2026年9月21日 (月)

寛永行幸400年

江戸時代の寛永3年(1626年)9月、大御所徳川秀忠と将軍家光は、後水尾天皇を二条城に招き盛大にもてなした。天下に「公武融和」を示す一大行事、「寛永行幸」である。現在、京都では「寛永行幸400年祭」として、博物館の特別展、講演会や講座などを開催中。先週末、自分も京都まで出向いて、泉屋博古館(せんおくはくこかん)の特別展「寛永行幸と花の都の文化びと」、京都文化博物館の特別展「寛永 太平がはぐくむ美」を見学した。

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泉屋博古館では、「二条城行幸図屏風」が展示されている。京都御所に天皇を迎えに行く将軍家光の行列と、御所から二条城に向かう天皇の行列を描いた屏風(京都市指定文化財)だ。今回の「400年祭」では、とりあえずこの屏風を見ておけばいいんじゃないの、という感じがする。展示では、東福門院すなわち徳川秀忠の娘で天皇の后となった和子(まさこ)にも焦点が当てられている。

徳川家康の死から10年、改易処分など大名統制を強めてきた秀忠は、天皇との関係強化も進めて寛永行幸の実現に至った。「公武融和」の実態は、天皇を取り込んで徳川権力の完成を見た、ということなのだろう。行幸の翌年、幕府は朝廷の公家諸法度違反を咎め(紫衣事件)、これを不満とした後水尾天皇はその2年後に譲位。以後、院政を敷き文化活動に勤しむことになる。

京都文化博物館の展示では、近衛信尹(のぶただ)という人物を知る。信尹の父は、織田信長とお友達の近衛前久(さきひさ)。信伊は、父譲りの「武闘派」公家かつ文化人だったようだ。幾つになっても知らないことは多いです。

また、二条城には立派な天守があった(伏見城の天守を移築したとも)とのこと。下の写真は寛永期二条城天守の模型です。

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2026年9月 8日 (火)

「真珠の耳飾りの少女」展

美術ファンの間で話題のフェルメール「真珠の耳飾りの少女」展。今回は大阪のみ、中之島美術館で開催期間は1カ月余り。基本的に「真珠の耳飾りの少女」は門外不出。今回はマウリッツハイス美術館の改修、一時休館に伴う特別な貸出ということで、貴重な機会であるのは間違いなく、とにかくイベント参加という感じで、東京から遠征しました。

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「真珠の耳飾りの少女」、とにかく正面からの写真はお一人様一枚のみに制限されております。「来た、見た、撮った」という感じです。

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既にいろいろな評判がネット上に出ていますが、確かにテーマパークのアトラクションというか、アイドルの撮影会というか。美術鑑賞という感じではないです、仕方ないと思いますが。まあ本当に好きな人は、オランダまで観に行くだろうし、行ってるんでしょう。自分はミーハー的に行っただけなので、とにかく本物を見た、というだけで十分です。

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2026年8月16日 (日)

「お盆」について考える

今日8月16日の夜、京都大文字焼きが行われる。お盆の、特大の送り火だ。世間的にも、今日でお盆休みは終わり。自分は親の代から東京生まれ、東京育ちなので、お盆の里帰りとか全く馴染みがない。ので、帰省ラッシュのニュースとか、殆ど別世界の話のように眺めるのが常である。そんな自分にとって、お盆はいわば「謎の文化」だが、あらためてお盆とは何か、メモしてみる。(参考:『死んだらどうなるのか?死生観をめぐる6つの哲学』の「第2章 山の上から子孫を見守る 盆という習慣」、伊佐敷隆弘・著、2019年)

盆は、山の上から子孫を見守っている先祖が、子孫に会いに来る日だ。「盂蘭盆会」(うらぼんえ)という仏教行事で、その根拠である「盂蘭盆経」(うらぼんきょう)という経典は、中国で作られた。儒教の影響からか親孝行を勧める経典だが、「亡くなった人が子孫に会いに来る」とは言ってない。インド仏教から中国仏教、そして日本仏教へと伝わってくる中で、仏教の教え自体も少しずつ変わってきている。

