2026年8月31日 (月)

「国体」について雑感

佐藤優の新刊『戦略の罠』(フォレスト出版)は、戦前・戦中の日本の思想を現代的な文脈の中で読み直そうという試みの書。「国体」をテーマとする第1章からメモする。

国体とは、国家を国家たらしめている根本原理、つまり、国家を内側から支える理念構造のことである。

では、日本の国体とは何なのか。1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」に対する激しい批判、いわゆる「天皇機関説事件」が起きる。その後の国体明徴運動を経て、1937年に文部省が刊行した『国体の本義』では、「日本の国体とは天皇を中心とする皇統の連続性にある」と説明された。ただし、ここで注意しなければならないのは、「国体」と「天皇制」を混同してはならないという点である。『国体の本義』が問題にしていたのは、単なる統治制度としての天皇ではない。日本という共同体を内側から支える精神的・歴史的連続性であり、日本国家の理念構造そのものだった。つまり、国体とは制度以前の問題なのである。

『神皇正統記』において、北畠親房が繰り返し強調したのは、「皇統の連続性」だった。ここで重要なのは、皇統が単なる血統として理解されていない点である。親房が問題にしていたのは、「歴史的連続性」そのものだった。天皇とは、日本国家の継続性を象徴する存在なのである。

・・・「国体」とは「皇統の連続性」であると考えると、先の皇室典範改正で取り沙汰された「皇位の安定的継承」は、まさに「国体の維持」の観点から最重要の課題といえよう。と言葉を並べてはみたものの、何だかどうもピンとこない。

今では「国体」という言葉自体余り聞かなくなった。国民体育大会(国体)も、国民スポーツ大会に改称されたし(苦笑)。とりあえず「国体」と聞くと、どうしても戦争の時に強調された得体の知れないワードというイメージが拭えない。まあ平たく言えば、日本国の始まりから天皇が代々続いている、そのこと自体を意味しているのであろうけれども。佐藤氏によれば、「天皇制」はもともと左翼用語であり、国体=天皇制ではない、とのことだが、まあ正直なところ自分は両者を一緒くたにしてる感じだったので、ちょっと考え直さないといかんかな。

とりあえず思った。1935年から45年までの10年間、「国体」は軍国ナショナリズムがバブル的に膨らんだ時代を象徴する言葉だったかのもしれない、と。

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2026年8月30日 (日)

満州国について雑感

佐藤優の新刊『戦略の罠』(フォレスト出版)は、戦前・戦中の日本の思想を現代的な文脈の中で読み直そうという試みの書。「満州国」をテーマとする第3章からメモする。

満州国成立の直接的契機となったのは、1931年の満州事変である。この軍事行動を主導したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎と、作戦主任参謀の石原莞爾であった。関東軍内部には、満州を日本防衛の生命線ととらえる強い戦略思想が存在していたのだ。当時の日本にとって最大の仮想敵国はソ連である。満州はそのソ連と接する巨大な緩衝地帯、すなわちバッファゾーンであった。しかも、満州には石炭、鉄鉱石、大豆などの豊富な資源が存在した。つまり、満州は単なる占領地ではなかったのである。日本の安全保障、経済、軍事、産業を支える戦略拠点として認識されていたのだ。

石原は「世界最終戦争論」を唱え、将来的に日本とアメリカが世界覇権を巡って衝突すると考えていた。そして、その最終戦争を戦い抜くためには、日本は大陸資源圏を確保しなければならないと考えた。この視点から見ると、満州国とは単なる植民地ではない。日本という国家を長期戦に耐え得る戦略国家へ改造するための「前進基地」であったのだ。満州国は「国家改造プロジェクト」に近い性格を持っていたのである。

当時、多くの官僚や軍人、知識人たちは、満州国を単なる占領地ではなく、「新しい国家建設」の実験場として見ていた。その中心人物の一人が、のちに首相となる岸信介である。岸は商工官僚として満州国の産業政策に深く関わり、国家主導による重工業化と統制経済を推進した。彼にとって満州国は、単なる植民地ではなく、「国家主導型先進国家」の実験空間でもあった。

