2026年9月 4日 (金)

映画「ちいかわ」を観た

親子連れで満員の夏休みの映画館で見終わった子どもが泣いていた。「どうして?」「どうなったの?」(8/30付日経新聞コラム「春秋」)

・・・何かと話題の「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」。夏休みも終わり、子どもたちの姿は目立たなくなった映画館に足を運んで、小生も拝見した。

基本的には、「ちいかわ」の仲間みんなで力を合わせて怪物セイレーンを撃退するお話。怪物と言っても見た目は十分ゆるいのだが、ちいかわと仲間たちが襲われる場面は結構ハラハラドキドキする。しかし何しろ当方の予備知識は殆どゼロだから、可愛いキャラクターたちの仕事が「討伐」ってどゆこと?「草むしり検定」とか何それ?みたいな感じもあったけど。(苦笑)

主要キャラクター以外のその他大勢は、みんな二頭身ノッペラボーで声は出すけど言葉はしゃべらないし、ちょっと「手抜き」っぽい。(苦笑)

で、観た人がいろいろ考えさせられるという事態は、人魚を食べると永遠に生きられる、という設定から発しているわけだけど、これはちょっと設定のやりすぎの感がある。せめて人魚の鱗が万能薬になる、くらいにしておけば、殺して食べる(煮付けにするのは笑ってしまうけど)とか怖い話にならなかったのではないか。何しろ人魚殺しの犯人である島民二人も、ノッペラボーなので感情移入しにくいし(苦笑)。とはいえ、逆に島民をはっきりキャラ化したら、そちらの存在感が大きくなって、基本的に怪物退治というお話のバランスが崩れるだろうし。

それにしてもエンドロールが終わった後、本当に最後のエンドシーン、海面に再び現れるセイレーンの後姿を観て、ああなるほど、これでいろいろ世の中に波紋が広がっているのかと納得した。日経コラムにある子どもたちは、最後に島民の取った行動の理由(どうして)や、結局セイレーンは次に何をするのか(どうなったのか)が、分からなくて不安になり涙を流したのだと推測する。心優しく感じやすい子どもたちに幸いあれ。

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2026年8月11日 (火)

「開戦前夜」と「東京裁判」

戦後80年の昨年、NHKは『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹の著作)を基にしたスペシャル番組を放送。そして一年後、その番組のドラマ部分の拡大版である映画「開戦前夜」が現在公開中。昭和16年に官僚や軍人など若きエリートたちを集めて作られた「総力戦研究所」が、日米もし戦わば「日本必敗」との結論を出す過程を描き出している。

日米関係が極度に悪化する中で、総力戦研究所の面々はデータを持ち寄り分析と議論を行い、国力で圧倒的な差があるアメリカとの戦争が長期化すれば、日本は必ず負けるという結論を、当時の近衛首相始め内閣の大臣たちに報告する。にも関わらず、日本は対米戦争の準備を加速して、昭和16年12月8日に開戦に至る。

映画では総力戦研究所の報告の後、近衛首相の後を受けた東条首相の苦悩や、国民の戦争気運の高まりなどの場面も追加的に入れてくるけど、全体の構成としては研究所の報告で大体終わった方が、話のまとまりが良かったかも。

この映画のある登場人物の描き方について、実在の人物の遺族から訴訟が起こされているわけだが、第三者から見ると、どれくらい故人の名誉が毀損されているのか分からないので、何とも言えないのが正直なところ。製作者側は「あくまでもフィクション」だと主張しているし、まあ史実を基にしたフィクションとして、許容される範囲の演出じゃないかなあと感じる。

映画の内容に戻ると、緻密な分析により日本の敗北は予見されていたにも関わらず、その時の「空気」で戦争に突き進んだ、みたいな描き方ではあるのだが、それも果たしてどうなのか。山本五十六の有名な言葉もある(戦争となれば「初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ」)ように、長期戦になれば日本の勝ち目は乏しいと考えていた人は少なくなかったのではないか。