盆の起源は、仏教が日本に伝わるよりも前から行われていた「魂祭り」(たままつり)という習俗であるようだ。「魂祭り」が行われていたのは盆と正月。年に二回やってきた先祖の魂は、亡くなって32年経つ(三十三回忌)と祖霊(それい)の中に融け込む。祖霊というのは代々の先祖の霊が一つに融合したもので、祖霊になった後も、そばの山の上からずっと子孫を見守り続け、祖霊として子孫のもとを訪れるようになる。

・・・昔、日本人の大部分が農民として村で暮らしていた時、村のそばに山があって、その山の上にいる祖先の魂が、お盆に子孫のもとに帰ってきて、また山に戻っていくというイメージ。それが20世紀後半からは、子孫と祖先のいる場所は遠く離れる場合が多くなり、子孫の方が出かけていって祖先の墓参りをする形で、お盆という行事は続いてきた、ということだろうな。

中国仏教と日本土着の習俗が合わさって、「お盆」が出来た。そして近代化・都市化が生んだのが、お盆の帰省という日本人の行動なのだろうが、最近は、お盆に帰省する人は、昔に比べると減っているという。まずは今どきの猛暑化で夏のお墓参りを避けたり、あるいは墓じまいや墓の引っ越しをすれば、墓参りという帰省の目的の一つは消えることになる。とりあえず実家に帰るのも、特に夏でなくてもいいやと思えるだろうから、お盆の帰省が減っているのも分かる気がする。祖先の魂と過ごすというのも、今ではリアリティがあるようには思えない。だから今は目に見える祖先と一緒に過ごすというか、お盆の帰省の目的は、孫がじいじとばあばに会うのがメインイベントになっているのだろうな。

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2026年7月22日 (水)

映画ポスターがアートだった時代

終了間近となった「再訪 日本の映画ポスター芸術」展(国立映画アーカイブ、26日まで)を見た。主に1960年代から1980年代に制作された100点近い映画ポスターを展示。「《描く》映画ポスター 戦後期」「新世代のデザイナーたち 1960年代」「ATG(日本アート・シアター・ギルド)の衝撃」「映画に挑んだデザイナー/アーティスト」、以上4つのコーナーで構成されている。

この場に展示されていたポスター作品の映画名や製作者名を、自分は何から何まで知っているわけではないのだが、それでも時系列的に作品を眺めていくと、やはり時代の雰囲気が色濃く感じられるのであった。60年代に粟津潔、横尾忠則、和田誠が非常に個性的なポスターを描き始め、さらにATGの活動がデザイナーたちを刺激して、革新、前衛、実験的とでもいえばいいのか、映画ポスターは一気にアートの方向へと全面展開していく。

下の写真は、左上から右に「尼僧ヨアンナ」「ピアニストを撃て」「戦争の真の終り」(以上、大島弘義作品)「ウンベルト・D」(桜井善朗作品)「夜行列車」(藍野純治作品)。左下から右に「5時から7時までのクレオ」「去年マリエンバートで」「とべない沈黙」(以上、大島弘義作品)「華氏451」(酒井俊二作品)「気狂いピエロ」(藍野純治作品)。

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下の写真は、全て小笠原正勝作品。左上から下に「ノスタルジア」「恋の浮島」「ことの次第」、右上から下に「股旅」「絞殺」「ツィゴイネルワイゼン」。

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以下は、展示の説明文(ATGの衝撃)からのメモ。

1960年代は一枚岩の「映画」という概念が曲がり角を迎え、「娯楽映画」と「アート映画」に分化していく時期でもありました。1962年、外国のアートフィルムの配給に特化した日本アート・シアター・ギルド(ATG)が活動を始め、1967年に低予算の日本映画、いわゆる「一千万円映画」の製作に進出すると、ポスター表現の自由度はさらに高まってゆきます。1974年には東京の岩波ホールが世界各国のアート映画を上映する「エキプ・ド・シネマ」シリーズを開始し、新たにポスターデザイナーとして小笠原正勝を起用します。やがて小笠原は、1980年代のミニシアターブームのヴィジュアル面を牽引する存在となります。

