2026年7月28日 (火)

社外取締役が頑張るしかない

本日付日経新聞コラム「大機小機」(真の企業統治は人から)から(ホントは全文引用したいくらいだけど)、一部をメモする。

コーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)の改訂論議が進む。委員会の設置、社外取締役の人数、開示の拡充。議論は「型」の精緻化に向かいがちだ。だが型を整えるだけでは真のガバナンスは生まれない。型に魂を入れられるかは、社外取締役の能力と覚悟にかかっている。

ニデックが突きつけたのは制度の不足ではない。型に魂を入れる人が機能しなければ、ガバナンスは空洞になるという現実である。

(社外取締役に)問われるのはブランドや会社の存立を揺るがす不祥事の兆候を早く察知し、食い止められるかだ。監査等委員は監査法人と対話し、表面化していない問題を取締役会に上げる「最後のとりで」としての責任がある。

答えは会議室だけにあるのではない。現場に足を運び、社員と語らい、組織の空気を五感で感じ取る。幹部の退職や現場の萎縮、異論を許さぬ空気。数字になる前の違和感を拾い、企業価値を毀損する「潮目の変化」を読む。必要なのは修羅場をくぐった危機管理の経験と、言うべき時に「ノー」と言える能力と覚悟である。真のガバナンスは型からではなく、人から生まれる。

・・・今はもう、会社経営には当たり前の存在になっている社外取締役だけど、そもそも立場的に難しい。経営陣の中にいる株主代表というか。基本的に会社の応援団だけど、会社が間違ったことをしている時は、強くダメ出しする、レッドカードを突き付けるという役割。社外取締役は多くの場合、社長の知り合いから選ばれて就任していると思うけど、それにも関わらず、いざという時は社長に直言するわけだから、確かに胆力がいるなあ。

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2026年6月21日 (日)

「トークン資本経営」

マイクロソフトのナデラCEOがAI時代の経営論をXに投稿。本日付日経新聞記事(「トークン資本経営」に反響)からメモする。

(ナデラ氏の)主張の要諦は「AIを使うほど、人も組織も進化する循環づくり」にある。企業はAIを使う際に、自社の業務の進め方や専門性のある暗黙知を組み込むべきだと主張した。

ナデラ氏は、個別の業務や職務はAIによる自動化で代替できても、組織の価値の根幹である学習プロセスは外任せにできないと指摘する。そこで持ち出した新たな概念が「トークン資本」だ。AIの利用を自社の価値創造につなげるための「資本」と位置づける。人材をコストではなく成長に必要な資本と捉える「人的資本」と両輪をなす。

トークンとはAIの使用量を示す単位だ。人を雇って給与を払うのと同様、複雑な作業をAIに任せると、トークン消費が増えて利用コストがかさむ。ナデラ氏は自社が使うトークンを、コストと捉えるのでなく成長の基盤とするよう、発想の転換を唱える。トークン資本の一例は、ベテラン社員の暗黙知を学ばせたAIエージェントの活用だ。AIの開発企業が提供できるものではなく、自社固有のデータをAIに与えてこそ価値が高まり成長につながるとの考えだ。

ナデラ氏はトークン資本を基に、AIを使うほど社員の学びも加速することの重要性を訴える。AIと人材の間の好循環をつくれるかどうかが、企業間の差を生むと主張した。

AI活用の本丸はモデル単体の性能向上から、AIを組み込んだシステムをどう使いこなすかに移っている。ナデラ氏の提言は、AI企業の技術発表に振り回されずに自社の土台を固めようという呼びかけでもある。

・・・結局、AIを使って使って使いまくって欲しい、ということかな(苦笑)。思うに、AIをうまく使うためには、AIから「いい質問ですねえ~」と言われるくらい?「質問力」を磨く必要があるような気がする。膨大なAIデータから有用な答えを引き出すためには、ポイントを突いた質問をする能力を高めることが大事だと思う。

ところでエージェントと聞くと、どうしても映画「マトリックス」のエージェント・スミスを思い出しちゃうんですけど。(苦笑)

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2026年6月 7日 (日)

