2024年11月25日 (月)

『SHOGUN 将軍』劇場公開

先週、期間限定で劇場公開された『SHOGUN 将軍』(第1話と第2話)を観た。

言うまでもない、アメリカのエミー賞受賞作品。今年9月に作品賞、主演男優賞、主演女優賞ほか、史上最多の18部門を受賞したドラマシリーズである。主演の真田広之がプロデューサーも兼ねて、日本文化を正しく伝える時代劇を目指して作り上げた作品が、まさに歴史的快挙を成し遂げたとして、日本のエンタメ界を大いに賑わせたニュースだったのは記憶に新しい。

いわば「本物の時代劇」を目指した『将軍』だが、第1話と第2話を見る限りでは、本物感がそれほど強い印象ではなかった。というのは、ストーリーは日本に漂着したイギリス人の船乗りを中心に進むし、当時の日本に広まっていたキリスト教カトリックの国(ポルトガル、スペイン)と、後からやってきたプロテスタントの国(オランダ、イギリス)の対立を強調する場面がいやに目立っていたからだ。さらに、主人公の武将「吉井虎永」とそのライバル「石堂和成」を含む「五大老」、つまり日本の最高クラスの権力者たち5人のうち2人がキリシタン大名。そのカトリックの2大名が、プロテスタントのイギリス人を速やかに抹殺するよう求めるなど、当時のヨーロッパの新教と旧教の対立が日本にも持ち込まれているという、何だかかなり妙な感じのするストーリーなのだった。お話のベースとしているのは、1600年の「関ヶ原の戦い」直前の時代で、確かに16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代であり、その結果としてカトリックのイエズス会が日本にキリスト教を伝えたようなものだけど、日本のキリシタンにプロテスタントを目の敵にする気持ちがあったとは思えないわけで。その辺はキリスト教ベースの西洋人にも入りやすいストーリーにしているのかもしれないが、日本人にはやや奇妙な感じのする「時代劇」になっているというのが、正直な感想。

「インスパイアされた」という言い方になっているが、登場人物にはモデルがあり、吉井虎永は徳川家康、石堂和成は石田三成。フィクションなので別にいいけど、石堂は五大老のひとり(史実は五奉行)で、虎永とほぼ対等感のある人物にグレードアップ。五大老のひとりに、大谷吉継にインスパイアされたと思われる武将がいるが、なぜかキリシタン大名で、ハンセン病が重くなって見た目がグロい感じになっているのが、ちょっと嫌だな。(汗)

もしかすると第3話以降、より本格的な時代劇になっていくのかも知れないが、今のところ配信で見る気もあんまりしないなあ。

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2024年10月14日 (月)

円谷映画祭2024

円谷映画祭2024「浪漫のものがたり」を観た。ウルトラマンのリマスター版4作品から成るオムニバス映画。4作品は「科特隊出撃せよ」「悪魔はふたたび」「怪獣殿下前編」「怪獣殿下後編」。登場怪獣はネロンガ、アボラス、バニラ、ゴモラ。

この中で自分が一番好きなのは「悪魔はふたたび」。古代文明が封じ込めた怪獣が復活して都市破壊を行う。良いです。ウルトラシリーズの伝家の宝刀的ストーリーかもしれない。もちろん単純に、怪獣が2匹出てきて戦い、さらにウルトラマンと戦う内容が濃いなあ、と思う。アボラスとバニラのデザインも良い。下の写真は、成田亨画伯の手になる「怪獣カード」のバニラとアボラスだが、バニラはタツノオトシゴがヒントになっているらしい。アボラスの体はもちろんレッドキングだが、頭部のデザインは何から発想したのか見当も付かない。

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ウルトラマンは既に60年近く前の作品になるわけだが、傑出した怪獣デザイン・造形に対する評価は今でも高いように思う。ウルトラマン本放送時、昭和41年の小学1年生だった自分は、「ウルトラマン」直撃世代と言ってよいが、「ウルトラQ」と共に、その世界観に深く影響されていると感じる。

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2024年4月12日 (金)

映画「オッペンハイマー」

昨年夏にアメリカで公開された映画「オッペンハイマー」。今年春にアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞など7部門受賞。そして3月末にようやく日本でも公開の運びとなった。何しろ上映時間3時間。自分も年なので、2時間を超える映画を観るのはしんどくなってるし、洋画なので字幕だし、吹き替え版もないしで、それなりに覚悟して映画館に出向いたのだが、演出テンポが良いということなのか、それ程長いという感じはなく観終わった。