日米戦争に突入した要因としては、対日石油輸出禁止などアメリカの姿勢が一段と強硬になったのも大きかったと思う。最終的に、いわゆるハル・ノートが日本を戦争に追い込んだとも言える。映画「東京裁判」には、アメリカが対日戦争を充分意識していたことが窺える場面がある。ブレークニー弁護人(東京裁判で日本側の弁護に大活躍したアメリカ人)が、米国務長官特別顧問のバランタイン証人を質問攻めして、様々な証言を得る。アメリカは、日本はハル・ノートを受け入れないだろうと考えていた。つまりハル・ノートは事実上の最後通牒となった。またルーズベルトは、傍受した日本政府の電報の内容について「これは戦争を意味する」と語った。東京裁判で、アメリカは日米開戦を充分予期していたことが明らかになったのだ。

アメリカは、連合国側で参戦する機会を狙っていた。自国の都合である参戦実現のため、日本に飲めない要求を突き尽きて戦争に追い込んだ、とも言える。後に、ポツダム宣言を予想通り日本が受け入れなかったと見るや、すかさず原爆を落としたアメリカ。恐ろしく狡猾かつ冷酷な国である。

いずれにせよ、「アメリカ何するものぞ」という機運が日本で勢いづいたのは、無理からぬ面もあったように思う。とはいえ、まずはいったん踏み止まるところではあったのだろう。そう言えるのも結局は、後知恵でしかないのだが。

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2026年7月10日 (金)

ウルトラマンを語る映画

映画「THE ORIGIN OF ULTRAMAN」は、「ウルトラマン」放映開始60周年を記念して作られたドキュメンタリー作品。現在活躍中の映画監督やゲームクリエイター、評論家、当時の出演者や制作スタッフなどのインタビューと、作品映像から構成されている。

日本人の映画監督は、是枝裕和(62年生)、庵野秀明(60年生)、樋口真嗣(65年生)が出演して、ウルトラマン愛(庵野氏に言わせれば呪縛)を語る。小生(59年生)と同世代と言える彼らの話には共感しかない。

外国人監督や作家からたびたび指摘されるのは、ウルトラマンは単なる勧善懲悪の話ではない、ということ。正義と邪悪の戦いではなく、陰と陽の対立である、という。西洋的なモンスターは単に邪悪であり、「怪獣」はそれとは違う存在であると、外国人が強調するのを見て、「君たち分かってるね」と、我が事のように自分も満足感を覚えた。

おそらく「ウルトラマン」に登場する怪獣は、「ウルトラQ」の怪獣の基本的な性格をそのまま引き継いでいると思われる。ウルトラQの怪獣は、自然界のバランスが崩れた時に出現する異形の存在、まさにカオスといえる。そして怪獣出現によりカオスに陥った世界に降り立ち、コスモスを回復するのがウルトラマン、ということになる。

映画の中心はウルトラマンではあるが、ウルトラQの映像も出てくる。ゴメスやペギラは迫力あるし、ラゴンやケムール人は不気味だし、大画面で見ると改めてその凄さに驚く。なるほどウルトラQはもともとドキュメンタリータッチの作品なので、そのタッチがモノクロ画面で余計に強調されているように感じた。だからなのか、ウルトラQは結構怖い。カネゴンですら、子供心に結構怖かった覚えがある。

当時の出演者のインタビューは、科学特捜隊の黒部進(ハヤタ)、桜井浩子(フジ)、毒蝮三太夫(アラシ)、存命のお三方。自分的には、イデ隊員の二瓶正典もいてほしかったなあ。新兵器を開発するイデは基本的に頭脳派でノリは軽いけど、時にシリアス、時にうじうじ悩む、とても人間味のあるキャラ。それに比べると、ハヤタ隊員というのは人物的にはよく分からんかったな。

昭和41年のウルトラマン放映時、僕は小学一年生、いわばウルトラマンの直撃世代。ゴジラと合わせて、円谷の洗礼をもろに受けたなあ~とつくづく感じる。そして、いつも思うことだが、天才たちがよってたかって作り上げたウルトラ作品を、子供の頃に見れて本当に幸せだったと思っている。

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2026年7月 6日 (月)

