2025年8月16日 (土)

昭和40年代の東宝「8.15シリーズ」

昨日15日NHKBSで放映された映画「日本のいちばん長い日」を録画して観た。

昭和42年の作品なので、当時小学2年生で自分は観たわけではない。それでも中学生の頃までには観たようなそうでないような、覚束ない感じだったのだが、反乱兵が上官と争う中で、首が斬り飛ばされる場面があり、これはかすかな記憶があったので、観たことはあるのかもしれない。でも、それ以外は忘れてたので、ほとんど初めて観るのに近かった。(苦笑)

何というのか単純に、迫力あるなあと。最近の戦争映画(これはクーデター未遂映画か)に比べると、俳優の演技にもリアリティあるし。終戦からまだ20年過ぎた頃の作品だからなのだろうか。

それにしても玉音放送の内容、終戦の詔書の文言を短時間で作るのは大変だったと思われる。映画には、「戦局必ずしも好転せず」の部分を巡り、阿南陸軍大臣と米内海軍大臣が対立する場面が出てくる。結局、別の表現を主張していた米内が譲ることで決着する。

この「日本のいちばん長い日」から東宝は「8.15シリーズ」と称して、夏に戦争映画の大作を公開するようになり、昭和43年「山本五十六」、昭和44年「日本海大海戦」と続く。山本五十六も東郷平八郎も、三船敏郎が演じた。「山本五十六」は当時観たような覚えがある。

昭和45年は「軍閥」。これは当時、小学5年生で自分は観た。戦車が出てくると期待して行ったのだと思うが、2.26事件の描写や、特にサイパン島玉砕の場面は、ややトラウマ気味になるなど、何だか暗くシリアスな映画という印象が残っている。

昭和40年代の「8.15シリーズ」では、劇映画として「東京裁判」が企画されたが、費用面から取りやめになったようだ。それが昭和50年代に入って、記録映画に形を変えて、「東京裁判」をテーマに作品が製作される流れになったらしい。その作品が、昭和58年公開の「東京裁判」だ。

昨日は東劇で「東京裁判」を観て、今日は「日本のいちばん長い日」を観て、気分は戦争の時代どっぷり。当時の政治家や軍人の名前を改めて覚える、戦後80年の夏なのだった。

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2025年8月15日 (金)

「玉音放送」の日

東銀座の東劇で、本日一日のみ限定上映の映画「東京裁判」を観た。

自分がこの映画を劇場で観るのは3回目。最初は公開時の昭和58年(1983年)。次がリマスター版上映時の2019年。この時点で36年ぶりだ。まあDVDも持っているので、36年の間、全く作品を観ていないわけではなかったけど。

リマスター版を観た時に思ったのは、1983年はまだ冷戦が続いていたけど、2019年においてはとっくに終わっていたということだ。これは結構大きいなと、その時遅まきながら気が付いた。昭和58年当時は、映画を観て、確かに今は東京裁判とつながっている、あの戦争直後の時代と地続きだと思えたのに、2019年には、東京裁判は過去の歴史だと感じてしまった。この違いは大きい。

リマスター版では、昭和天皇の玉音放送の場面に、天皇の語る内容が字幕として追加されている。昭和20年8月15日の当日に放送を聞いた人々の大部分は、話の内容をよく聴き取れず、しかし天皇の語る調子、声の抑揚から、戦争に負けた、戦争が終わったということは何となく了解したらしい。確かに、字で見ても難しいし、聞くだけならなおさら分からない感じ。とりあえず「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」は分かるかな。(苦笑)

「終戦」ではなくて「敗戦」だ、というのは考え方としては正しいのだろう。戦争が終わった日は、公式には降伏調印した9月2日だというのも、正しいのだろう。しかし、既に戦争は負けると思っていたであろう日本国民の大部分にとって、玉音放送は、戦争の終わりの儀式としては誠に印象深いものだったと思われる。「終戦の日」ではなく、「玉音放送の日」と呼んでもいいかもしれないな。

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2025年1月30日 (木)

「ミスタージミー」の映画

映画「MR.JIMMY」を観た。伝説のロックギタリスト、ジミー・ペイジ。その演奏はもちろん、機材や衣装等も含めて完全再現することに人生の全てを捧げる「ジミー桜井」こと桜井昭夫さん。その活動を追ったドキュメンタリーである。