「老衰死」判断は妥当なのか

最近、佐藤愛子(作家)が102歳で、大野雄二(音楽家)が84歳で死去したが、死因は両者とも老衰と伝えられて「ん?」となった。102歳はともかく、84歳の老衰死は少々若いような。もともと老衰というのは個人差があるものなのかも知れないが、ちょっと違和感があった。「老衰死」について、法医学者の高木徹也氏の著作『私たちはなぜ死ぬのか』からメモする。

これまで日本人の死因のトップ3は長らく「悪性新生物(腫瘍)」「心疾患」「脳血管疾患」でした。ところが2018年に「老衰」が初めて脳血管疾患を抜いて3位に躍り出ます。では、そもそも老衰とは何なのでしょうか。老衰とは、医学的には「加齢に基づく全身機能障害」を指し、死因として死亡診断書にも書いてよいことになっています。

しかし、老衰は、亡くなった原因が加齢以外で証明できない場合につける死因です。死因を解明する法医学者として言わせてもらえば、高齢者だからといって死因を追究せず、安易に老衰としてはいけません。

近年、私が解剖する80代以上の高齢者のご遺体に多い死因は「肺性心」です。肺性心とは、肺の機能低下や肺の病気が原因となって、二次的に心臓に負担がかかることで起こる心不全で、高齢者特有の病気です。解剖してみると、急性心不全と肺疾患の所見が認められます。ところが、意外と死因を肺性心にしている死亡診断書はあまり見かけません。また、高齢の方は動脈硬化が進行している場合が多いので、脳梗塞や脳出血、虚血性心疾患が本来の死因であるケースも多いのではないかと考えています。

このように、私が解剖の現場でみた高齢者のご遺体に限っても、明らかな所見があり、死因が特定の病気であると判断できるケースがほとんどです。臨床の現場でも、老衰以外の病気が原因で亡くなっているケースが圧倒的に多いと考えるのが自然ではないでしょうか。

にもかかわらず、日本人の死因3位が老衰となっているのです。これは、全国の臨床現場の医師が、亡くなった高齢者に安易に老衰という死因をつけているからと考えて間違いないでしょう。死者数が増加傾向にあるいまだからこそ、解剖数を増やして高齢者にも正確な死因をつけることが重要だと私は考えています。

・・・ということで、死因追及の不徹底から、高齢者の「老衰死」が増加している可能性があるのだな。実際に、純然たる老衰死に至る高齢者は、思うほど多くはないのかもしれない。

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2026年5月29日 (金)

FIRE実現即幸せ、ではない

日経新聞電子版本日発信記事(FIRE達成後、感じた孤独 変わった「人生のゴール」)から、以下にメモする。

副業で始めたブログ運営をきっかけに、29歳でFIREを達成したヒトデさん。著書で、FIREを実現した人の多くが金銭面の不安や社会とのつながりといった問題を抱えると指摘。そして「問題のほとんどは『楽しさを感じられる、主体的に取り組みたい仕事』さえあれば解決する」と説いた。

ヒトデさんは大学卒業後入社した上場企業の仕事が苦痛で仕方なかった。「仕事はツラいもの。だけど我慢したらお金がもらえるものだと思っていた」。だがFIRE後、ゲームや映画、旅行を楽しむ日々は半年ほどで「いつもの日常」になった。

これはつまらない。やりたいと思える仕事を改めて探した結果、現在もブログなどの運営を続ける。今のヒトデさんにとって「仕事は自分が好きなことで、人や社会の役にも立つこと」だ。FIREを目指す過程では、とにかくお金の不安がなくなれば幸せになれると思っていたが、実際は「FIREの実現だけでは幸せには足りなかった」そうだ。

・・・自分も正直、若い頃は「働かないで生きるには」とか考えていたけど、結局は40年間の会社員生活の後、隠居生活に入った(苦笑)。自分はとりあえずFIREのFI(金銭的自立)はまあ該当する(ただし持ち家なし、家族なし)けど、アーリーリタイアじゃなくてフツーのリタイアなので、さらに仕事をしようとかは年齢的にも考えてはいない。ただ自由な時間をやや持て余し気味なところもあるので、まだ若いヒトデさんがFIRE達成後も、やりたい仕事を続けている気持ちもまあまあ分かる。自分も現実に働かなくなってから、やはり人間は仕事をするために生きているのかもしれない、とかちょっと思ったりする。(苦笑)