映画「ヒロシマ、モナムール」

先日、たまたま企画上映の予定が目に付いた映画「ヒロシマ、モナムール」(1959年、日仏合作)を観た(横浜シネマリン)。

この映画、自分は40年以上前に一度見たきり。しかも冒頭のシーン以外は全く覚えていない(苦笑)。ほぼ何の印象も無いのは、よく分からなかったということなんだろうな。

その冒頭のシーンは裸で抱き合う男女、といっても映し出されるのは殆ど男の背中。最初に、砂のような粉のようなものが身体に流れ落ちてくるのは何を暗示しているのか。

さらに原爆投下直後に被災した人々の再現映像?が出てくるのは、ビックリした。後で調べたら、これは「ひろしま」という映画の場面が挿入されている、ということらしい。(この「ひろしま」も、横浜シネマリンで来月上映予定)

広島で出会ったフランス人女性と日本人男性、彼らの言葉と表情が物語を進めていく。女はヌベール出身、かつてドイツ人と恋に落ちたがために、後に制裁を受けた過去があった。男は原爆で家族を失った。ただし、映画では女の記憶は描写されるが、男の過去は言葉で語られるだけだ。映画の中心は、女の記憶にあるように見える。男はただ、女の記憶を蘇らせるための存在でしかないように思える。「二十四時間の情事」(公開当時の邦題)ではあるのだが、情欲絡みの身体性はむしろ希薄な印象。

ビールを飲みながら語り合う二人。感情が高ぶった女を、男が突然往復ビンタするのはビックリした(映画の中でも店内の客が驚いて振り向く)が、謎のシーンだな。活を入れたのか。アントニオ猪木か。(苦笑)

ラストシーン、なぜ「あなたの名前はヒロシマ」「君の名前はヌベール」なのか。戦争の記憶としては、甚大な被害を受けた広島と、個人的なトラウマの場所であるヌベールでは釣り合いが取れない。結局、なぜ広島が舞台になっているのか、よく分からなかった。

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2026年6月28日 (日)

映画「カミング・ホーム」

どっかの映画館で予告編を見た「カミング・ホーム」。主人公は一人暮らしの高齢者男性。自分も前期高齢者なので何となく興味を覚えたし、その主人公の家の裏庭にいわゆるUFO、空飛ぶ円盤が墜落して平穏な生活が一変する、ような話であるのも、割と気楽に見に行ける感じだなと思っていた。のだが、いつのまにか公開から3ヵ月過ぎて、先日ようやく観ました(下高井戸シネマ)。

観て驚いたのが、ガチで宇宙人出てくる。そして高齢者三人(主人公と隣人女性二人)とマジで交流してる。これはそういう映画だったのか(笑)。

交流といっても、小さなヒト型のエイリアンは何もしゃべらない。スライスしたリンゴばかり食べてる(笑)。人の話を何でもじっと聞いてくれるエイリアンに、女性たちは自分のことを語り続けて嬉しそうだ(笑)。女性の一人は、エイリアンにジュールズ(この映画の原題は「Jules」)という名前を付ける。もう一人は違う名前で呼ぶ(笑)。

主人公たちは、ジュールズが円盤を修理して飛ばすのに、死んだ猫が7匹必要(どういう設定なんだ 笑)であることを理解して、手助けを始めるのだが・・・。というストーリー。

こういう話というのは、三人の少年少女が、大人たちには秘密にして、宇宙人が無事UFOを修理して宇宙に帰るのを見届ける、というのがオーソドックスな設定だと思うんだけど(苦笑)、何しろ主要人物が高齢者なものだから、彼らの人生経験をいくばくか反映した哀愁とほろ苦さの感じられるファンタジーになっている・・・のが妙な味わい。意外と佳作な感じがした。

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2026年2月14日 (土)

キューブリック2大作品

名作映画の企画上映「午前十時の映画祭」、今月はスタンリー・キューブリック月間という感じで、「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」の2本を、都内では7館(ただし、TOHOシネマズ新宿は今月24日まで休館)で上映中。この機会に、自分も両作品を40年以上ぶりに映画館で観ることにした。