・・・佐藤氏によれば、満州国の「王道楽土」「五族協和」という国家理念も、西洋列強に対抗するための、西洋近代へのアンチテーゼとして意味付けられる。しかし現実の統治システムは理念と乖離して、最後はソ連侵攻で満州国は崩壊した。石原莞爾の構想通りに、来るべき日米決戦に備えて、中国を攻めるとか余計なことをしないで、ひとまず満州国経営に集中していれば良かった、のかな。

まあそんな戯言はともかく、満州国における岸信介ら革新官僚の統制経済の実験が、日本国内における総力戦体制(1940年体制)を用意し、戦後も官民一体の「日本株式会社」システムとして機能し高度成長を実現した、というストーリーも語られるわけだから、満州国というのはいろいろな意味で気になるわけです。

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2026年7月29日 (水)

戦艦長門沈没80年

80年前の1946年7月29日、ビキニ環礁の核実験で戦艦長門は沈没した。雑誌『歴史群像』6月号記事「長門型戦艦全史」からメモする。

『長門』は昭和20年6月に特殊警備艦の指定を受けると、相模湾に上陸してくる敵に横須賀から艦砲射撃を加える任務が与えられた。そして7月18日には空母艦載機群の空襲を受け、爆弾4発が命中して艦橋が大破するという状態で戦争を終えたのであった。

戦後、アメリカ軍に接収された『長門』は、翌年7月にビキニ環礁で実施された『クロスロード』作戦に投入された。これは海軍艦艇に対する核兵器の破壊力を実証する実験であり、他に軽巡『酒匂』や、アメリカの空母『サラトガ』他、旧式米戦艦4隻、ドイツ重巡『プリンツ・オイゲン』なども標的艦として供されている。

使用される核爆弾は、長崎に投下された「ファットマン」と同じプルトニウム内爆型で、破壊力はTNT火薬換算で21キロトンのもの。空中爆発の影響を検証する実験A(エイブル)と、水中爆発検証の実験B(ベイカー)の2種類の実験が実施されたのである。

7月1日に実施されたエイブルで、『長門』は爆心地から約1500メートルに位置。爆風で艦橋などの上部構造物が損傷し、装甲の一部が剥離したが、航行能力を維持し、浸水もほとんど見られなかった。さらに7月25日にはベイカーが実施されたが、爆心地から約600メートルに配置された『長門』は水中衝撃波の直撃で、右舷に約5度傾斜した。一見すると浮力は保たれていたが、4日後の29日未明、静かに転覆し、海底へと没したのであった。

・・・昔、何か(雑誌「丸」かなあ)で読んだ文では、「翌朝、長門の姿は海面から消えていた。長門の沈む姿を見た者は誰もいなかったのである」という感じで、センチメンタルに結ばれていた。やはり昔、TVアニメの「サイボーグ009」だったか、長門が復活してアメリカ本土に迫るという話を見た覚えがある。「はげ山の一夜」の音楽と共に、月光をバックにしてビキニ環礁の海底から浮上するシルエット状の長門。何かそういう印象の記憶が残っている。ゴジラ的な扱いとも言えるけど、復活する長門には核のトラウマに加えて、アメリカへの強い復讐心が表わされていたように思う。

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2026年7月21日 (火)

日本国、謎の政体

『国家が戦争に向かうとき』(朝日新書)は、片山杜秀と田中駿介、二人の政治学者の対談本。「第5章 戦後民主主義と天皇」から、田中先生の発言を以下にメモする。

普通の国の憲法1条は、自国の最も崇高な理念とか、それこそ国のかたちを示しているはずです。普通は、不可侵な権利とかその国の政体とか、基本的にはそういうものを憲法の最上域に置くわけです。それが近代国家のお約束だと思いますが、日本国憲法の1条から8条には、そのような文言がありません。そもそも何制の国なのかという国体に当たるような条文もありません。そもそも主要国家で、連邦とか共和国とか王国とか、そういう政体に関する文言がついていない国は、日本以外にほとんどありません。

さらにいえば、国民主権の規定は前文を除けば、日本国憲法で直接に規定されているのは第1条のみです。そこでは「主権の存する日本国民の総意に基く」として、象徴天皇制の規定に付随するかのような表現になっています。つまり、日本の国民主権は天皇制の枠内でしか語られておらず、独立した主権の概念としては扱われていないとすらいえます。