物語は、天才科学者オッペンハイマーがリーダーとなって進める原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を中心に、戦後の「赤狩り」に巻き込まれたオッペンハイマーの聴聞会(クローズドヒアリング)そして公聴会(オープンヒアリング)の三つの流れが、時系列を前後させながら展開されていく。

公聴会場面の中心人物はストローズという政治家で、オッペンハイマーを窮地に陥れた人らしいのだが、果たしてこの人物の話は必要だったのか。この場面はモノクロ映像になるのだが、どういう効果を狙ったのかよく分からなかった。

聴聞会の場面でも、小さな部屋でヒアリングを受けているオッペンハイマーが突然素っ裸になって、なぜかその場にいないはずの昔の恋人とヤリ始めるというヘンなシーンがある。厳しい追及から逃避する気持ちでも表わしているのか何なのか、でもこれ必要かなあと思った。この場面の撮影って、役者さんたちはみんなどんな気持ちで演じていたのだろう、などと余計なことを考えてしまった。

オッペンハイマーとトルーマン大統領の対面場面。「私の手は血塗られている」と言うオッペンハイマーに対し、トルーマンは「日本人が恨むのは爆弾を作った者ではなく、落とした者だ」と言い放つ。よっ、大統領、さすがよく分かってらっしゃる。確かにトルーマンは、日本人にとって最悪の大統領だ。でも、もしルーズベルトが生きていたとしても、やはり原爆を落としたのではないか(小林よしのり『戦争論3』を読むと、そう思う)。

アメリカの原爆開発は、ナチスドイツへの使用を想定していた。しかしドイツは降伏。その後原爆実験は成功。新兵器の威力をソ連に見せつけたいアメリカ。結局、敗北を認めようとしない日本に、原爆は使われることになった。実験が成功してなかったら、日本がさっさと降伏していたら、とは思うのだが、全てのタイミングの連なりは、日本にとって最悪の結末に行き着いた。

ヒロシマ、ナガサキの惨状は描かれないのだが、この映画はオッペンハイマーの原爆開発の物語であり、クライマックスは原爆実験成功であるから、その後の原爆投下は物語の本筋からは外れるということなのだろう。その原爆実験成功の場面は、「我は死、世界の破壊者」のモノローグと共に、まさに黙示録的な様相で迫ってくる。実験成功を喜ぶ科学者たち。お金と時間を使ってきた一大プロジェクトの成功を祝うのは、当然のことだろう。そして戦後、オッペンハイマーは共産主義者との関係を問われ、スパイ疑惑もかけられる。オッペンハイマーの人生、その栄光だけでなく転落も描き出して、映画は終わる。

公聴会のシーンが無ければ、内容ももう少しまとまりが良くなり、上映時間も短くなって(苦笑)、文句の付けられない作品になったと思う。

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2024年1月14日 (日)

映画「PERFECT DAYS」

カンヌ映画祭で、役所広司が男優賞を取った映画「PERFECT DAYS」、ヴィム・ヴェンダース監督作品を観た。

ヴェンダースの名作「ベルリン・天使の詩」のマジックをちょっと期待したけど、当てが外れた。

役所が演じる主人公の平山は、公衆トイレ掃除の仕事をしているシニアの独身男性。公衆トイレ掃除というのも、誰かがやんなきゃいけない仕事だけど、やりたがる人はあんまりいないよなあ。

平山の住んでる古いアパートは、東京スカイツリーの立つ押上近辺にあるようだ。朝起きると、平山はたくさんの小さな鉢植えに水をやる。仕事に向かう時に、車の中でカセットで聴く曲は、ボーカル主体の古めかしいロック。仕事はひたすら丁寧にやる。お昼は公園に行き、サンドイッチを食べ、フィルムカメラを木の枝葉に向けて木漏れ日を撮る。仕事が終わった後は町の銭湯へ。富士山のペンキ絵の掛かるニッポンの伝統的な銭湯で、一日の汗を流す。それから自転車に乗って、隅田川に架かる桜橋を渡り、浅草の松屋デパート付近の地下にある一杯飲み屋に顔を出す。地下鉄の駅にもつながるその場所は、地下街と言うより地下通路に店が出ている感じで、「昭和」のままだ。平山の一日は、古本屋で買った文庫本を夜、寝る前に読んで終わる。