まあ仕事をするとはいっても、やりたい仕事、好きな仕事がベストなのは至極当然なので、現実はそうでないから、悩む人は悩んだ挙句、FIREを目指したりするんだろうけど。ただ好きな仕事でなくても、実際に自分ができる仕事、人から求められる仕事であれば、十分続ける意味はあるように思う。

ヒトデさんの言うように、お金の不安が無くても、それだけで幸せになれるわけではない。もちろん「幸せ」の定義にもよるが、結局、明確な幸せの感覚は、ちょっとでもいいから社会の中で行動することで得られる、ということなのだろうと思う。

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2026年4月16日 (木)

株主資本過多の日本企業

本日付日経新聞投稿コラム「私見卓見」(社債市場の活性化が必要)から、以下にメモする。

日本では資金提供者と資金調達者を銀行を介して結ぶ間接金融中心の企業金融が延々と続いている。個人は銀行に預金し、その預金を集めた銀行が企業に資金を貸し付ける。銀行が企業の債務不履行リスクを負うので、個人は貸付先の企業が倒産しても預金には影響しないが、その分、個人の運用リターンは低くなる。

一方、社債は資金提供者と資金調達者を市場を通して直接結ぶ金融商品だ。このため社債では間接金融のようなリターンの中抜きは生じない。日本では上場企業の資金調達もいまだに間接金融主体で行われている。少なくとも上場企業の資金調達に銀行が関与する間接金融は不要ではないか。

上場企業の場合、負債よりリスクの格段に高い株式投資は、銀行を介することなく個人が普通に行っている。情報開示ルールがしっかりとした上場企業であれば、信用リスク審査を銀行に任せ、銀行にレント(超過利潤)を支払う必要はないだろう。株式同様、負債でも直接金融を通して行うことは十分可能だ。

社債を通した企業への資金提供は、企業の成長に寄与しうる。日本企業は株主資本過多であり、株価を上げながら成長するには、負債調達でバランスシートのレバレッジを上げるのが王道だ。ところが銀行は、借り手企業の資産担保見合い、あるいは継続事業の運転資金需要には比較的容易に応じるが、成長事業への融資には決して積極的とは言い難い。そのため、間接金融が中心の日本企業は、直接金融が優勢な米国企業に比べて成長が鈍かったともいえよう。

新規事業、海外進出、M&A(合併・買収)といった成長資金は銀行融資だけでは不十分だ。社債市場の活性化こそが日本企業を救う金融手段である。

・・・「株主資本過多」という言葉に注目。よく日本企業のROEは低いとか言われたりするのだが、そもそも日本企業は自己資本を厚めにする傾向があるのだから、ROEはなかなか高くならないように思う。つまりROEというのは大部分、資本構成、資本政策の問題だろう。とか、自分的には思っている。銀行目線からすれば、自己資本比率は高い方が好ましいだろうから、企業が利益率向上に努めても、結果としてROEの水準は物足りないという場合も多いのではないか。日本企業のROEの低さは、間接金融頼みの資金調達環境も一因になっているのだろう。と、この記事を読んで思い至りました。

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2026年3月30日 (月)

「検察文学」が冤罪を生み出す

今月の日経新聞「私の履歴書」、執筆者は村木厚子・元厚生労働事務次官。いわゆる「郵便不正事件」で逮捕(2009年)された冤罪被害者。読んでいて、検察のやり方に唖然というか恐怖すら感じていたところに、書店の新刊本コーナーに村木さんの本が登場したので驚いた。書名は『おどろきの刑事司法』(講談社現代新書)。「私の履歴書」は、本を出す前の宣伝だったのかな。それはともかく本書を読むと、副題(“犯罪者”の作り方)にあるように、検察(裁判所も含めて)は「犯罪者」を作る(それが自分たちの手柄になる)ために仕事しているように思えてくる。以下は、第一章、第二章からのメモ。

現実の取調べは、被疑者がやったという前提の下、「犯罪をいかに立証するか」という一点に向けて運用されています。検察官は、自分たちが作ったストーリーに沿った供述を被疑者から引き出すことに全力を尽くします。検察官は真相を解明しようとしているのではなく、自らが作ったストーリーを裏付けるための材料を集めようとしているのです。