つまり日本は、この国がいったい何の政体で、どのような理念があるのか、そして国民主権は本当に独立した概念として確立されたのか。戦後、ずっとごまかしてやってきたという側面があるわけです。

・・・「日本王国」でも「日本共和国」でもない「日本国」とは、一体何ぞやという話(実は一応「日本皇国」なのかもしれないが)。この点、第二次世界大戦後の1946年に、政体選択の国民投票を実施して王政廃止を決め、共和国になったイタリアは大したものだなと思ったりする。まあ日本は、戦後にアメリカが天皇制維持を決めちゃったとか、いろいろ経緯が異なるから仕方がないとはいえ、自分たちで政体を決めたイタリアは、そこだけ見れば、ちょっと羨ましいなと感じるところも正直あるのだなあ。

まあ高市政権も、国論を二分する政策を問うとか言うならば、皇室典範をあれこれ弄るよりも、単刀直入に天皇制の維持か廃止かを問う国民投票でもやったらどうなのかね。

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2026年7月20日 (月)

遠い戦争の記憶、霞む人間天皇像

『国家が戦争に向かうとき』(朝日新書)は、片山杜秀と田中駿介、二人の政治学者の対談本。「第5章 戦後民主主義と天皇」の初めに、田中先生は「天皇制という存在自体の問題を考える人がすごく減ったと理解しています」と発言。以下は、片山先生の発言からのメモ。

天皇制を考える近代の前提が失われてしまった。立憲君主の国か共和国か。1945年の敗戦と大日本帝国の崩壊。そのケリの付け方は大きく天皇にかかわるというのが戦後の常識でしたが、それが世代交代と共に、問題意識すら忘れ去られてしまった。「どうでもいい」という無関心派、無党派のような部分が膨らんでいる。

天皇は理論的な問題でもあるはずですが、やはりまずはいきものであって、歴史の実感に基礎づけられているからこそ、結局、世代的な経験に規定されている話なのです。世代が変わると過去は脆くも崩れていく。

結局、人間天皇のイメージが立ち枯れてきているということになるでしょうか。国民に命を捧げさせる現人神へのアンチテーゼが、国民と共にある人間天皇。よって戦争が遠くなると人間天皇もわからなくなるのですね。

戦後民主主義的文脈で生きてきた、昭和の皇太子、平成の天皇、令和の上皇の思想と行動もその同世代の国民に支えられているところが大きかった。そういう人々はだいたいもう社会の第一線にはいなくなってきた。ならばもう天皇制をやめるのかというと、そうした熱い政治思想を持っている人も並行して減った。とりあえず皇位継承者がおられ、誰かが皇位についていれば天皇は続くでしょう。ただし、それをなくすような反天皇的なエネルギーもないけれども、それがないと困ると本気で思うエネルギーも減じている。

・・・戦争の時代の現人神。そのアンチテーゼとしての戦後の人間天皇。それゆえ戦争の記憶が遠くなると、人間天皇のイメージも霞んでくるという歴史の皮肉。いまこの国で、皇室のことを真面目に考えている人がどれだけいるのか。真面目に考えていると称する人々は、側室制度なしで男系男子継承を維持しようと悪あがきしている、諦めの悪い人々。一方で女性天皇が本当に「待望」されているかも怪しく、女性天皇でもいいよ、くらいの印象。無関心派としての自分は、皇室が自然消滅するならそれはそれで仕方ない、くらいの感覚だ。片山先生は、「明治国家の天皇中心で国民を従えるというモデルはかなり即席で作られた」と指摘している。近代化の時代に作られた「伝統」は、もはや有効性を失っているように見えるし、それもまた歴史の流れと言えば言えるように思う。

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2026年7月 8日 (水)

「紙の本」と「文章」の行方

『本を読めなくなった人たち』(稲田豊史・著、中公新書ラクレ)から、以下にメモする。

子供時代を昭和に過ごした世代からすれば、「漫画ばっかり読んでいると馬鹿になる」は、耳にタコができるほど浴びた大人のお説教としてお馴染みだろう。しかし今や、ある種の子供たちにとって、漫画を読むことは非常に頭を使う、能動性の高い知的活動の部類に入る。