・・・自分の若い頃(70年代~80年代)は、まだ映画の中に革新、前衛、実験の気風が残っていたと感じる。例えば自分的には、ATG映画のイメージはエロ半分芸術半分だったりする(苦笑)。かつてのミニシアターブームや、アート的な映画ポスターから見ても、当時はまだ映画そのものに文化的な力が大いにあったような気がする。そんなことを思い出させる展覧会だった。

下の写真は、高齢者なら誰でも認めるであろう往年の大女優。毛利彰作品に描かれた、左はソフィア・ローレン、右はカトリーヌ・ドヌーブ。昔の映画館の看板みたいなタッチが郷愁を感じる味わい。

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2026年7月15日 (水)

怪獣デザインの原則

映画「THE ORIGIN OF ULTRAMAN」には、当然のように成田亨に関する話が出てきて、怪獣デザインの三原則なるものも示される。成田亨の著作『特撮と怪獣 わが造形美術』(初版1996年、増補改訂版2021年)では、以下のように語られている。

一、過去にいた、または現存する動物をそのまま作り、映像演出の巨大化のトリックだけを頼りにしない。これは怪獣は独創的でなければならないということです。独創的というのは、いままでどこにも、そんなものはなかったし、また誰もそんなものをつくっていないということ。
二、奇形化はしない。つまり、頭が二つだの、八つだのといったことはしない。要するに『ウルトラ』怪獣は化けものにはしないということですね。
三、体に傷をつけたり、傷跡をつけたり、血を流したりはしない。化けものは必ず、身体の部分を壊して登場する。それは生理的に非常に不愉快です。

遡って1967年発行『怪獣の描き方教室』(小松崎茂監修)にも、成田亨は寄稿(「怪獣はこうして考える」)しており、そこにも「怪獣は独創的でなければならない」、「ウルトラ怪獣は化けものにはしない」と書かれている。『特撮と怪獣』の原則3は、原則2の派生と見れば、ウルトラ怪獣のデザインの原則は「独創的である」「化けものにしない」の大きく2つということになる。

独創的なものを生み出す方法は、「形の自由な変形」から考えることだと成田はいう。また、化けもののように不健康で不愉快なものを、子供たちに見せるわけにはいかない、とも強調している。『怪獣の描き方教室』は、僕も子供の頃読んでいたのだが、この「化けものは見せない」のくだりの印象は強かった。そして、具体例(レッドキングやゴモラ、ガラモンなど)で述べられる、怪獣作りの考え方にもちゃんと理屈があって、子供心にいたく感心したことを覚えている。(だから復刻版が出た時に、5000円近い値段の本だったが「大人買い」した)

『特撮と怪獣』にある話だけど、ウルトラマンシリーズの怪獣のおもちゃ(たぶんソフトビニール人形)を出している会社の人から、「売れるのは成田怪獣だけだ」と言われたことがあるという。これには、「さもありなん」という感じがする。怪獣は意外な形(半抽象)で恐くて愛嬌があればいい、とする成田のデザイン哲学を反映した怪獣が、圧倒的に支持されている。そこに不思議はない。

番組予算の都合から「改造怪獣」を作った時の話も面白い。ネロンガを改造したガボラのデザイン画を見て、金城哲夫が「成チャンは天才だ」と感嘆する。この改造怪獣の注文対応は、デザイナーの腕の見せ所だったのではないかと思う。ゴジラにえりまきを付けただけのジラースはともかく、ベムラーがギャンゴになるって凄くない?という感じだ。

「シュルレアリスム的手法を用いている」とも言われたらしい。さすがは芸術家の作る怪獣だ。逆に言うと、日本の絵画を中心とするシュルレアリスム芸術は、申し訳ないがほぼ西洋の物真似という印象しかない。むしろ、シュルレアリスムの日本的独創性は成田怪獣にある、と言ってもいいんじゃないか。いやあ、子供の頃に本当に凄いものを見ていた、見せられていたものだとつくづく思う。

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2026年3月 1日 (日)

