2024年11月24日 (日)

天守は木造復元すれば本物?

名古屋の前市長である河村たかし氏は、名古屋城天守の木造復元計画を進めてきた。その前提には、河村前市長の「木造で復元すれば本物」という考えがあるという。はたして、その考えは妥当なのか。『名古屋城・天守木造復元の落とし穴』(毛利和雄・著、新泉社)からメモする。

河村市長は、復元した木造建物が本物になるのは、三条件(元あった場所に、元の材料の木を使って、資料どおりに)をみたして復元した場合だとして、「奈良文書」と文化庁の「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」をあげる。

「奈良文書」とは、ユネスコの世界遺産の基準となっている1964年の「ヴェニス憲章」を補完するもので、1994年に奈良市で開かれた国際会議で採択された。

日本の木造建築は解体修理が行われ、傷んだ木材を継ぎはぎしたり、取り替えたりするが、そうした伝統的なやり方の修理でも本物であることは維持されるとする。日本では、解体修理で、もし創建当初の姿がわかれば、それに復することを「復原」と呼び、燃えたりしてまったくなくなったものを再現した場合には、「復元」と呼び分けてきた。

「奈良文書」は、本物が存続している文化遺産のオーセンティシティ(真正性)の属性として、形態や意匠、材料と材質、用途と機能、伝統と技術などをあげているので、すでに本物がなくなってしまっている場合に、それらの属性を踏襲して復元しても、それはあくまでも複製品(レプリカ)であって本物ではない。

名古屋城の場合、(史資料面から)質の高い復元ができる条件はそろっている。名古屋市は、「天守の木造復元は、オーセンティシティを担保するものと積極的に評価することが可能と考える」とする。ただし、その場合でも、復元された名古屋城の木造天守は、特別史跡名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではなく、「本質的価値の理解を促進」させる要素だ。

・・・名古屋城の石垣は江戸時代に作られた本物であり、名古屋城跡の本質的価値を構成する。一方、天守は復元である限り、コンクリートだろうが、木造だろうが、レプリカであり本物ではない。つまり名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではない。現状、木造復元計画は石垣保全との兼ね合いのほか、バリアフリーでもモメているが、これも人権に鈍感というより、前市長の認識としては、「本物」の天守にエレベーターは要らない、程度の印象。とすれば、たとえ木造でも所詮復元天守なのだから、エレベーターくらい付けろよ、という話だろう。

本日、投開票が行われた名古屋市長選挙では、前市長の後継者との触れ込みで立候補した広沢一郎氏が当選した。前市長の政策をすべて継承するということだが、名古屋城天守の木造復元については、まずは石垣の保全という順序、さらにバリアフリーの実現という課題について、前市長の短兵急かつ頑なな姿勢を修正して、計画を着実に前に進めてもらいたいものだと思う。

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2024年11月 3日 (日)

三島由紀夫と赤塚不二夫

「それってあなたの感想ですよね」論破の功罪』(物江潤・著、新潮新書)を読んでいたら、三島由紀夫は、赤塚不二夫のマンガのファンだったという話が出てきた。以下の三島の言葉は、同書からの孫引き。

いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。私だって面白いのだから、今の若者もこういうものを面白がるのもムリはない。

・・・三島由紀夫が、ちばてつや「あしたのジョー」の愛読者であったことは有名だと思うが、赤塚不二夫「もーれつア太郎」も愛好していたというのは初めて知った。「もーれつア太郎」というと、自分にはアニメの印象が強いかも。主題歌の「こらえて生きるも男なら~売られたケンカを買うのも男~」というフレーズは、子供心にもなるほどなあ~と感じるものがあった。何にしても大昔の話だが、自分は子供の頃、父親からは「マンガばかり読んでるとバカになる」と言われたものだ。でも、三島みたいな大文学者がマンガを読んで面白がっていたわけだから、やっぱりマンガの力は偉大だと思う。

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2024年10月10日 (木)

カミュのチカラ

コロナ禍の頃、小説『ペスト』が改めて注目された作家カミュ。今でもその人気は根強いものがあるらしい。岩波新書『アルベール・カミュ』(三野博司・著)の、「おわりに」からメモする。

カミュはつねに、それぞれの時代が抱える課題のなかで読み継がれてきた。フランスにおいても諸外国においても、『異邦人』はもちろん、『ペスト』も『転落』も多くの読者を獲得し続けた。翻訳された言語は、『異邦人』75、『ペスト』59、『転落』45で、『異邦人』は250という圧倒的数字の『星の王子さま』に次ぐ2位。

カミュは生前から、そして死後も一貫して、一般読者から見放されることが一度もなかった作家である。死後50年の2010年、生誕100年の2013年、そして死後60年の2020年、フランスの雑誌、テレビ、ラジオはこぞってカミュを取り上げた。