・・・ハイ、これはもう私も子供の頃、父親からさんざん言われました(苦笑)。しかし当時も、マンガがいろんなこと教えてくれた記憶もあるし、今やマンガ自体も進化発展しているので、マンガを読むのも頭を使う活動だというのは納得です。引き続きメモします。

電子書籍は紙の本を滅ぼさなかった。紙の本に取って代わることもなかった。むしろ、2010年代以降、萎みゆく出版市場を電子書籍が穴埋めしてくれた。ただ、穴埋めしてくれた本の9割以上はコミックだった。活字の本はやはり紙の状態で「出合う」しかない。

「紙の本と出合う場所」である書店の数は、減り続けている。2025年11月時点の日本における書店店舗数は1万店程度で、2万店舗以上あった2003年から半減した。しかも、全国の市町村の3割弱には書店が一軒もない。

「読者」が第一義に求めるのが濃密で深遠な知的体験・知的没頭だとすれば、「消費者」が第一義に求めるのは設定した目的を効率的に達成させてくれること、つまりコスパだ。極論すれば、「消費者」は読書を求めているわけではない。もっと効率的な方法で本の内容をインプットできるなら、そちらを選ぶ。本より動画で情報を得る人たちがその典型だ。

生成AIの登場は、文章作成におけるコスパ追求の気運を加速度的に促進した。問題視したいのは、生成AIの普及によって「文章というものは、それなりのものであれば基本的にタダで作れる」という〝常識〟が世の中に浸透することだ。

いずれ紙の本を読むという行為は、特権性と階級意識を孕んだ、選ばれし者たちの古き良き嗜みとなる。これからの紙の本は、そういう人のために書かれる。その小ぶりな市場の中に限っては、文章の地位が完璧に保障される。それは、いいことなのか、悪いことなのか。

・・・子供が本を読んで勉強する、大人も本を読んで学ぶという時代においては、多くの人が「読者」であったと言えよう。それが今では大量の動画が流通する時代になり、「読者」に入っていたかなりの層が、動画を利用する「消費者」と化したという印象。消費者が求めるのは情報であり、それをいわゆるタイパ、コスパでいかに効率よく得られるか、が肝心だ。こうなると逆に、もともと「読者」は世の中の多数派とはいえなかったのであり、その現実がデジタル環境の進化発展によって露になったようにも思える。

著者の「結論」は、わざと戯画的に書いているようにも思えるが、紙の本と(人間の書く)文章の行方はどうなるのか、今は自分は何とも言えないのが正直なところ。

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2026年1月23日 (金)

「定年後の後」は「隠居」が理想

60歳の定年後、10年を過ぎて70代に入る頃から、多くの人は老いを実感し始める。定年後も何らかの仕事をしていた人も、70歳を超えると働き続けるのは難しくなってくるだろう。つまり「定年後」は10年で終わり、次の段階「定年後、その後」に入る。そのひとつの理想は「隠居」であろう・・・『定年後、その後』(楠木新・著)からメモする。

日本には、定年に近い概念として「隠居」がある。隠居は、辞書を見ると「仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことをして暮らすこと(人)」とされている。

「定年後、その後」を吟味していくと、まさにこの隠居こそが目指すべきひとつのゴールのように思えてきた。隠居には、単に「仕事を退いてのんびり暮らす」ということだけでなく、好きなことをして過ごすという意味が含まれているからだ。

「定年後、その後」を隠居の位置づけにするためには、主体的な意思や姿勢が不可欠だといえる。老いても自分で考えることが重要だ。

老いが進む中で、新たな世界を切り開いたり、自身に変革を起こしたりすることも簡単ではなくなってくる。また行動範囲もさらに狭くなる。そこでのホームグラウンドは、日常生活であり、その中に最大限の楽しみを見つけることが基本になるだろう。

「定年後、その後」になると、これから新しい能力を身につけたり、努力して成長することは難しくなる。今、自分が持っているものを大切にして、その中に〝いい面〟を見つける力が問われているのだ。

・・・「老いても自分で考える」「日常生活の中で最大限の楽しみを見つける」「今、自分が持っているものを大切にする」とか、楽しい隠居のための心がけになると思われる。やはり年を取ると、新しいことをやるのはかなり難しくなる。もちろん挑戦するのはいいことだけど、昔やったことをやり直してみる方が、まあまあ無難?というか、それで日常生活は十分楽しくなるんじゃないかと思う。