平山は小さなバーの常連客でもある。そこのママさん役を演じるのは石川さゆり。着物姿で、演歌ではなく「朝日のあたる家」(日本語詞)を歌う。 何か妙な感じ。

平山は無口な男という設定。喋らなさ過ぎて、ちょっと気持ち悪い(苦笑)。平山の若い同僚を演じるのが柄本時生という役者さん。いかにも今風の、おっさんから見るとイラっとする感じの若者(苦笑)。まるで素でやってるみたいで、これを演じているのならば凄い。

まあ「完全な日々」というより「静かな生活」という感じで、基本的に、物静かな主人公のルーティーン的な日常を淡々と映し出していく。そういう作品だというのは分かるとしても、正直もう少し主人公の過去を説明してもらわないと、感情移入しづらい。ラストシーンの役所さんの表情だけで、主人公が背負ってきたものが伝わってくるかというと、そこまではいかないなあという感想。

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2023年11月25日 (土)

昭和40年代ゴジラ映画

雑誌「昭和40年男」12月号の特集は「俺たちのゴジラ」、副題は第二次怪獣ブーム世代の逆襲、とある。リアルタイムでは昭和46年の「ゴジラ対ヘドラ」から始まる「昭和40年男」のゴジラ観を考える。というものだが、昭和34年生まれ第一次怪獣ブーム世代の自分も考えてみたいテーマだなと思う。

自分が初めて観たゴジラ映画は昭和41年の「南海の大決闘」。翌年の「ゴジラの息子」も観た。ゴジラは襲来して都会を破壊する怪獣ではなく、南海の島にいる怪獣。43年の「怪獣総進撃」でも、ゴジラ始め怪獣たちは「怪獣島」に集められて、ひとまず人類の管理下にあった。11匹の怪獣が登場する「怪獣総進撃」は(第一次)怪獣ブームの総決算的作品とも言われた。

44年末から「東宝チャンピオンまつり」が始まったが、ゴジラ映画の新作「オール怪獣大進撃」は、ちょっとショボい印象だった。以後チャンピオンまつりは、春休み、夏休み、冬休みのプログラムに。自分は、昭和30年代「キングコング対ゴジラ」以降のゴジラ映画はチャンピオンまつりのリバイバル上映で観て、初期の「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」はテレビで観た。やはりゴジラ映画の頂点は、「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」だと思う。ゴジラの造形(いわゆる「キンゴジ」「モスゴジ」)も含めて、だ。

「怪獣総進撃」から3年後の46年、テレビではウルトラマンも帰ってきて、第二次怪獣ブームに突入。ゴジラも再び本格的に動き出す。小休止後の最初の相手は公害怪獣へドラ。異色の怪獣映画として知られる「ゴジラ対ヘドラ」だが、これが「昭和40年男」の最初のゴジラ映画体験だとすると、怪獣映画に対する感覚がおかしくなりそうだ(苦笑)。自分は小学6年生の時に観たわけだが、とにかく暗い印象だし、「水銀、コバルト、カドミウム~」(歌)だし、ゴジラが丸まって空を飛ぶし、戸惑い感は結構強くて、子供心にも低予算(逃げ惑う群衆が出てこないとか)だなと感じていた。続く47年の「ゴジラ対ガイガン」は、キングギドラとアンギラスも出てくるのは良いのだが、過去作品のフィルム利用とか、何かいまいちな感じだった。この年、自分は中学生になり、次回以降のチャンピオンまつりはパス。メガロやメカゴジラは見なかった。(その後54年日劇におけるゴジラシリーズの企画上映時に、「ゴジラ対メカゴジラ」は観た)

ヘドラについては昨年(2022年)初夏、「特撮美術監督井上泰幸展」を観た時に、改めて「ゴジラ対ヘドラ」公開当時について感じ入るものがあった。1971年のヘドラの後、東宝映画は73年から74年、「日本沈没」と「ノストラダムの大予言」で大ヒットを飛ばした。この破局的パニック映画の連発で、当時の少年少女は多かれ少なかれ終末観を持たされたのではないか(苦笑)。ヘドラは、その終末観ブームの先駆けだったとも言えるし、そういう意味でも「ゴジラ対ヘドラ」は特異な作品だったと思う。

昭和50年春「メカゴジラの逆襲」で、昭和40年代のゴジラ映画、人類に味方するゴジラのシリーズは終了。その約10年後、冷戦のぶり返しから核戦争の可能性が取り沙汰される時代の中で、ゴジラは再び核の化身として復活する(1984年版「ゴジラ」)。そして「平成ゴジラシリーズ」が、手を変え品を変え作られ続けたが、シリーズが進むにつれて、物語の輪郭がぼやけていった感がある。やはり、ゴジラは単なる「人類の敵」以上に、明確な脅威として具体的に性格付けられないと、ゴジラ映画の魅力も乏しくなるように思う。

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2023年11月23日 (木)

「ゴジラ」と「ゲゲゲ」がヒット中!?