今夏、大阪でフェルメール展

年明けに第一報が伝えられた、フェルメール作「真珠の耳飾りの少女」の来日(写真は1月報道時の新聞号外)。このたび展覧会のタイトルが「フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展 17世紀オランダ絵画の名品、奇跡の再来日」に決定。場所は大阪中之島美術館、会期は8月21日から9月27日まで。

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「真珠の耳飾りの少女」は、オランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館の所蔵作。原則として館外の貸し出しは行っていないが、博物館の改修工事に伴う臨時休館の機会に、来日実現の運びになったという。この作品が日本で展示されるのは、約120万人を集めた「マウリッツハイス美術館展」(2012~13)以来、約14年ぶりのこと。

この展覧会の話は、昨年末発行の美術展特集雑誌(「美術展ぴあ」「日経おとなのOFF」)には出てなかった。ついでに言うと、雑誌の表紙にはレオナルド・ダ・ヴィンチの「美しきフェロニエール」がフィーチャーされていたのだが、この展覧会開催の発表により、来日女性画・オブ・ザ・イヤーの座は「真珠の耳飾りの少女」に奪われた、かも。

基本的に門外不出、この先も日本で見られる機会はまず無いと思われる「真珠の耳飾りの少女」。何しろ今回は巡回なし、大阪のみの展覧会ということでもあり、まあ凄い混みそうですけど、ミーハー的に観に行きたいと思ってます。

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2025年11月10日 (月)

カゴ直利は「日本史」の入り口

先日、国立科学博物館の企画展「学習マンガのひみつ」(昨日9日で終了)を見学した。展覧会の内容は、戦前から現在に至るまでの学習マンガの歴史と展開を辿るというもの。科学、歴史、伝記のジャンルを中心に、「学習マンガ」の現物も多数展示されていた。

展示では、学習マンガの歴史を、はじまり(戦前~1950年代)、拡大(1970年代~)、新展開(2000年代~)、そして現在の、4期に分けて見ていく。「拡大期」のコーナーの最初に置かれたのは、学習漫画『日本の歴史』(1967年、集英社)。当時の小学生だった自分(現在60歳代)も、シリーズ全18巻を持っていた。1巻から12巻の幕末まではカゴ直利の画で、明治維新以降は別の人の画だったが、マンガ版日本の歴史といえば、自分は「カゴ直利」の印象が強い。なぜか、各時代の主人公たちが「チャンスチャンス!」と叫ぶ記憶がある(苦笑)。

1980年代に入ると、「大人向け学習マンガ」とも呼べる作品が生まれて、ベストセラーになる本も出た。展覧会では、石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』(1986年、日本経済新聞社)が展示されていたが、この作品が登場したのは、いわゆるバブル期。当時自分は、とにかくマンガでもいいから経済のことを知らないといけない、今はそういう時代なのだと、何だか興奮したのを覚えている。

話を『日本の歴史』に戻すと、シリーズの中で自分が最初に買ったのは「安土桃山時代」の巻。これで信長、秀吉、家康の関係が分かったのは、子供の頃の自分にとって大きな発見だった。そして明智光秀の最期にも暗い驚きを覚えた。なんだかんだで今も、自分の戦国時代への関心は続いているのだから、学習マンガの力は大きいと感じる。

最近では、高市内閣の女性閣僚、小野田大臣が、子供の頃読んだ歴史マンガで卑弥呼に憧れて、政治家を志したという話を聞いて、やはり学習マンガの力は侮れないとつくづく感じたことであったよ。

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2025年11月 3日 (月)

正倉院「特別公開」

11月1日土曜日、将棋竜王戦第3局大盤解説会参加のため、京都へ。将棋は中盤、先手藤井竜王の6三成桂の一手で、佐々木八段は「しびれた」(局後の感想)という展開に。結局、藤井竜王は三連勝、タイトル防衛まであと一勝とした。

翌2日、京都に来たついでと言っては何だが、「正倉院展」(奈良国立博物館)へ。日曜日なので当然、混んでるのは覚悟の上。今年のメインの宝物は瑠璃坏(るりのはい)、平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)かな。黄熟香(蘭奢待)も出ている。自分がこの香木を見るのは、人生三度目。最初は1997年の正倉院展。次は2019年東京・上野で開催された「正倉院の世界」展。自分は、劇画『信長』(池上遼一・作画)で蘭奢待を知ったので(苦笑)、どうしてもそのストーリーの記憶と結びついている宝物。