自分の指針は、出口治明さん(世界史を愛好する元経営者)の言う「人、旅、本」。人に会う、旅に出る、本を読む。詰まるところ、人間のやることはそれしかない。年取って隠居の身になっても、それがやれていれば十分だろうと。

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2026年1月12日 (月)

加藤茶の「ちょっとだけよ」

ブックオフで『ドリフターズとその時代』(笹山敬輔・著、文春新書2022年)を買った。この本は、伝説のテレビ番組『8時だョ!全員集合』(1969年10月~1985年9月)を舞台の生中継であると捉えて、ザ・ドリフターズを日本演劇史の中に位置付けて正当に評価しようと試みるなど、意欲的な労作だと思う。以下に、一世を風靡した加藤茶のギャグ「ちょっとだけよ」について、同書からメモする。

(1971年4月から番組は半年間休止した。)再開後の『全員集合』は30%台の視聴率をキープし、ときに40%を超えた。何よりも加藤が絶好調だった。繰り出すギャグは次々と流行し、1972年には「ちょっとだけよ」が初登場する。

トランペットのメロディに乗って加藤がストリッパーのように足を上げ、身体をくねらせながら、「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」と客席に声をかけた。曲はラテン音楽のスタンダードナンバーである『タブー』だ。

子どもたちの間で大流行し、学校でもこぞって加藤の真似をしたために、教育現場からは抗議の声があがった。だが、今見ると、当時の加藤自身が子どもっぽいキャラクターのため、いやらしさは感じない。子どもたちには、ストリップ劇場という文脈ではなく、音楽やフレーズの面白さでウケたのだろう。

「ちょっとだけよ」効果もあってか、1973年4月7日、視聴率は50.5%に達した。16年間の歴史における最高視聴率である。

・・・当時の子供である自分(えーと、1972年というと中学生になった年です)の記憶では、男であるカトちゃんがストリップするのが単純に面白かったのだと思う。大人はいろいろ知ってるから騒ぐ、ということなんだろうけど、子供は何となく知ってる(よく知ってたら、その方が問題 笑)程度なので、単純にカトちゃんの動きやせりふを楽しんだというところ、です。

毎週毎週、作りこんだコントを舞台で披露したドリフ。「作りこむ」というと、円谷プロの特撮ドラマも思い出す。ドリフと円谷を見て育った我々、ニッポンの子供でホントに良かったなあと、つくづく感じる。

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2025年11月30日 (日)

「昭和45年11月25日」に思うこと

先日の日経新聞に三島由紀夫に関する「評伝」本の紹介記事があり、その中から『昭和45年11月25日』(中川右介・著、幻冬舎新書、2010年)に目を通してみた。書名はもちろん、作家の自決した当日であり、その日何をしていて何を思ったか、作家や文化人など約120人の記録をまとめたもの。

自分は当時11歳の小学5年生。本の中に出てくる、当時の小学生は唐沢俊一(評論家)と見沢知廉(作家)。最年少は実は著者の中川氏で、1960年生まれの当時小学4年生、「あとがき」に当時の記憶も記しているのだった。

この本を読むと、当時の世の中の騒然とした雰囲気、その遠い記憶がぼんやりと浮かんでくる。自分が覚えているのは、まず父親の「B式だな」とのひと言で、後で「B式」と聞こえたのは「美意識」だと分かった(ちょっと苦笑)のだが、つまり自らの美意識に従って作家は死を選んだ、という話。それから、週刊誌の特集号がやたらに出たのだが、ある週刊誌の付録に、市ヶ谷での作家の演説を収めたソノシート(死語)が付いていた。聞いてみると、ヘリコプターの音や自衛隊員のヤジやらで、演説がかき消される部分も多かったのだが、それでもシビリアン・コントロールという言葉を意味も分からず覚えてしまったのは、聞いたこともない変わった言葉だったので、印象が強かったからだと思う。

今年は昭和100年、とは昨年末辺りから言われてはいたけれど、だからどうするみたいな話はあまり聞くこともなく、一年が終わる感じである。昭和100年はまた三島由紀夫生誕100年でもあるわけだが、こちらも特に一般人がどうこういう話でもなく、とりあず文学業界界隈で何か言及されていたのかどうか(知らんけど)、という感じ。