映画「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」も「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」も、最初観る気は無かったのだが、結構高い評価が目に留まり、予備知識は殆ど持たないまま、とにかく観てみることにした。

「マイナスワン」は、第1作「ゴジラ」の昭和29年よりも前の、終戦直後の時代設定。ゴジラに立ち向かうのは、元軍人や元兵士。彼らが撃滅作戦を計画、生き残った軍艦や飛行機を使って、大怪獣に戦いを挑む。

まあとりあえず7年前の「シン・ゴジラ」と比較されるんだろうけど、自分は「シン」の方が面白かった。「シン」は5、6回観たけど、「マイナスワン」は一度観れば十分の感じ。怪獣映画には下手な人間ドラマは要らない。と思う。

「ゲゲゲ」は、鬼太郎の父親の話。主人公はもう一人、兵隊帰りの会社員、その名も水木。時代設定は昭和31年で戦後ではあるが、山奥の閉鎖的な村が舞台で、既に多くの人が感じているように「犬神家の一族」みたいな印象。

こちらの内容はもう、ただただ悪夢の世界。最後に、水木が言うセリフ「何も覚えていないのに、なぜ悲しいんだ」。自分も、話がいまひとつ分からなかったのに、なぜ悲しいんだ、という気持ちになりました。(苦笑)

鬼太郎は猫娘と共に、最初と最後にちょこっと出るだけなんだが、猫娘がかわいくてスタイルもよくて、これはヤバイ、と思った。(苦笑)

声の出演者の中に、種﨑敦美さんがいる。最近、アーニャとフリーレンの声が同じ人、種﨑さんだと知った時は驚愕した。まるで違うキャラの声が同じ人。声優とは、これ程までに高い演技力が要るものなのかと、認識を改めた。この作品でも、種﨑さんは重要な役どころを演じている。大したものだなあ。

鬼太郎の父の話もまた、「マイナスワン」の設定とも言える。文化的コンテンツとして昭和(戦後)、平成、令和に渡る長い歴史を持つ「ゴジラ」と「鬼太郎」。今回、両者の新作が「マイナスワン」作品として現れたのは、たまたまなのか必然なのか。「原点」回帰ではなく、「原点以前」への回帰。これは、秩序が生まれる以前の混沌状況であるかのように、今を生き抜け、というメッセージなのだろうか。

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2023年3月12日 (日)

映画『アンノウン・ソルジャー』

フィンランドの戦争映画『アンノウン・ソルジャー』。2019年の日本公開作品だが、昨年の夏、新宿の映画館で「戦争映画特集」の一本として、3時間のディレクターズ・カット版が公開された。ウクライナ戦争で、ロシアとフィンランドの関係にも注目が集まっていたこともあり、自分も新宿まで観に行った。先頃この3時間版がDVD化されていたことを知り、もう一度観てみたという次第。

1939年11月末から1940年3月まで、フィンランドは侵攻してきたソ連と戦った。これが「冬戦争」。次に独ソ戦の開始と共に1941年7月、フィンランドは領土奪還のため再びソ連と戦争を始める。これが、映画で描かれる「継続戦争」で、1944年9月まで続く。当時フィンランドは、ナチスドイツと組むしかなかった。「敵の敵は味方」でやってきたのが、ヨーロッパ。地続きで多くの国が隣り合わせになっている国々の意識は、島国日本とは当然のように違う。

アンノウン・ソルジャー、つまり無名戦士の日常生活は戦闘が中心だ。戦闘準備、戦地に向けて行軍、戦闘、休息、そしてまた行軍。森の中を歩き、山を越え、川を渡り、原野を進む。たまに一時帰休はあるにしても、一度家を離れたら、簡単には戻れないハードな生活だ。