ロックの映画ではあるが、意外と淡々と進む印象。ジミー・ペイジのライブ、その全ての再現を目指す桜井さんが、機材や衣装の細部まで、エンジニアやデザイナーと打合せする等の、地道な取り組みが映し出される。そして、遂にジミー・ペイジと出会い、本人からの絶賛を得て、アメリカへと渡り、レッド・ツェッペリンのコピーバンド「レッド・ゼッパゲイン」に加入。いよいよ怒涛の展開かと思いきや、ゼップ・サウンドの完全再現を目指すジミー桜井の職人的な拘りと熱量は、バンドメンバーとの軋轢を生んでしまう。思うように自分の理想を実現できないジミー桜井。その表情には疲労の色が浮かぶ。

この辺は、そうなるだろうなーという感じのするところ。ペイジのギターの再現は、ジミー桜井一人でやれるわけだが、バンドの音楽の再現は一人ではできないわけで、ジミー桜井と同じ考え方、かつ実力を兼ね備えたメンバーが必要になる。しかし、そんなメンバーを探し出すのは簡単ではないよな。

伝説のバンドのサウンド完全再現には、ビジネス面と時代性からの懸念が付き纏う。単純に考えれば余りにもマニアックなわけで、こんなパフォーマンスを求める人がどれだけいるだろうか。想定されるマーケット規模からも、儲かるとは思えない。そして、再現対象は50年前の音楽、下手をすれば「時代遅れ」の烙印を押されかねない音楽であり、はたして今の時代に、当時の音楽を当時のまま演奏することにどれだけ意義があるのか、と問われるのも避けられない。要するに「今なぜツェッペリン?」だ。

しかしジミー桜井の信念は揺らがない。なぜなら、ジミー・ペイジは問答無用で最高なんだから。自分を無にして作り上げた「ジミー・ペイジ」を、オーディエンスにプレゼンする活動は今も続く。自分のバンド「Mr.Jimmy」で演奏し、そしてジョン・ボーナムの息子であるジェイソンとのツアーも行っているという。

思うに、「ジミー・ペイジ」の再現は、ギターのテクニックとサウンドがクリアできれば、充分OKだろう。でも、「レッド・ツェッペリン」を再現しようと思ったら、ネックになるのは「ロバート・プラント」だろう。歌もそうだけど、あんなルックスの人、見つけてくるの大変だぞ。(苦笑)

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2025年1月 3日 (金)

「マルサの女2」とバブルの時代

バブル時代の空気感を知りたければ、「マルサの女2」を観ればいい。というのが自分の確固たる意見。地価が限りなく上昇していく時代の真っ只中、1988年1月に公開された伊丹十三監督の映画「マルサの女2」は、後にバブルの時代として振り返ることになる当時の空気感を、見事にパッケージした作品になっている。以下に、日経電子版の2日付発信記事(土地とカネの高揚再び 「マルサの女」が描いた欲望)からメモしたい。

大音量の音楽、ほえる大型犬、鳴りやまない電話——。地上げ屋の顔も持つ宗教法人の巨額脱税と、国税局査察部(通称マルサ)との攻防を描いた映画「マルサの女2」。1988年に公開された同作の地上げ風景は、当時の人々には決してフィクションとは言い切れなかった。

故三国連太郎さんが演じる男は、マルサの取り調べに「俺は国のために地上げやってるんだよ」とすごむ。東京を世界の金融センターに成長させるためには、世界中の企業を集める必要があると説いた。

故伊丹十三監督が、マルサの女で掲げたテーマは「日本人とお金」。映画の製作発表記者会見では、「金銭をめぐる人間の欲望のむなしさを表現したい」と語っていた。

・・・記事は、バブル崩壊と共に土地の値上がり神話も泡と消えたが、近年、「地面師」の活動など、土地とカネを巡る事件が再び起きている、と述べる。最近の配信ドラマも話題になったということだが、かつてのバブル時代は熱に浮かされたような危うさが感じられたのに対して、最近の事件には得体の知れない暗さがあるようだ。いずれにせよ、土地取引絡みの事件が目立つようになるのは、時代が病んでいる兆候でもあるように思う。

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2024年12月20日 (金)

