊臣公儀」の分裂

一昨日の20日、関ケ原古戦場記念館において「若手研究者成果発表会」を聴講。研究者3名の発表の中で、北村太智先生(龍谷大学博士課程)から説明された「豊臣公儀」分裂の話が興味深かった。以下に要点をメモしておきたい。

会津出兵から「関ヶ原の戦い」への転換時に、「豊臣公儀」は東軍・西軍に分裂した。白峰旬氏は、「内府ちかいの条々」発布により、会津出兵中の徳川家康から「公儀性」が剝奪され、ここにおいて「石田・毛利連合政権」ともいうべき「公儀」が成立したと評価する。一方、山本浩樹氏は、東軍諸将の支持を得た家康の軍事指揮権は、会津出兵からの反転後にむしろ強化され、新たな「公儀」を創出したと評価する。

西軍の結成は、やはり急ごしらえの感は否めない。また、西軍の「公儀」は「秀頼を推戴している」という体を装っている以上の実態はなく、西軍は西軍で正当性(すなわち「豊臣公儀」)をアピールする必要や、家康に謀反人のレッテルを貼り付ける必要もあった(いわゆる「内府ちかいの条々」)。

西軍が形成された後も、家康の創出した「公儀」を「豊臣公儀」と認めて従う大名が多数いた。三成・輝元と家康の両陣営は各々「公儀」を創出し(=西軍・東軍の形成)、諸大名は自身の認める「公儀」に従うことで、「豊臣政権」は分裂することになったのである。

西軍・東軍結成時に両者の掲げた「公儀」は共に盤石なものではなく、どう転ぶかわからない不安定なものであった。

・・・ということで、最近の関ヶ原新説では石田三成方からの「内府ちかいの条々」発布により、徳川家康方は「賊軍」となり窮地に陥ったとする見方を強調していたと思うのだが、石田方の「大義」もそれ程説得的ではなかったということだろう。実際、西軍結成発表とも言える「内府ちかいの条々」の内容が知れ渡るのは、「小山評定」による東軍結成の後になったらしいのだが、それでも東軍大名は家康に付き従い続けたわけだし。

ただ劣勢に追いやられたわけではないにしても、状況がどう転ぶかわからなかったので、小山評定の後、家康は江戸にひと月留まって「書状作戦」に専念していたのだろうな、とは思う。

| |

2024年10月21日 (月)

関ヶ原合戦布陣図の歴史

昨日20日、関ケ原古戦場記念館で「若手研究者成果発表会」を聴講。研究者3名の発表の中で、小池絵千花先生(早稲田大学博士課程)のテーマは「関ヶ原合戦像の変遷」。現在、我々が目にする合戦の定説的な布陣図はどのように形成されてきたのか、その過程を分析。以下に要点をメモしておきたい。

まず合戦当時の当事者によって書かれた古文書・古記録・覚書の内容は、部隊相互の位置関係や地形など、書き手の視点からの部分的な情報に限られる。具体的な地名はなく情報は断片的で、いわゆる一次史料から合戦の全体像を復元するのは、非常に困難。合戦の全貌を記した史料としては、太田牛一が著した『内府公軍記』の成立(1607年)が特異的に早く、大まかな布陣の構図もこの時点で成立している。その後、寛永年間から江戸幕府主導の史料編纂が行われ、自家の歴史の報告を求められた各大名家では、1640年代から50年代にかけて多くの家臣の覚書が作成された。1660年代以降になると、軍学者によって物語性の強い軍記が作られた。さらに1700年代になると、今度は考証意識の強い軍記が作られるようになる。

明治時代に入ってからの代表的な活動は、神谷道一による関ヶ原合戦研究と、陸軍参謀本部による『日本戦史』の編纂。この両者は各自で研究を開始したが、明治22年(1889)9月に参謀本部の日本戦史編纂委員が関ヶ原での現地調査を行った際、神谷道一が案内するなど、相互交流もあった。神谷道一は明治25年(1892)に『関原合戦図志』を出版し、参謀本部は明治26年(1893)に『日本戦史 関原役』を出版した。ここに、現在「定説」とされている情報が出揃うことになる。