2001

「2001年宇宙の旅」
難解で鳴るSF作品。とはいえ、例の黒石板?とか宇宙船長の再生?とか地球大の胎児?とか、その他諸々説明不足の内容なので、訳分からんというのは普通の感覚かと。何でも、小説の方を読むと分かるらしいが、怠惰な僕は読んでないから、どうしようもない。でも、人類の進化の話、人工知能の反乱の話、それが宇宙空間を舞台にしている、というその組み合わせが何かいまひとつしっくりこないような気分も残る。ただ、AI時代に突入した現在、「ハル」コンピューターの話はかなり実感が増している印象。そして、人工知能が意思を持つまでに進化した時こそ、人類も新たな段階(「ツァラトゥストラはかく語りき」が意味するであろうニーチェの「超人」)に移行しなければならないのだ。という風に理解してもいいのかも、などと思った。

「時計じかけのオレンジ」
ストーリーは殆ど忘れてた。記憶に残っていたのは最初のシーンと最後のシーン、そして作家の家での暴行場面(苦笑)。昔は「修正」が入ってました。なので今は修正は無いのだ、ということを確かめに行ったという感じもある(苦笑)。字幕については、更新されているのだろうか。昔観た時の最後のセリフは、これで完全に逆戻り、と記憶していた。今回は、完ぺきに治ったね、である。最後の場面の主人公アレックス(マルコム・マクダウェル)の「凶悪復活」の表情もなかなかのものだが、作家役の俳優さんの「顔芸」も強烈。(笑)

いろいろな意味で、両作品とも傑出した出来映えだと思うが、好きかと言われると「うーん」という感じになりますね。

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2026年1月16日 (金)

岡田奈々!

先日、映画「五十年目の俺たちの旅」を、吉祥寺オデヲン座で観た。平日の映画館の中は、シニアだらけ(お前もだろ 苦笑)だった。

このドラマ、自分の年代的にはリアルタイムなんだけど、実はそれほど熱心に見てなかった。当然、その後のスペシャルドラマ「十年目の~」「二十年目の~」「三十年目の~」も見てないし、到底ファンとは言えないワタシだが、今回「五十年目の~」が作られたこと自体は凄いなと感じたので、観ることにした次第。

ちなみに、同じ頃の日本テレビ系「飛び出せ!青春」、村野武範主演の学園ドラマ(レッツビギン!)に出てくる高校生・木次君は、結構自分の好きなキャラだったが、演じていた森川正太(故人)は「俺たちの旅」にも浪人生役で出ていて、今回の映画の中でも過去映像でちらほら映っていた。

さて「五十年目の~」だが、まずは岡田奈々である。昔(50年前 汗)、何かのCMで、セーラー服姿の彼女をテレビで見た時、同い年でこんな可愛い子がいるのかと、驚愕した覚えがある。映画の中にも過去映像で、母子役の八千草薫と岡田奈々が抱き合うシーンがあるが、画面に満ち溢れる女性美に息を呑む。母が八千草薫、田中健と岡田奈々が兄妹だから、美男美女すぎる家系だあ~(笑)

全体的なお話の印象としては、やや暑苦しいし少々説教臭いし、やはり「昭和の」という形容を付けざるを得ない。何となく落ち着きどころを得ない男たちの有り様が、切ないとか寂しいとか、かなりセンチメンタルな色合いで描かれるという按配。まあ自分も、このドラマから伝わる感覚的なものは分かると言えば分かるのだが、全面的に共感できるかと言われれば、それはないなあ。カースケ(中村雅俊)の昔の恋人洋子は既に亡くなっているのだが、物語の前半に、その洋子の言葉をカースケに無理やり思い出させる「仕掛け」がある。じゃあそれでカースケが何か行動するかというと、特にそういうことはなく、後半はオメダ(田中健)の気持ちにカースケやグズ六(秋野太作)が動かされていくという展開。正直言うと、金沢碧が演じていた洋子は魅力的な女性とは思えなかったので、それもドラマをあんまり見なかった理由かな。まあ、「青春」の雰囲気は濃厚にあるドラマだとは思うけど、それも小椋佳の作った主題歌の力が大きいかも(苦笑)。で、映画を観終わった後、京王線井の頭公園駅に行ってみました。伝言板は無かったです。(そりゃそうだ 笑)