フィンランドは森の国。森の中の戦闘は、敵の居場所が見えにくいだけに、恐怖は倍増し、勇気も一層必要になる。主要人物は何人かいるが、主人公と言える古参兵ロッカ伍長は、上官から「勇敢だな」と称えられると、「俺たちはただ、死にたくないから敵を殺してるだけです」と答える。若い新兵にはこうも言う。「人でなく敵を撃つ。賢い連中は言ってる、❝敵は人間じゃない❞って。割り切って敵を殺せ」と。まさに人ではなく、敵を殺すのだと思わなければ、戦争などやれないだろう。ロッカは、自分の振る舞いを上官たちに咎められても、「お偉方のために戦ってない。家族のために戦ってる」と言い返し、最後の場面では銃弾の飛び交う中、負傷した相棒を背負って川を渡るなど、男気のある人物として描かれている。

映画の後半はフィンランド軍の撤退戦。戦果も無いまま負傷者が増えるばかりの撤退戦の行軍は悲惨だ。「体に悪いからタバコはやめろ」と人に言っていたロッカも、撤退戦の過酷さからなのか、たびたびタバコを口にする。上官が現場の状況を無視した「死守」命令を叫んでも、疲れ切って行軍する兵士たちからは「何言ってんだコイツ」的ムードが漂う。負け戦の軍隊が惨めで気違いじみているのは、洋の東西を問わないようだ。

映画の原作小説は、フィンランドでは知らない人はいない作品だという。どのような形であれ、戦争に係る国民的記憶は残しておかなければならないと、つくづく思う。

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2022年6月12日 (日)

「メフィラス構文」

公開中の映画「シン・ウルトラマン」観客動員200万人突破を記念して、ただ今入場者に「メフィラス構文ポストカード」配布中(全国合計50万枚限定)。3種類あるとのことだが、とりあえず自分の貰ったカードには、「千客万来。私の好きな言葉です。」とあります(笑)。既にヤフオクには3種セットなるものが出品されていて、あと2つは「ポップコーンは割り勘でいいか?ウルトラマン。」「そうか。映画を観に来たのか。賢しい選択だ。」というもの。3種いずれもメフィラスのセリフをベースに、映画興行の宣伝フレーズとしている。

「メフィラス構文」とは、映画に登場する山本耕史演じる外星人メフィラスが、格言などを引用した後に「私の好きな言葉です」、または「私の苦手な言葉です」を付け加える言い回しを指している。今や特に格言に限らず、「好きな言葉です」を付け加える「用法」として、SNSやネットで認知されている感じだ。

メフィラスが「私の好きな言葉です」として挙げるのは4つ。
・郷に入っては郷に従う
・善は急げ
・備えあれば憂いなし
・呉越同舟
同じく「私の苦手な言葉です」として挙げるのは2つ。
・目的のためには手段を選ばず
・捲土重来

「郷に入っては郷に従う」「呉越同舟」が好きというのは、物事を進める際のメフィラスの現実主義的な姿勢を示しているように思う。「備えあれば憂いなし」が好きというのは、物事を進める際のメフィラスの用意周到な姿勢を示しているように思う。「善は急げ」が好きで「捲土重来」が苦手というのは、メフィラスが物事を進める際には、タイミングを捉えて一発必中で決めたいという意思を表しているように思う。そして「目的のためには手段を選ばず」が苦手というのは、なりふり構わず物事を進めることはしたくないという、メフィラスの美意識を示しているように思う。

好きな言葉と苦手な言葉で、自分のポリシーを示すメフィラス。さすがウルトラマンの強敵という感じ。

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2022年6月 5日 (日)

映画「ドンバス」

ウクライナ東部のルハンシク州とドネツク州、合わせてドンバス地方でのロシア軍とウクライナ軍の戦闘激化が伝えられる中、その地名をタイトルとした映画「ドンバス」が公開中。ウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督、2018年の作品である。

舞台は分離派(親ロシア派)の支配する2014年以降のドンバス地方。主人公がいてストーリーがある、という映画ではなく、戦時下の日常生活で起きる人々の英雄的でも何でもない行動の数々を、13のエピソードでオムニバス的に描いていく作品。ロズニツァ監督は、ドキュメンタリーを多く手掛けている映像作家ということで、この映画も手持ちカメラによる長回し撮影を中心とする、ドキュメンタリーチックな作り方である。見ていると、本当に現地で撮影しているような錯覚に陥るが、実際の撮影地はドネツク州の西の隣にある州とのこと。

13のエピソードは実際の出来事を元にしており、「どんなに信じがたくても全て実際に起きた出来事」(ロズニツァ監督)だという。確かに登場人物の行動は、戦時下という混沌の中で生きる人間としては、「普通」の行動なのだろうという感じがする。要するにリアルなのだ。例えば、戦場に取材に来たドイツ人ジャーナリストを見て、分離派兵士が「ファシストだ」とワーワー騒いだり、カメラに向かって楽し気にポーズを取る場面とか。あるいは、街角で見世物にされた捕虜の兵士に対して、市民がリンチを仕掛ける場面。抵抗できない「敵」に対する、人々の情け容赦ない有り様が、酷く生々しいのである。