小池先生によれば、江戸時代に広く流布した軍記よりも、地元美濃に伝来した軍記(写本)の方が「定説」の形成に大きな役割を果たしており、現地での比定作業によって「定説」となった地名も存在する。

・・・ということで、全体的な東軍西軍の各部隊の位置関係などは、基本的に太田牛一の史料により、個別の具体的な陣地の場所については、地元伝来の軍記や現地での比定作業によって、「定説」が形成されたという感じである。

最近の「山中合戦」など関ヶ原新説では、参謀本部の布陣図に大した根拠はないんじゃないか、くらいの勢いを感じたが、小池先生が改めて「定説」の布陣図形成について、史料を網羅的かつ丹念に分析したことにより、布陣図に対する疑義はほぼ払拭されたように思う。というか、最初に小池先生の論文(「地方史研究」第411号掲載、2021年6月発行)を読んだ時、えっ、あの太田牛一が関ヶ原合戦についても記録していたのか、と驚いた。『信長公記』の執筆姿勢は信頼できるし取材力は驚異的だし、関ヶ原合戦の記録も信用するしかないなあという感じになった。なので自分の中では、いわば「太田牛一」ブランドの前に新説は吹っ飛んだ格好。小池先生によれば、太田牛一の『内府公軍記』の執筆動機は不明だそうだが(言われてみれば何で書いたんだろう)、『信長公記』も含めて貴重な記録を遺してくれた牛一様に感謝である。

| |

2024年9月 9日 (月)

宇土櫓(9月8日特別公開)

今年の4月から熊本城では、宇土櫓の工事現場の特別公開を実施中。自分は6月に行き、3ヵ月後の先日9月8日に2回目の見学。とりあえず瓦は屋根から全部降ろされていた。上層階も壁板が外されて骨組み(軸組みと言うらしい)の状態に。写真は上から南東の角、南西の角、北西の角、北東の角、ぐるりと一周。

2498

2498_20240909200501

2498_20240909200601
2498_20240909200602
今後の予定は2025年度まで解体工事。26、27年度が復旧設計。28年度~32年度に復元工事実施ということで、まだまだ長い道のり。自分も、しばらく熊本城に行くことはないように思う。2498_20240909201101

| |

2024年8月24日 (土)

模擬原爆着弾の痕跡を追う

太平洋戦争末期、アメリカ軍は原爆投下の訓練として「模擬原爆」を日本各地に落としていた。昨日23日付日経新聞記事(模擬原爆の着弾どこに?)からメモする。

模擬原爆は長崎に投下された原爆「ファットマン」(重さ約4.5トン)とほぼ同じ形状。ずんぐりと丸みを帯びた形、オレンジ色の塗装から「パンプキン」と呼ばれ、通常火薬が詰め込まれていた。日本への原爆投下を見据え、担当する米軍の搭乗員らに実戦経験を積ませるため使用されたとされる。

終戦直前の1945年7月20日〜8月14日、福島県から愛媛県まで全国18都府県に計49発が落とされた。犠牲者は400人以上に上り、東京駅の八重洲口周辺に着弾したことも判明している。

極秘の訓練だったため、戦後も長らく詳細が知られていなかったが、1991年に愛知県の市民団体が国立国会図書館所蔵の米軍資料から投下場所の一覧表と地図を発見。各地の専門家らによる調査の結果、大部分の着弾地点が特定された。

だが神戸市、福島県いわき市、徳島県に投下されたとされる計3発については写真や証言が残っておらず、具体的な落下地点は不明のままだ。

「神戸のような大都市に着弾すれば被害に関する証拠が残っているはず。なぜ特定できないのか」。神戸大大学院生の西岡孔貴さん(27)は疑問を抱き、2022年から神戸に落とされた模擬原爆について調査を始めた。