この事件の問題の本質は、検察が事実と異なる供述調書を大量に作成したこと、いわば「組織をあげての事件のでっちあげ」にあります。これは、一人の検察官による証拠の改竄や隠蔽よりも、さらに重大な問題です。

検察官が供述調書の作成に血道を上げ、「作文能力」の向上に励んだ要因の一つとして、調書の信用性に対する裁判官の判断が甘かったことが挙げられます。少なからぬ裁判官は、具体的で臨場感や迫真性のある調書や、複数の被疑者や参考人の供述に整合性がある調書を「信用できる」と判断しがちです。そのため、証拠として採用されやすいような形に検察官が作文をするようになっていきました。「郵便不正事件」で調書の作り方が問題になり、その後は多少是正された面もありますが、問題が解決したわけではありません。

・・・最初から被疑者を「犯罪者」と決めつけて起訴する。だから有罪率99.9%の「実績」。検察の求めに応じて、裁判所も勾留延長を認める「人質司法」。長期に渡る強引な取調べで得た被疑者の「自白」を材料に、「検察文学」よろしく調書を作文して、被疑者にサインさせれば一丁上がり。「人質司法」と「調書依存」の裁判が、「犯罪者」を量産する。これが日本の刑事司法の実態とは、驚くというか恐怖である。

「郵便不正事件」については、自分の記憶では正直、そんなに大事件だとは思えなかったし(そもそも何が起きたのかよく分からなかった。もう少し説明的な名称は「障害者団体向け郵便割引制度悪用事件」)、悪いことやるような人に見えないな(人は見た目で判断するなとは言いますが 苦笑)、という感じだった。だから、冤罪という結果は「ふ~ん、そうですか」と思ってお終いだったが、この本を読んで改めて検察のやり口は異常すぎると感じた。裁判所も検察寄りだし、恐ろしく歪んだ日本の司法の中で、ひとたび被疑者になってしまったら、人生終わりだと思わざるを得ない。

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2026年3月27日 (金)

監査等委員は企業統治の要

昨日26日付日経新聞コラム「大機小機」(監査等委員に問われる資質)から、以下にメモする。

監査等委員会設置会社は増えた。だが、制度が整ったことと機能していることは別だ。事務局が用意したアジェンダに沿って説明を聞き、会計監査人の報告を一方的に受け取り、自らの専門分野や興味に限った評論を「監査」と思い込んでいないか。監査等委員は顧問でもコンサルタントでもない。取締役として経営全体を監督し、株主の負託に応える立場である。

監査の本質は、独立した立場から証拠に基づいて評価し、意見を形成することにある。用意された論点に反応するだけでなく、アジェンダの外に潜む重要なリスクを自ら問い立てる能動性がなければ、監査は評論に堕する。そのためにも、監査計画を主体的に組み立てる姿勢が不可欠だ。

株主が期待するのは細かな誤りの指摘ではなく、不祥事が起きにくい仕組みを根づかせることだ。その鍵は健全な組織風土と実効的なリスクマネジメントにある。だからこそ、現場に足を運ぶ意味は大きい。支店、工場、営業現場で社員と直接話し、表情や声の調子、職場の空気を五感で感じ取る。実査、立会、確認という監査の基本手続きはデジタル時代に重みを増す。

ガバナンスの実効性を決めるのは制度の外形ではなく、誰がそこにいるかだ。監査の実務感覚、現場に飛び込む行動力、会計監査人と対話できる力、危機に動じない経験。そうした資質が監査等委員に欠かせない。

・・・多くの場合、社外取締役でもある監査等委員に求められるのは、まずは客観的に会社の経営を見ること。しかし、単なる「評論家」ではダメ。経営のリスクを探知し対応するために、経営の当事者として、踏み込んだ形で会社を理解しなければならない。

日本企業のコーポレートガバナンス改革は大きく進んだと評価される一方で、形を整えるだけのものになっていないかと危惧する声も残る。加えて、監査等委員を含めて、社外取締役は人材不足との嘆きも聞こえる。監査等委員がコーポレートガバナンスの要だからこそ、コラムに書かれているような資質が求められるのだと了解する。