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2026年1月10日 (土)

ゴッドファーザーの糖尿病

映画「ゴッドファーザーPARTⅢ」で、マイケル・コルレオーネを苦しめる発作は典型的な糖尿病の症状らしい。ブックオフで買った『死ぬということ』(黒木登志夫・著、中公新書、2024年)からメモする。

(敵の襲撃から)かろうじて難を逃れたマイケルは、ストレスと興奮から高血糖昏睡に陥る。その症状、腹痛、呼吸の乱れ、精神錯乱、糖尿病昏睡の症状を(アル・パチーノは)見事に演じきっている。

マイケルは(枢機卿との談話中)、低血糖で倒れる。彼は、震える手でネクタイを緩め、オレンジジュースとキャンディをもらう。オレンジジュース一杯には、糖分が10~15グラム含まれているので、低血糖を補うのにはよい方法である。

椅子からくずれ落ちるように死ぬ最後のシーンは、糖尿病が引き金となった心筋梗塞の可能性が高い。

・・・映画のシーンを思い出すと、改めて糖尿病ってよく分からんが怖い病気だなと感じつつ、やはりアル・パチーノは名優なのだなと思う。

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2025年12月 7日 (日)

バルゴンとギャオスを「一気見」

「角川シネマ有楽町」では現在、企画上映「昭和ガメラ映画祭」をやってる。本日の上映は午前が「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」、午後は「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」、いずれも4Kデジタル修復版の初上映。一日で二本見るのが効率的だと思い、「一気見」した。

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「ガメラ対バルゴン」(昭和41年)は、「大怪獣ガメラ」(昭和40年)に続くシリーズ第2作。当時の子供だった自分がこの映画を見た時は、怪獣よりもサソリがとにかく怖かった。サソリが日本にいなくて本当に良かったと、心の底から思ったものだ。もうトラウマ気味の記憶がある、この映画を自分が観るのは、ほぼ60年ぶり。これだと、殆ど初めて観るようなものだな。

しかしこれってガメラ、脇役なんじゃない? 最初の戦いで、ガメラはバルゴンの冷凍液を浴びて凍ってしまう。その後は、バルゴンに対する人間の作戦が、人工雨で動きを鈍くするとか、特大ダイヤモンドの光で誘導するとか、虹光線を反射して打撃を与えるとか、何だかんだと続いていく。その間にガメラの「解凍」が進み復活。とりあえず人間の作戦で、バルゴンが琵琶湖の近くまで誘い出されていたので、最後にガメラが湖の中に引きずり込むことができたという感じ。

しかしバルゴンは水を浴びると細胞が溶けて血液が流れ出す、要するに水に弱いというのは、「大怪獣」とは思えない設定。そもそも生き物としてどうなんだ感がある。(苦笑)

人間はもっぱらバルゴンに対処するのに精一杯で、ガメラについては「放置」状態。ガメラはガメラで、バルゴンを倒したら、何処かへと飛び去って行く。悪者を倒して去っていく「西部劇のヒーロー」状態。

最後に主役男性が「僕は一人ぼっちなんだ」と言うと、主役女性が「いいえ、一人じゃないわ」と言う。こういう怪獣映画の終わり方は、余り見たこと無いな。(苦笑)

シリーズ第3作「ガメラ対ギャオス」(昭和42年)は、怪獣映画の傑作という誉れも高い。もちろん子供の頃に見たし、もう大分前になるが2009年にも京橋にあるフィルムセンターの企画上映で観た。この作品で、ガメラは「子供の味方」であることをはっきりと打ち出したのだが、まあそれはさておき、とにかく物語の構成がよくできているし、流れもテンポ良く進む。「対バルゴン」は101分、「対ギャオス」は87分で、前者は、人間ドラマや作戦場面が多めの印象。後者にも同様の場面はあるが、物語の主軸はガメラとギャオスの対決3回戦。二大怪獣の戦いの記録ともいえる内容で、結末は分かっていても、どちらが勝つのか観ていてハラハラドキドキしてしまう。

