「豊後の王」大友宗麟
先日のNHK番組「歴史探偵」で、戦国大名大友宗麟が取り上げられていた。当時日本に来ていたキリスト教宣教師は、「豊後の王」として記録を残していた。豊後の国は、九州全土であると考えられていたらしい。
大友宗麟は、来日したイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルと対面し、キリスト教の布教を認め、教会を建てる土地まで与えた。ザビエル、感激である。宗麟の名はヨーロッパまで伝わり、後にはザビエルと宗麟の出会いの場面の想像画がいくつか描かれて、現在も残っている。何しろ想像画なので、宗麟の姿はヨーロッパの王様風なのだが。
宣教師は、スポンサーであるポルトガルの国に対して布教の成果を誇るため、大友宗麟を「豊後の王」であると喧伝したようだ。当時の若きポルトガル王セバスティアン1世も宗麟に大いに興味を持ち、キリシタンへの改宗を強く促す手紙を宗麟宛てに送った。
当時はポルトガルとスペインが勝手に世界を2分割して、それぞれの支配地と見なそうとしていた時代。ポルトガル国王にも、日本の支配や日本との貿易をやりやすくしたいとの思惑があったようだ。
宗麟は宗麟で、改宗を匂わせながら、南蛮貿易を盛んにして大砲や鉛(鉄砲の玉を作る)を入手することに腐心していた。
最終的に1578年、宗麟はキリシタンとなる(洗礼名はザビエル由来のフランシスコ)が、家臣団の動揺を招き、島津氏との戦いに大敗。宗麟は現実には九州の「王」にはなれなかった。(写真はJR大分駅前の大友宗麟像。2024年3月撮影)
「歴史探偵」では、今回「戦国ご当地大名シリーズ」第一弾として大友宗麟を取り上げたが、今後三好長慶や長宗我部元親などが予定されているという。「ご当地」に含まれる意味は「限定」というか、知っている人は知っているくらいの感じだろうか。確かに信長、秀吉、家康の「天下人」は大メジャーだし、武田信玄や上杉謙信、伊達政宗、毛利元就も知名度は全国区だろう。でも、「天下人」以外は、戦国大名というのは基本的に「ご当地」のものだと思う。つまり、地方が地方として相対的に独立したのが戦国時代であり、その地方がその地方である礎を築いたのが戦国大名であるということだ。そういう意味で、それぞれの地方における戦国大名の重要性は計り知れない。
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