神戸市には1945年7月24日に計4発の模擬原爆が投下された。このうち着弾地点が判明していないのは、同市の中心部近くにあった神戸製鋼所を狙った1発。西岡さんが神戸の空襲に関する史料を調べたところ、地元の警防団副団長だった男性の日記に気になる記述を見つけた。「製鋼所付近及び北方山中に投弾」。日付は7月24日。当時、米軍が撮影した航空写真と照合すると、確かに神戸製鋼所から約2キロの距離にある六甲山系の摩耶山中に着弾跡のようなものを確認できた。全国の模擬原爆を長年研究する「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長(74)=山口県周南市=に協力を求め、2023年12月に金属探知機で現地調査したところ、地表や地中から長さ約5〜22センチの金属片8個を見つけた。

西岡さんらは今年4月に「パンプキン爆弾を調査する会」を結成し、本格的な調査に乗り出した。「戦後79年となり、原爆投下につながった模擬原爆の歴史が忘れ去られないように記録を残したい」と話している。

・・・アメリカは原爆を落とす練習を実地に繰り返していたのかと思うと、やっぱり日本はもう少し早く降伏しとけば良かったのにと無念を覚えるばかりだ。

| |

2024年8月16日 (金)

「さきの大戦」

本日付日経新聞社説(「さきの大戦」と呼ぶ意味を考えよう)から、以下にメモする。

私たちは79年前に終わった戦争を「さきの大戦」と呼んでいる。一般には「太平洋戦争」が定着しているが、政府が公式の呼称として定めたものはない。なぜ「さきの大戦」と呼ぶのか、そこから見えるものを考えたい。

大東亜戦争は真珠湾攻撃の数日後に閣議決定された呼称だ。軍部は大東亜新秩序の建設という戦争目的の意味もあると解説した。大東亜新秩序はアジアの植民地解放というより日本の権益確保が実質であり、つまりは侵略だ。実際、大東亜戦争は軍国主義と深く結びついてきたとしてGHQ(連合国軍総司令部)が公文書での使用を禁じた経緯がある。日本の独立でGHQ指令は失効し、使用可能になったが、その後も政府は公文書に使っていない。

代わりに定着したのが「太平洋戦争」だ。太平洋での米国との戦争は本土空襲や沖縄戦、原爆投下の悲劇を生み、多大な犠牲を払った教訓から二度と戦争を繰り返さないという国民感情に結びついた。
ただ太平洋戦争というくくりではこぼれ落ちてしまう戦争がある。中国や東南アジアなどを侵略した加害の歴史がその一つだ。

多面的な戦争をどうみたらよいか。歴史学者で国立公文書館アジア歴史資料センター長の波多野澄雄氏は、さきの大戦は4つの戦争が重なった複合戦争であり、分けて考えるべきだという。

まず1937年に始まった日中戦争である。最も長く戦った戦争だが、日米開戦後の実態はあまり知られていない。次が日米戦争で太平洋戦争として日本人にとってさきの大戦の象徴である。3つめに東南アジアを植民地にしていた英仏蘭との戦争がある。これは結果として東南アジア諸国に独立の道を開いた。最後がソ連との戦争だ。先の3つの戦争が日本による侵略だったのに対し、ソ連から攻め込まれたという点で様相を異にする。

日本人は激戦の太平洋や東南アジアの戦争には詳しいが、ソ連との戦いや日米開戦後の中国戦線の実相はどこまで知っているだろう。戦争をより多面的にみることができれば、それを防ぐ道筋もさまざまな角度から考えられるはずだ。大切なのは、あの戦争をいつまでも「さきの大戦」にしておくことである。