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バルゴンは赤外線で急速に巨大化したとか、ギャオスの体は紫外線で破壊されるとか、赤外線とか紫外線ってそんなに凄いものなのか、よう知らんけど。(苦笑)

ガメラとギャオスが消えた富士山の火口から、超音波光線が空に向けて放たれる。「ギャオスの断末魔だ」。ガメラがバルゴンを琵琶湖水中に引きずり込んだ後、湖上に虹光線が現れる。「バルゴンの断末魔だ」。たぶん子供の頃、これで「断末魔」という言葉を覚えたんじゃないかと思う。(苦笑)

「平成ガメラ」は、自分は最初の「ギャオス」しか観てない。どうもライバル怪獣のデザインがゴチャゴチャしてくると、観る気が出てこない。怪獣映画というより怪物映画という感じになるのが、自分は苦手なのかも。やっぱりガメラは、「昭和」が良いんじゃないでしょうか。

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2025年11月16日 (日)

映画「ボンヘッファー」

映画「ボンヘッファー」を観た。副題は「ヒトラーを暗殺しようとした牧師」。まあ実際は、暗殺を謀る集団に参加したということで、暗殺の実行役を引き受けたわけではないけれど・・・。今年、ナチス絡みの映画を観るのは、春の「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」に続いて二作目。「ゲッベルス」は、自分には特に強い印象を残さなかった。だいいち、役者が本人に似てない。映画のゲッベルスでは、もう大昔の作品だけど、ソ連映画「ヨーロッパの解放」に出てくるゲッベルスさんが最高だった。

閑話休題。ボンヘッファーの映画だが、まず違和感があったのは、ドイツなのに英語を話していること。また大部分の場面に「劇伴」音楽が付いているのも、少々ウザい。それから脇役としても、ヒトラーがしょぼい。威圧感ゼロ。そのヒトラー暗殺未遂場面も、「自爆テロ」失敗として描かれていることに意外感。フィクションかと思ったけど、ウィキペディアを見ると、この方法の暗殺未遂事件もあったらしい。しかしボンヘッファーは、1944年に起きた「7月20日事件」として知られるヒトラー暗殺計画への関与により処刑された(最後の場面でも、処刑理由として告げられている)わけだから、やはりシュタウフェンベルク大佐が作戦会議中に爆弾を仕掛けた「7月20日事件」を描くか示すかする方が、良かったように思う。

ついでながら「7月20日事件」を描く映画は、トム・クルーズがシュタウフェンベルク大佐を演じた「ワルキューレ」がある。この事件は「ヨーロッパの解放」の中でもドキュメンタリー調で描かれていて、こちらの方が自分的には印象深い。このほか暗殺計画ではないが、反ナチスの学生運動「白バラ」の中心人物ショル兄妹の映画もある。「白バラは死なず」と「白バラの祈り」だが、どちらも最後のギロチン処刑場面の辛さが記憶に残る(汗)。

さてボンヘッファーは、人間が従うべきは神の掟のみであることを強調する。ゆえに独裁者に従うのは誤りだということで、反ナチス運動に身を投ずるのだが、この辺は宗教者であるから、軍人の愛国心、国を破壊する独裁者を排除するという動機からの反乱とは異なるということなのだろう。

軍人の反乱失敗そして処刑は起きたことをそのまま受け取るしかないが、ボンヘッファーやショル兄妹のような民間人の反戦運動に対しては、その勇気には畏敬の念を覚えるとしても、戦争の結果を知っている現時点からの勇気のない庶民の感想としては、もう少し我慢して戦乱を生き延びれば良かったのにと、どうしても思ってしまう。ショル兄妹の逮捕・処刑は1943年2月、ボンヘッファー逮捕は43年4月。あと2年で戦争が終わる時期だった。そしてボンヘッファーは、ドイツ降伏1ヵ月前の45年4月に処刑。辛い。

ネットのレビューを見ると、「ボンヘッファーを理解するには役立たない」との評もあり、分かる人には感心できない作品のようではある。とはいえ、ボンヘッファーという戦時下の抵抗者の行動がどのようなものだったか、とりあえず知りたい向きには、映画作品はやはり有用だと思える。

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