三島事件がなぜ世の中にあれ程の衝撃を与えたのか、当時の小学生に分かるはずもなかった(ただし得体の知れないものを感じてはいた)けど、それなりに自分も年齢を重ねてみると、終戦から25年の時点というのが、タイミング的に絶妙(という言い方で良いのだろうか)だったような気もする。戦争の記憶が根強く残る一方で、その風化も始まっているという頃合いではなかったか。それゆえに、忘れかけていたもの、忘れたいものを激烈な形で思い出させたことが、衝撃を大きくしたのかも知れない。

三島事件を可能な限り過大評価するなら、その時、戦後も含めた戦争の時代としての昭和は、実質的に終わったのではないか。事件の年には大阪万博の開催もあり、人々の目は未来に向けられ、敗戦国意識からも抜け出しつつあったように思う。作家が敵視したという「戦後」もまた、作家の死と共に終わったと言えるかもしれない。

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2025年11月20日 (木)

『山一前後』

2024年2月に日経平均株価はバブル期の高値を34年ぶりに上回ったわけだが、その長い年月の間に実にいろんなことがあった。もう、ありすぎた。何があったか『山一前後』を読みながら思い返すと、うんざりする程だ(苦笑)。書名の「山一」が意味するのは、もちろん山一証券。著者は小平龍四郎・日本経済新聞編集委員。1997年の山一証券の経営破綻を時代の転換点として、過去30年を超える年月を振り返る小平氏の「回顧録」的なこの本を読むと、バブル崩壊後の日本の証券市場がいかに激動の連続だったか、その風景がありありと見えてくる。

本の中にキーワードがたくさん出てくるが、その中からいくつか拾ってみると、80年代の「シナリオ相場(トリプルメリット、ウォーターフロント)」「qレシオ」「株式持ち合い」、90年代の「PKO」「証券不祥事(損失補填、総会屋への利益供与)」「株式委託手数料の自由化(ネット証券の台頭)」「不良債権問題」「時価会計」「ROE」「フリーキャッシュフロー」「日本版ビッグバン」「山一証券自主廃業」、2000年代の「花形アナリスト」「村上ファンド」「リーマン・ショック」「(小泉政権後の)自民党から民主党、悪夢の6年」、2010年代の「アベノミクス」「コーポレートガバナンス改革」「ESG投資」などなど。ホントにうんざりする程、いろんなことがあったな。(苦笑)

小平氏は書く。「一口に『失われた30年』といっても、最初の10年間、1990年代はことさら異様な時代だった」と。証券会社OBの自分も、全く同意する。株価低迷はもちろん、大規模経済対策と不良債権処理に明け暮れた90年代は、いわば「泥沼」の10年としてトラウマ的な記憶が残る。一方で、その10年の間にエコノミストたちが、日本経済システム、日本型資本主義、日本的経営をいかに見直すかについて、活発に議論を行っていたのも印象深い。この時期、エコノミストは「思想家」であったと思う。その議論が政策に反映されたのが、21世紀に入ってからの小泉構造改革やアベノミクスということになるだろう。

小平氏は指摘する。「今では当たり前のことと考えている株式市場の諸制度はバブルのピークから崩壊後につくられたものだ」。バブルの大活況の終了後に、市場の重要な制度、主に取引の公正を保つルールがバタバタと整備されたのだから、本来の順番は逆だろうと思うわけだが、まあなかなか現実は理想通りにはいかないものだとつくづく思う。

小平氏は、「バブル崩壊後の日本が長らく改革の手本としてきた『欧米』という概念の消失」を指摘する。株価5万円達成後の、日本の経営改革や市場改革の方向性はいかなるものになるのか。小平氏はこうも指摘する。「株主は紛れもなく会社の間接所有者なのだから、『会社は株主のもの』という言い方はおおむね正しい」。しかし、「会社は『株主だけのもの』ではない」。「こうした『シェアホルダー(株主)主義』と『ステークホルダー(利害関係者)主義』の相克が、長らく続いてきた」。おそらくは、この両者のバランスを最適化する均衡点を、欧米の考え方に捉われずに、探っていくことになるのではないか。

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