映画「ソウルの春」

先日の韓国の非常戒厳は結局、「なんちゃって戒厳令」みたいな結末に至ったが、その余波である政治混乱は今も続いている。韓国内では、この出来事は映画「ソウルの春」みたいだという話がSNSで飛び交ったようだ。何それ、と調べてみると、去年23年に公開されて韓国民の4人に一人が観たという大ヒット作とのこと。で、日本では今年の夏に公開されていた。じゃあ観てみようかと思ったが、年寄りは「配信」で観るというのがどうも苦手で、現在の劇場上映は東京のミニシアターだけとなっているのだが、とにかく映画館でやっているのならと、名古屋から東京まで遠征して観てきた。

その「ソウルの春」、歴史エンタテインメントとしては秀逸な作品。フィクションではあるが、1979年10月26日に起きた朴大統領暗殺事件から2ヵ月も経たない12月12日に起きた軍部のクーデターという出来事をベースにしている。史実は、この事件により軍部を掌握した全斗煥が、翌1980年5月の民主化運動を弾圧した光州事件を経て大統領となるわけで、79年12月のクーデターは全斗喚が権力基盤を固める第一歩となった出来事といえる。

映画は、反乱将校チョン・ドゥグァンと、首都警備司令官イ・テシンの二人を軸に、クーデター事件の顛末を描く。史実に基づいているので、結末は分かっているにも関わらず、映画的なヤマ場がいくつも用意されている緊迫感溢れる進行の中で、警備軍と反乱軍の優勢と劣勢が度々入れ替わるなど、最後までどちらが勝つか分からないような展開。

政治ドラマであるから、正義と悪の戦いとは言い切れないのだが、「失敗すれば反逆、成功すれば革命」と叫ぶチョン将軍はちょっとアブナイ感じの人。軍部内に作り上げた自らの派閥「ハナ会」を率いて野望を果たそうとする。対するイ・テシン司令官はめっちゃハンサムな人で、夜の闇の中「救国の英雄」イ・スンシンの像を見上げながら最後の「決戦」に向かうなど、悲劇のヒーロー的でもある。二人のキャラが対照的に設定されているだけに、最後は「悪役」が勝ってしまう結末は、史実通りとはいえ、何ともやるせないものがある。

主人公二人の対決を決着させるのは、しょーもない「あの人」という意外性や、イ・テシンの体を気遣う妻という泣かせどころもあり、よくできてる映画だなーと思う。

「先輩」とか「兄貴」という言葉が頻発するのは、長幼の序にうるさいであろう韓国らしいなーと思わせる。それから登場人物がやたらにタバコを吸うのも、そういう時代だよなという感じ。

今は人名は現地語読みだから、朴大統領はパク大統領だけど、昔は日本語読みしていたので、「ボク、大統領」とかオヤジギャグのネタになっていた(苦笑)。全斗煥もゼントカンだったし。ところで実を言うと、全斗煥とノテウって兄弟分だったんだと、映画を観て初めて知った。(苦笑)

今年のノーベル文学賞受賞者ハンガンさんには、光州事件をテーマにした小説「少年が来る」がある。今回の戒厳令騒ぎの時、授賞式出席のためスウェーデンにいたハンガンさんは大変ショックを受けたとのこと。何だかこれも凄いタイミングだよなあと思う。

光州事件は当時の自分にはあまり印象が無くて、やはりその9年後の中国・天安門事件の方が、民主化運動弾圧の事件として記憶に残っている。

とにかく「ソウルの春」やハンガンさんのおかげで、もっと韓国現代史を知った方がいいな、という気分になっている。

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2024年11月25日 (月)

『SHOGUN 将軍』劇場公開

先週、期間限定で劇場公開された『SHOGUN 将軍』(第1話と第2話)を観た。

言うまでもない、アメリカのエミー賞受賞作品。今年9月に作品賞、主演男優賞、主演女優賞ほか、史上最多の18部門を受賞したドラマシリーズである。主演の真田広之がプロデューサーも兼ねて、日本文化を正しく伝える時代劇を目指して作り上げた作品が、まさに歴史的快挙を成し遂げたとして、日本のエンタメ界を大いに賑わせたニュースだったのは記憶に新しい。