(コラム内容の半分程度をメモにしたが、ホントは全文引用したい気持ち。監査等委員に就任している、またはこれから就任する人全員に配りたいくらいの「檄文」ではないかと思う)

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2026年3月 3日 (火)

求められる「言語化」能力

タイトルに「言語化」を入れた本が人気だという。見知らぬ人も含めた相手に伝えるために、自分の発信する言葉に気を配るという、SNS社会の意識も背景にあるようだ。3月2日付日経新聞記事(何でも「言語化」する社会)からメモする。

「もともとは言葉が生まれるプロセスを論じる学術的な文脈で出てくる用語。決して日常語ではなかった」。それが近年SNSを中心に「うまく言語化できないんだけど」「(私の代わりに)言語化してくれてありがとう」など普段のやりとりで目に付くようになった。「今は『うまく言葉にする』『文章にする』くらいの意味で使われている」(日本語学者の飯間浩明氏)

直木賞作家の小川哲氏は、日本語のコミュニケーションのあり方が低コンテクスト(文脈)化しつつある点を指摘する。ここでいう文脈とは、会話やメッセージをやりとりする者同士が暗黙の内に共有している知識や価値観、場の雰囲気のこと。ここでもSNSの影響は大きい。インターネットを介しての発言は誰に届くかわからない。必要なのは、顔の見えない相手の立ち位置を慎重に見極め、誰にでも伝わる言葉を紡ぐ誠実さだ。「言語化能力が高い=知的である、という社会的合意は根深い」。技術やコミュニケーションの変化に直面し、意思伝達に苦しむ人が「自分の考えをうまくまとめたい」という思いを載せて語るのが言語化という言葉だという。

東京大の古田徹也准教授は哲学者・ウィトゲンシュタインの議論を引きつつ、言語化の早さやスマートさがとかく強調されがちな状況に疑問を投げかける。「言語化を急ぐとアウトプットのうまさばかりに目が行き、その過程にあったはずの本当の経験や驚きがおろそかになってしまう」。古田氏によると、ものを考えることは「言葉を選び、迷うプロセスそのもの」だ。それには時間も労力も要る。「試行錯誤する中で新しい見方が見えてきて驚く、というのが本来の言語化ではないか」と説く。

・・・うまく言い表すとか、しっかり伝えるとか、日常的な「言語化」に苦労して、関連するテクニックやレトリックを習得するのも大事なことだと思う。さらに、新しいものの見方を言い表すという、文学的哲学的「言語化」もできると気持ちいいだろうな。

言語といえば、自分は若い時に、ウィトゲンシュタインの「私の言語の限界が、私の世界の限界である」という言葉に出会って、これが自分の言語観のすべてになっちゃってますね。

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2026年1月 5日 (月)

「責任ある積極財政」の運用

高市政権の掲げる「責任ある積極財政」。しかし積極だろうが緊縮だろうが、財政に責任が求められるのは当たり前だろう。本日付日経新聞オピニオン面のインタビュー記事(積極財政の「責任」とは)からメモする。

「国債の格下げリスクはそれほど高くない。債務残高の国内総生産(GDP)比が低下するなど、財政規律が表面上は改善しているためだ。しかし中身を見ると、インフレによって所得税や消費税の税収が上振れているだけだ。財政再建しているように見えるが一時的で、構造的に良くなったわけではない。」
「物価高対策であるのに、インフレの主因である食料には一切手をつけなかった。食料についてほとんど議論がなかったのは、根本的に間違っている。一つの方策は、食料品にかかる消費税の負担を減らすことだ。」(白井さゆり・慶応大学教授)