戦争は、戦場で戦う兵士を恐怖と憎悪の中に叩き込むだけでなく、戦場以外の場所で何とか生活を続けている人々の間にも、分断と対立を生む。そして暴力性を孕んだ日常生活の中で、人々は正常なメンタルを維持できなくなっていく。戦時下で露になる人間の姿こそが人間の本性だとは思いたくないが、人間の卑小で愚かな本性を見せつけられるとすれば、やはり戦争は忌まわしいものだと思う。

この映画で起こることはほぼ「事実」なのだろうが、最後の出来事だけは本当にあったこととは思いたくない。ここは全くのフィクションであることを願いたいのだが、淡々と映し出され続けるラストシーンにエンドロールが被せられていくのを眺めながら、暗澹たる思いに気分が沈み込んでいくのを止めようもない。

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2022年5月28日 (土)

映画「シン・ウルトラマン」

映画「シン・ウルトラマン」が公開中。言わずと知れた、鬼才・庵野秀明が手掛ける「シン」作品である。この「シン」の意味するところはとりあえず、「新」および「真」であると見ていいと思うのだが、「新」はもちろん新しい、そして「真」はオリジナルを超える、くらいの意味合いか。この了解を元に考えると、セルフカバー的な「シン・エヴァンゲリオン」は置いといて、「シン・ゴジラ」は「シン」と呼べる凄い作品だと思うが、「シン・ウルトラマン」の出来はオマージュ作品の性格を大きく超えるものではない、というのが自分の感想。

ウルトラマンの姿で、オリジナルと一番異なるのは、カラータイマーが無いところ。もともと成田亨のデザイン原案にはカラータイマーは無く、いわば原点回帰の姿。カラータイマーは、テレビ番組の演出上付け加えられたものであり、しかも当時カラーテレビの普及が道半ばだったため、青色から赤色の変化を点滅で示す仕掛けも作られた。「シン」ではその代わり(なのか)、エネルギーが減少するとウルトラマンの体色の赤が緑に変化する。その他は、おなじみのスペシウム光線や八つ裂き光輪が、必殺の武器として繰り出されるのは変わらない。

怪獣は「禍威獣」と称されて、ネロンガとガボラが登場。宇宙人は「外星人」と称されて、ザラブとメフィラスが登場。デザインはオリジナルにまあまあ近いものもあれば、かなり異なる印象のものもある(ネットには「エヴァ」の「使途」を想い出すとのレビューが目につく)。映画冒頭にウルトラQ怪獣のパゴスもちょっとだけ登場するが、パゴスの頭部はガボラと同じに見えるし、パゴスの胴体はネロンガとほぼ同様の形状で、これはオリジナルでも着ぐるみの使いまわし(頭部を改造)していたことをベースにしているのだろう。

ストーリーでは、オリジナルの「にせウルトラマン」「巨大フジ隊員」が取り入れられているし、最後にゼットンが登場するのもオリジナルをなぞった展開。ただしゼットンは怪獣ではなく、全人類抹殺のための巨大な最終兵器という形で、しかもウルトラマンと同じ光の星からやってきたゾーフィ(ゾフィーではない)が持ってきた兵器という、かなり捻った設定である。

映画の結末では、ウルトラマンは死んだ・・・と思われる(セリフによる説明から推測するしかないけど)。これがオリジナルだと、ゾフィーが「命を二つ持ってきた」(!)と言って、ウルトラマンもハヤタ隊員も生き続けるわけだが。「シン」では、人間の自己犠牲的行動に強い関心を持ったウルトラマンが、最後には自分も自己犠牲の道を選んだ・・・ようにも見えるが、どうなんだろう。

まあ結局自分は、ウルトラマンよりも怪獣が好き。なぜ当時の(自分も含む)子供たちが怪獣に熱狂したのか。今から思えば成田亨という芸術家がデザインし、高山良策という芸術家が造型したからだよ、つまり僕たちは芸術を愛好していたのだと、何の迷いもなく言うことができる。

だから映画の冒頭を見た時に、庵野氏は先に「シン・ウルトラQ」を作るべきだった、と強く感じた。今からでも遅くない、怪獣だらけの「シン・ウルトラQ」が観たい!

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