いわば「本物の時代劇」を目指した『将軍』だが、第1話と第2話を見る限りでは、本物感がそれほど強い印象ではなかった。というのは、ストーリーは日本に漂着したイギリス人の船乗りを中心に進むし、当時の日本に広まっていたキリスト教カトリックの国(ポルトガル、スペイン)と、後からやってきたプロテスタントの国(オランダ、イギリス)の対立を強調する場面がいやに目立っていたからだ。さらに、主人公の武将「吉井虎永」とそのライバル「石堂和成」を含む「五大老」、つまり日本の最高クラスの権力者たち5人のうち2人がキリシタン大名。そのカトリックの2大名が、プロテスタントのイギリス人を速やかに抹殺するよう求めるなど、当時のヨーロッパの新教と旧教の対立が日本にも持ち込まれているという、何だかかなり妙な感じのするストーリーなのだった。お話のベースとしているのは、1600年の「関ヶ原の戦い」直前の時代で、確かに16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代であり、その結果としてカトリックのイエズス会が日本にキリスト教を伝えたようなものだけど、日本のキリシタンにプロテスタントを目の敵にする気持ちがあったとは思えないわけで。その辺はキリスト教ベースの西洋人にも入りやすいストーリーにしているのかもしれないが、日本人にはやや奇妙な感じのする「時代劇」になっているというのが、正直な感想。

「インスパイアされた」という言い方になっているが、登場人物にはモデルがあり、吉井虎永は徳川家康、石堂和成は石田三成。フィクションなので別にいいけど、石堂は五大老のひとり(史実は五奉行)で、虎永とほぼ対等感のある人物にグレードアップ。五大老のひとりに、大谷吉継にインスパイアされたと思われる武将がいるが、なぜかキリシタン大名で、ハンセン病が重くなって見た目がグロい感じになっているのが、ちょっと嫌だな。(汗)

もしかすると第3話以降、より本格的な時代劇になっていくのかも知れないが、今のところ配信で見る気もあんまりしないなあ。

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2024年10月14日 (月)

円谷映画祭2024

円谷映画祭2024「浪漫のものがたり」を観た。ウルトラマンのリマスター版4作品から成るオムニバス映画。4作品は「科特隊出撃せよ」「悪魔はふたたび」「怪獣殿下前編」「怪獣殿下後編」。登場怪獣はネロンガ、アボラス、バニラ、ゴモラ。

この中で自分が一番好きなのは「悪魔はふたたび」。古代文明が封じ込めた怪獣が復活して都市破壊を行う。良いです。ウルトラシリーズの伝家の宝刀的ストーリーかもしれない。もちろん単純に、怪獣が2匹出てきて戦い、さらにウルトラマンと戦う内容が濃いなあ、と思う。アボラスとバニラのデザインも良い。下の写真は、成田亨画伯の手になる「怪獣カード」のバニラとアボラスだが、バニラはタツノオトシゴがヒントになっているらしい。アボラスの体はもちろんレッドキングだが、頭部のデザインは何から発想したのか見当も付かない。

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ウルトラマンは既に60年近く前の作品になるわけだが、傑出した怪獣デザイン・造形に対する評価は今でも高いように思う。ウルトラマン本放送時、昭和41年の小学1年生だった自分は、「ウルトラマン」直撃世代と言ってよいが、「ウルトラQ」と共に、その世界観に深く影響されていると感じる。

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2024年4月12日 (金)

映画「オッペンハイマー」

昨年夏にアメリカで公開された映画「オッペンハイマー」。今年春にアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞など7部門受賞。そして3月末にようやく日本でも公開の運びとなった。何しろ上映時間3時間。自分も年なので、2時間を超える映画を観るのはしんどくなってるし、洋画なので字幕だし、吹き替え版もないしで、それなりに覚悟して映画館に出向いたのだが、演出テンポが良いということなのか、それ程長いという感じはなく観終わった。

物語は、天才科学者オッペンハイマーがリーダーとなって進める原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を中心に、戦後の「赤狩り」に巻き込まれたオッペンハイマーの聴聞会(クローズドヒアリング)そして公聴会(オープンヒアリング)の三つの流れが、時系列を前後させながら展開されていく。

公聴会場面の中心人物はストローズという政治家で、オッペンハイマーを窮地に陥れた人らしいのだが、果たしてこの人物の話は必要だったのか。この場面はモノクロ映像になるのだが、どういう効果を狙ったのかよく分からなかった。