「日本は政策を遂行する時に、恒久財源を求めすぎではないか。将来の所得や成長を生む投資なら、国債発行は当たり前だ。」
「積極財政は野放図に財政出動するという意味ではない。財政指標をみながら、このぐらいがちょうどいいという水準を見定めながら判断することが大事だ。見るべき指標のなかで、企業貯蓄率は最も重要な指標の一つだと考えている。過去30年近く貯蓄率はプラスになっている。企業が国内支出や賃金、投資を切り詰めている証拠だ。高市政権が掲げる官民連携の成長投資で企業の投資活動を活発化させ、国内支出をぐんと増やして企業貯蓄率をマイナス、つまり投資超過にする必要がある。」
「財政出動をする際には、企業貯蓄率と財政収支を足し合わせた『ネットの国内資金需要』の管理が重要だ。企業と政府のお金を使う力が日本経済全体の膨らむ力になり、家計に所得が回る力になる。」(会田卓司・外資系証券エコノミスト)

・・・昔、バブル崩壊後の1990年代、企業と家計は借金返済に追われていたので、国が借金して公共投資にお金を使い、景気を何とか支えた。現在も、企業は株主配当と内部留保にお金を振り向け、家計は物価高で思うようにお金を使えない。ということで、国が借金してお金を使わざるを得ないのかもしれないが、どうも効果的とは言えない「バラマキ」をしているように思う。まずはとにかく企業にお金を使ってもらうため、投資や賃金アップを後押しすることが肝心だろう。結局、ポイントがズレたり無駄遣いになりそうな積極財政は、将来に禍根を残す。「責任」があるのは当たり前、「上手に運用される積極財政」を望む。

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2025年12月26日 (金)

行き過ぎた緊縮財政?

12月24日付日経新聞「中外時評」(財政で火遊びをするな)は、高市政権に心配な3つの種がある、という。以下にメモする。

1つ目は日本の財政状況に対する根本的な認識である。臨時国会の閉会を受けた17日の記者会見で、高市早苗首相は日本を「行き過ぎた緊縮財政」と断じた。不良債権問題で財政悪化を招いた小渕恵三内閣は、1998年度に10年後の健全化目標として2008年度の基礎的財政収支(PB)の均衡を掲げた。以降、この目標達成の先延ばしが続いている。25年度の黒字化を掲げたのは安倍晋三内閣だが、これも18年、当時は20年度だった黒字化の目標を5年先送りした結果である。このどこが「行き過ぎた緊縮財政」なのか。

首相の最近の発言に基づくと、政府債務の名目GDP(国内総生産)比が低下していることをもって「緊縮」と言いたいのだろう。だが、これはインフレで「分母」が膨らんだ要因が大きい。債務の軽減は緊縮財政ではなく「インフレ税」として国民に物価高を押し付けた結果である。

2つ目の心配はテクノクラート(専門知識を持った官僚)に対する不信である。台湾を巡る国会答弁については「政府見解は不変」(首相)というが、官僚が用意した応答要領を逸脱している。財政でも官僚の専門知識を生かそうという姿勢はほとんど感じられない。財務省の当初案から4兆円以上を積み増した経済対策の取りまとめに際しては「しょぼいどころではない。やり直し」「不合格を出した。各省庁からの要求額が全く満たされていない」といった発言が伝わった。

3つ目は財政状況に対する危機認識の欠如とテクノクラート不信の帰結として、「市場の鳴らす警鐘」にあまりにも無頓着なことだ。日銀による19日の利上げ後も日本国債は売られて長期金利は上昇、円安は加速した。米ブルッキングス研究所シニアフェローのロビン・ブルックス氏は20日付のリポートで「日本円はトルコリラと並んで世界で最も弱い通貨」と評した。これが首相のいう「強い経済」の実相である。

・・・自分も、「行き過ぎた緊縮財政」には「へ?」と思ったので、この記事をメモした。自分の「緊縮財政」イメージは、90年代の橋本龍太郎政権。橋本緊縮財政の招いた大不況を克服するために、小渕政権は財政出動の大盤振る舞いを行った後、プライマリーバランスの均衡目標を掲げたという流れだ。以降、橋本政権を上回る緊縮財政にはお目にかかっていない。高市首相の語る「行き過ぎた緊縮財政」は、ワザと言ってるならまだ許せるけど、ホントにそう考えているのなら、ちと頭がおかしい。「責任ある積極財政」も、単なるレトリックのように思える。ついでに言うと、日銀の「金融緩和の調整」も何だか嘘くさい表現だ。今の政策当局の体裁を取り繕う姿勢に、ぼんやりした不安を抱く。

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