混雑の中、宝物をざーっと眺めた後、正倉院そのものを見に行く。現地では建物を間近に見られる「特別公開」が行われており、こちらも見学者多数だった。

実は初めて実物を見たのだが、結構大きい「倉庫」なのだなあ。教科書でお馴染みの「校倉造り」、全長33メートル、高さ14メートルの堂々たる建物。

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銅板巻きの部分は、徳川綱吉による元禄6年(1693)の修理とのこと。結構以前から修理・補強しているのだな。大正2年には初めての全面解体修理を行い、平成23~26年にも整備工事がされているとのこと。

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床下の高さは2.7メートル。礎石は三笠山安山岩の自然石で、石の凹凸に合わせて柱の底を削って支えているという。

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2025年10月 8日 (水)

将棋王座戦大盤解説会

昨日7日行われた将棋王座戦五番勝負の第4局、午後2時からの現地大盤解説会に夕方から参加した。対局場は神奈川県鶴巻温泉の「陣屋」。自分のようなオールド将棋ファンは、将棋のタイトル戦が行われる旅館というと、「陣屋」か「銀波荘」を思い浮かべる。対局の結果は、カド番の藤井王座が勝利して対戦成績を2勝2敗のタイに戻した。藤井王座の防衛か、伊藤叡王の二冠なるか、決着は今月28日に行われる最終第5局に持ち越された。

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「陣屋」入口。名前は知ってるけど、来たのは初めて。小田急線鶴巻温泉駅から歩いてすぐのところにあるのは、ちょっと意外な感じ。

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夜8時過ぎの対局終了後、大盤解説会会場に登場した両対局者(左が挑戦者の伊藤叡王、右が藤井王座)。会場は藤井ファンと思しき女性多数。将棋観戦者のイメージも昔と随分変わったものです。藤井さんは若いだけでなく、キャラも今までのトップ棋士とは違う感じだし、やっぱり天才出現がもたらすファン層の拡大効果は絶大なものがあります。

(追記)最終第5局は伊藤叡王が勝ち、3勝2敗で王座奪取。将棋界8大タイトルを藤井六冠、伊藤二冠で分け合う格好に。

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2025年9月30日 (火)

戦争記録画を記憶し継承する

先日のNHKEテレ「日曜美術館」(「戦後80年 戦争画と向きあう」9/21放送、9/28再放送)では、現在東京国立近代美術館で開催中の「記録をひらく 記憶をつむぐ」展を取り上げていた。この展覧会は、同美術館の所蔵作品を中心に構成されており、「戦争記録画」いわゆる「戦争画」の大作も展示。番組では宮本三郎、藤田嗣治の作品を中心に紹介していた。

この展覧会の開催告知は同美術館HPのみでやってるみたいだし、足を運んでみたら展覧会カタログが見当たらないのも異例という印象。ネット記事を見ると、主に予算上の制約によるという話なのだが、そんな中でNHK番組が広告の代わりになっている感じ。とりあえず、この展覧会開催の趣旨について、会場説明板の文章(「ごあいさつ」と「おわりに」)の一部を、以下に引用しておきたい。

(この展覧会は)絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
 東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術については、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。

 戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような当時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
 戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。

 本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的・政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
 本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。

・・・「記録」を手掛かりに「記憶」を継承する。古い記憶を呼び起こし、新たな記憶としての認識を形成する。そのために、現在生きている我々に求められることは何か。

自分の年代(現在60歳代)だと、かつて子供の頃にマンガや映画、プラモデルで戦争を学んだ覚えがある。思えば当時は戦後25年程度であり、自ずと戦争を学ぶ環境の中に生きていたように思う。戦後80年の現在は、もはやそういう環境ではないだろうし、戦争経験者がいなくなる日が目前に迫る中で、なおさら「戦争を知らない」世代は、戦争について「積極的に考える」ことを、意識的・能動的に「実践」していくことが求められている。

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