聴聞会の場面でも、小さな部屋でヒアリングを受けているオッペンハイマーが突然素っ裸になって、なぜかその場にいないはずの昔の恋人とヤリ始めるというヘンなシーンがある。厳しい追及から逃避する気持ちでも表わしているのか何なのか、でもこれ必要かなあと思った。この場面の撮影って、役者さんたちはみんなどんな気持ちで演じていたのだろう、などと余計なことを考えてしまった。

オッペンハイマーとトルーマン大統領の対面場面。「私の手は血塗られている」と言うオッペンハイマーに対し、トルーマンは「日本人が恨むのは爆弾を作った者ではなく、落とした者だ」と言い放つ。よっ、大統領、さすがよく分かってらっしゃる。確かにトルーマンは、日本人にとって最悪の大統領だ。でも、もしルーズベルトが生きていたとしても、やはり原爆を落としたのではないか(小林よしのり『戦争論3』を読むと、そう思う)。

アメリカの原爆開発は、ナチスドイツへの使用を想定していた。しかしドイツは降伏。その後原爆実験は成功。新兵器の威力をソ連に見せつけたいアメリカ。結局、敗北を認めようとしない日本に、原爆は使われることになった。実験が成功してなかったら、日本がさっさと降伏していたら、とは思うのだが、全てのタイミングの連なりは、日本にとって最悪の結末に行き着いた。

ヒロシマ、ナガサキの惨状は描かれないのだが、この映画はオッペンハイマーの原爆開発の物語であり、クライマックスは原爆実験成功であるから、その後の原爆投下は物語の本筋からは外れるということなのだろう。その原爆実験成功の場面は、「我は死、世界の破壊者」のモノローグと共に、まさに黙示録的な様相で迫ってくる。実験成功を喜ぶ科学者たち。お金と時間を使ってきた一大プロジェクトの成功を祝うのは、当然のことだろう。そして戦後、オッペンハイマーは共産主義者との関係を問われ、スパイ疑惑もかけられる。オッペンハイマーの人生、その栄光だけでなく転落も描き出して、映画は終わる。

公聴会のシーンが無ければ、内容ももう少しまとまりが良くなり、上映時間も短くなって(苦笑)、文句の付けられない作品になったと思う。

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2024年1月14日 (日)

映画「PERFECT DAYS」

カンヌ映画祭で、役所広司が男優賞を取った映画「PERFECT DAYS」、ヴィム・ヴェンダース監督作品を観た。

ヴェンダースの名作「ベルリン・天使の詩」のマジックをちょっと期待したけど、当てが外れた。

役所が演じる主人公の平山は、公衆トイレ掃除の仕事をしているシニアの独身男性。公衆トイレ掃除というのも、誰かがやんなきゃいけない仕事だけど、やりたがる人はあんまりいないよなあ。

平山の住んでる古いアパートは、東京スカイツリーの立つ押上近辺にあるようだ。朝起きると、平山はたくさんの小さな鉢植えに水をやる。仕事に向かう時に、車の中でカセットで聴く曲は、ボーカル主体の古めかしいロック。仕事はひたすら丁寧にやる。お昼は公園に行き、サンドイッチを食べ、フィルムカメラを木の枝葉に向けて木漏れ日を撮る。仕事が終わった後は町の銭湯へ。富士山のペンキ絵の掛かるニッポンの伝統的な銭湯で、一日の汗を流す。それから自転車に乗って、隅田川に架かる桜橋を渡り、浅草の松屋デパート付近の地下にある一杯飲み屋に顔を出す。地下鉄の駅にもつながるその場所は、地下街と言うより地下通路に店が出ている感じで、「昭和」のままだ。平山の一日は、古本屋で買った文庫本を夜、寝る前に読んで終わる。

平山は小さなバーの常連客でもある。そこのママさん役を演じるのは石川さゆり。着物姿で、演歌ではなく「朝日のあたる家」(日本語詞)を歌う。 何か妙な感じ。

平山は無口な男という設定。喋らなさ過ぎて、ちょっと気持ち悪い(苦笑)。平山の若い同僚を演じるのが柄本時生という役者さん。いかにも今風の、おっさんから見るとイラっとする感じの若者(苦笑)。まるで素でやってるみたいで、これを演じているのならば凄い。