今日、フランスにおいては、あらゆる場所でカミュが引き合いに出される。2020年10月、イスラム過激派によって殺された教師サミュエル・パティの国葬がパリでおこなわれたとき、教え子が亡き恩師に捧げる謝辞として、カミュがノーベル賞受賞時にジェルマン先生に宛てた手紙を読み上げたことは記憶に新しい。他方で、政治的戦略からカミュの威光を利用しようとする動きもあとをたたない。17年、フランスの大統領選挙では、勝利したマクロンを含めて、左派から右派まで候補者のだれもがカミュの言葉を引用して、その権威に頼ろうとした。

・・・最近も『転落』の新訳が文庫本で出ていて、自分はちょっと驚いた。(そんなに話題になってはいなかったようだけど)

カミュの父は戦死して、家は貧しかった。ルイ・ジェルマンは、そんなカミュに目をかけて、上級学校への進学をサポートした恩師。カミュがジェルマン先生に宛てた手紙の言葉。「先生がいらっしゃらなかったら、そしてあの貧しい小さな子供だった私に愛情のこもった手を差し伸べ、教えと手本を示してくださらなかったなら、このようなことは決して起こらなかったでしょう。先生の努力、先生の仕事、そして先生がそこに込めた寛容な心は今も先生の小さな生徒の一人だった人間の中に生きています。時を経た今も、私は先生に感謝を捧げる生徒です。」

恩師がいる人って羨ましい・・・というのはともかく、カミュの作品が愛読書であるとも言えない自分なのだが、なぜだかカミュは気になる人なのだな。

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2024年5月25日 (土)

デ・キリコ展図録コレクション

「デ・キリコ展」(東京都美術館、8月29日まで)に行ってきた。

日本におけるデ・キリコ展開催は、今回で8回目になる。自分は、2回目(1982年)以降は毎回観に行っている。時期は3回目の1989年から順に1993年、2000年、2005年、2014年、そして今回8回目の2024年。写真はこれまでのデ・キリコ展の展覧会図録(カタログ)。左上から右に向かって4回、2回、8回、1回。左下から右に向かって7回、3回、6回、5回。最初の展覧会(1973年)はさすがに行ってないので、ヤフオクで購入したものです。

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デ・キリコには割と関心はあるので、展覧会には何となく行くんだけど、いつも物足りない感じ。デ・キリコ作品の金字塔といえば、やはり画家が20代の頃に描いた「形而上絵画」に尽きると思うのだが、展覧会で日本に来るのは30代以降の古典絵画と「新形而上絵画」が大部分。これじゃあ、デ・キリコの真価に触れる機会になるとは言えないね。まあ、まとまった数の「形而上絵画」を集めるというのも、簡単じゃないんだろうなあ。

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2024年2月10日 (土)

旧正月とは何か、おさらいする

2024年の旧正月は今日2月10日。旧正月の日付が、毎年変わるのはなぜか。本日付日経新聞記事(日付が毎年変わる旧正月)からメモする。

旧正月とは旧暦の正月のこと。23年は1月22日、22年は2月1日が旧暦の元日だった。一見すると規則性がないように思えるが、どのような仕組みなのか。

日本はかつて旧暦を使っていたが、1873年(明治6年)から、いわゆる新暦と呼ばれるグレゴリオ暦を採用した。明治政府は1872年(明治5年)12月3日を、翌年1月1日とすることを決めた。

グレゴリオ暦では地球が太陽の周りを1回転する期間、つまり365.2422日を1年とする。太陽の動きがもととなっている太陽暦で、1年を12カ月に分けている。暦と季節が合うのが特徴だ。
一方、旧暦は月の満ち欠けをもとに、太陽の動きも考えてつくられた太陰太陽暦だ。新月が次の新月になるまでの期間を1カ月とし、12カ月で1年とする。1カ月は約29.5日で、1年にすると約354日になる。

ただ、季節は約365日の周期で変化するため、年々、暦と季節がズレる。このため2~3年に1回ほど「うるう月」を導入し、1年を13カ月とすることでズレを修正する。
この法則を理解すると、一見、不規則に見えた旧正月の日程にも規則性が見えてくる。例えば、24年2月10日の354日後は25年1月29日にあたる。旧暦における1年後だ。24年2月10日は前年の旧正月の384日後なので、23年はうるう月が導入された年だとわかる。

世界では大半の国や地域が、グレゴリオ暦を採用する。暦文化に詳しい国立民族学博物館名誉教授の中牧弘允さんは「中国、韓国、ベトナムなどでは旧暦とグレゴリオ暦を併用している」と説明する。

・・・ということで、中国も韓国もベトナムも旧正月を祝ってる。まあ新暦の正月だとまだ全然寒いので、旧暦の方が「新春」って感じがするかなぁ。日本では、行事としての正月らしさはどんどん薄れている感があるので、横浜や神戸や長崎の中華街で旧正月気分を味わうのも良いかもしれない。