・・・やはり戦争(というか敗戦)の経験というのは、被害の大きさで記憶されるように思う。4つの戦争のうち、人的物的に莫大な損害を被った対米戦(太平洋戦争)の記憶が、一番重くなるのは当然だろう。2番目は戦闘期間は短いながら、現在も残る北方領土問題の起源であるソ連との戦争か。日中戦争は期間が長いにも関わらず、正直よく知らないのは、攻め込んだ側であるから、という理由も大きいのは否めない。戦争を充分に理解するためには、被害だけでなく加害の記憶も掘り起こす必要がある。

| |

2024年7月 8日 (月)

ワイマール共和国の崩壊

先週放映されたNHK番組「ワイマール ヒトラーを生んだ自由な国」(映像の世紀 バタフライエフェクト)は、1920年代のドイツで起きた出来事を簡潔にまとめた内容だった。最も進歩的な憲法から独裁政治が生まれたとか、民主主義により独裁者が選ばれたとか、面白おかしく言われたりするのだが、やはり当時のドイツの置かれた状況も理解する必要があるのだと改めて思わされた。

第一次世界大戦のドイツ敗戦後、1919年8月に公布されたワイマール憲法には、先進的な項目が並んだ。全国民の平等、男女平等、言論・出版の自由、芸術・学問自由、労働者の団結権、今でいう「生存権」が全ての人に認められた。一方で、革命後の混乱を鎮めるために盛り込まれた「緊急事態条項」(第48条大統領緊急令:公共の安全及び秩序を回復させるため、国民の基本権の全部または一部を暫定的に停止することができる)は、後にナチスの独裁を許し、ワイマール共和国の崩壊に繋がる条項となった。

やがて敗戦国ドイツはハイパーインフレに襲われる。1923年8月に首相兼外相に就任したグスタフ・シュトレーゼマンは、全権委任法(授験法)を成立させた。これは、経済と財政に限り、国会の審議を経ずに首相が法律を制定できるようにする時限立法だった。シュトレーゼマンは、レンテンマルクを発行し、ハイパーインフレを終息させた。さらにシュトレーゼンマンはアメリカに接近、アメリカから投資資金をドイツに呼び寄せることに成功した。ワイマール共和国は、「黄金の20年代」と呼ばれる安定期に入った。

1929年10月3日、シュトレーゼマン急死。同じ月の24日、アメリカ・ウォール街の株価大暴落(暗黒の木曜日)。世界恐慌が始まり、アメリカ資本が引き上げられてドイツも大不況に。政治の混乱が続く中、強い指導者が待望される。

1932年7月31日、ナチ党が第一党に。1933年1月30日、ヒトラーが首相就任。翌2月27日、国会議事堂炎上事件発生。ナチ政権は、大統領緊急令を根拠に大量の共産党員を逮捕した。本来はワイマール共和国の秩序を守るための条項を、ヒトラーは独裁のために利用した。続いてヒトラーは、シュトレーゼマンが経済・財政に限っていた全権委任法の対象をあらゆる分野に広げた。法案成立に必要な3分の2以上の賛成を得るため、ヒトラーは国会の議場前に突撃隊・親衛隊を動員し圧力をかけた。ヒトラーは民主主義の手続きを守る体裁を取り繕いながら、独裁体制を完成。こうしてワイマール共和国は14年余りで崩壊した。

・・・第一次世界大戦後の敗戦国ドイツの不安定な社会情勢の中で、ナチ党と共産党が台頭。保守勢力と組んで政権を成立させたヒトラーは、権力を握るや否や、共産党を壊滅させ、暴力行使も匂わせながら「民主主義」的手続きを進めて、一気呵成に独裁体制を確立した。

先日のフランス総選挙では極右政党が第一党になるかと思われたが、決戦投票の結果、左派連合が最大勢力に。ヨーロッパの分断は深まっている。第一次大戦とスペイン風邪がウクライナ戦争と新型コロナ感染症に、ワイマール時代のドイツがマクロンのフランスに、100年前と現在がダブって見える。歴史は繰り返す、または韻を踏むというが、歴史に学びつつ現在を考える必要を強く感じる。

| |

より以前の記事一覧