まあ「完全な日々」というより「静かな生活」という感じで、基本的に、物静かな主人公のルーティーン的な日常を淡々と映し出していく。そういう作品だというのは分かるとしても、正直もう少し主人公の過去を説明してもらわないと、感情移入しづらい。ラストシーンの役所さんの表情だけで、主人公が背負ってきたものが伝わってくるかというと、そこまではいかないなあという感想。

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2023年11月25日 (土)

昭和40年代ゴジラ映画

雑誌「昭和40年男」12月号の特集は「俺たちのゴジラ」、副題は第二次怪獣ブーム世代の逆襲、とある。リアルタイムでは昭和46年の「ゴジラ対ヘドラ」から始まる「昭和40年男」のゴジラ観を考える。というものだが、昭和34年生まれ第一次怪獣ブーム世代の自分も考えてみたいテーマだなと思う。

自分が初めて観たゴジラ映画は昭和41年の「南海の大決闘」。翌年の「ゴジラの息子」も観た。ゴジラは襲来して都会を破壊する怪獣ではなく、南海の島にいる怪獣。43年の「怪獣総進撃」でも、ゴジラ始め怪獣たちは「怪獣島」に集められて、ひとまず人類の管理下にあった。11匹の怪獣が登場する「怪獣総進撃」は(第一次)怪獣ブームの総決算的作品とも言われた。

44年末から「東宝チャンピオンまつり」が始まったが、ゴジラ映画の新作「オール怪獣大進撃」は、ちょっとショボい印象だった。以後チャンピオンまつりは、春休み、夏休み、冬休みのプログラムに。自分は、昭和30年代「キングコング対ゴジラ」以降のゴジラ映画はチャンピオンまつりのリバイバル上映で観て、初期の「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」はテレビで観た。やはりゴジラ映画の頂点は、「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」だと思う。ゴジラの造形(いわゆる「キンゴジ」「モスゴジ」)も含めて、だ。

「怪獣総進撃」から3年後の46年、テレビではウルトラマンも帰ってきて、第二次怪獣ブームに突入。ゴジラも再び本格的に動き出す。小休止後の最初の相手は公害怪獣へドラ。異色の怪獣映画として知られる「ゴジラ対ヘドラ」だが、これが「昭和40年男」の最初のゴジラ映画体験だとすると、怪獣映画に対する感覚がおかしくなりそうだ(苦笑)。自分は小学6年生の時に観たわけだが、とにかく暗い印象だし、「水銀、コバルト、カドミウム~」(歌)だし、ゴジラが丸まって空を飛ぶし、戸惑い感は結構強くて、子供心にも低予算(逃げ惑う群衆が出てこないとか)だなと感じていた。続く47年の「ゴジラ対ガイガン」は、キングギドラとアンギラスも出てくるのは良いのだが、過去作品のフィルム利用とか、何かいまいちな感じだった。この年、自分は中学生になり、次回以降のチャンピオンまつりはパス。メガロやメカゴジラは見なかった。(その後54年日劇におけるゴジラシリーズの企画上映時に、「ゴジラ対メカゴジラ」は観た)

ヘドラについては昨年(2022年)初夏、「特撮美術監督井上泰幸展」を観た時に、改めて「ゴジラ対ヘドラ」公開当時について感じ入るものがあった。1971年のヘドラの後、東宝映画は73年から74年、「日本沈没」と「ノストラダムの大予言」で大ヒットを飛ばした。この破局的パニック映画の連発で、当時の少年少女は多かれ少なかれ終末観を持たされたのではないか(苦笑)。ヘドラは、その終末観ブームの先駆けだったとも言えるし、そういう意味でも「ゴジラ対ヘドラ」は特異な作品だったと思う。

昭和50年春「メカゴジラの逆襲」で、昭和40年代のゴジラ映画、人類に味方するゴジラのシリーズは終了。その約10年後、冷戦のぶり返しから核戦争の可能性が取り沙汰される時代の中で、ゴジラは再び核の化身として復活する(1984年版「ゴジラ」)。そして「平成ゴジラシリーズ」が、手を変え品を変え作られ続けたが、シリーズが進むにつれて、物語の輪郭がぼやけていった感がある。やはり、ゴジラは単なる「人類の敵」以上に、明確な脅威として具体的に性格付けられないと、ゴジラ映画の魅力も乏しくなるように思う。

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