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2024年2月 3日 (土)

ウルトラマン(古谷敏)の帰還

ウルトラマンのスーツアクターであり、ウルトラ警備隊のアマギ隊員役としても知られる古谷敏さん。自分の経営するイベント会社が1991年に倒産した後、清掃員の仕事で生計を立てていた。真摯な働きぶりが評価され、ビルメンテナンスの会社で大きな清掃の現場を任されるようになった。2007年秋、64歳のある日、ヒーローは再発見される。日経新聞電子版2月2日発信記事からメモする。

東京・霞が関の農林水産省に常駐し、50人ほどのチームを率いていました。そんなときたまたま新聞で、ウルトラマンをデザインした成田亨さんの原画展が開かれていることを知ったのです。東京・三鷹の会場に出向くと、僕が演じたケムール人やラゴン、そしてウルトラマンの原画が飾ってあるわけです。「ありがたいなぁ」という思いがこみ上げてきました。

成田さんはすでに亡くなっていて、奥さんの流里さんも不在でしたので、名刺を置いて帰りました。その夜、流里さんから電話がありました。「ビンさん、来てくれたんですね・・・」。涙声でした。栃木県足利市で開かれる次の展覧会でお会いする約束をして出かけていったら、会場に新聞や雑誌の記者がいました。それで見つかっちゃったんですよ。

やがて、「ウルトラセブン」でウルトラ警備隊のアンヌ隊員を演じたひし美ゆり子さんから電話がありました。「フルヤちゃん、私、20年探したのよ! やっと捕まえた」って。2008年、ひし美さんがセッティングしたサイン会が東京・北の丸公園の科学技術館で開かれ、元の世界に復帰しました。それから東京では月1回、地方にも年4、5回出かけて皆さんと交流する「巡礼の旅」を始めました。サイン会や撮影会のほか、ウルトラマン、セブンで共演した毒蝮三太夫さんを招いたトークショーなども開いています。

姿を消していた期間が20年近く。そのブランクをいま、懸命に取り戻しています。僕のためじゃありません。長い間、何もできなかったファンの方々へのお礼の気持ちとして、です。80歳になったいまも、国内はもちろん、海外のあちこちから毎年声をかけてもらえる。これからも「日本を代表して」という気持ちで、日本の総合芸術と言える特撮の素晴らしさを多くの人たちに伝えていきたいです。

・・・成田亨の原画展というのは、「怪獣と美術」展ですね。僕も観に行きました。あの場に古谷さんも訪れて、それがきっかけになって、世間に「見つかっちゃった」と。そうだったのかーという感じです。とにかく今でも、国内外から古谷さんに切れ目なくお呼びがかかる。それだけ偉大な作品を、僕も子供の頃に見ることができて、本当に幸運、幸福だったと思います。

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2024年1月27日 (土)

「シュルレアリスムと日本」展

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今日は京都に行き、「シュルレアリスムと日本」展を観てきた。まずは1月20日付日経新聞文化面記事(夢と幻想に戦争の足音)からメモする。

京都市の京都文化博物館で2月4日まで開催中の「シュルレアリスムと日本」展は、西欧生まれのシュルレアリスムが、昭和期の日本の芸術に与えた影響を、絵画を中心にたどっている。

西欧のシュルレアリスムが、第1次世界大戦の悲惨な現実を踏まえて、人間の自由と精神の解放を目指す運動だったとすれば、日本のシュルレアリスム絵画は、戦時体制へと向かう時代に最盛期を迎えた。画家たちに大きな影響を与えた「海外超現実主義作品展」が開催された37年は、日中戦争が勃発した年である。

「戦後、日本のシュルレアリスムの絵画は、西欧の模倣に過ぎないとして、批判された時代があった」。シュルレアリスムから影響を受けた日本の絵画の研究を主導してきた東京国立近代美術館副館長の大谷省吾氏は、そう語る。日本のシュルレアリスム美術の再評価は、ここ30~40年の研究の成果でもある。

彼らの作品に表れる幻想と憧憬は、内面の危機意識と不可分に結びついている。その切実な動機に基づく生々しい画面は、戦争と表現の統制がなおも終わらない今日の世界で、忘れられていいはずがない。

・・・日本のシュルレアリスムは再評価されている、のかも知れないが、展示作品をざっと観たところでは「シュルレアリスム風」というか、やはり「西欧の模倣に過ぎない」絵という印象で、「現実を超える」革新性と強度は、本家に数段劣る感じ。本家シュルレアリスムの絵は、見ればすぐに、例えばダリやマグリットやデルヴォーの絵だと分かるように、各人に著しい特徴があるのに対して、日本のシュルレアリスムは画家の個性に乏しい。見た時に誰の絵か見当がつくのは、古賀春江くらいか。

あとは、全体的に暗い印象の絵が多くて、それはやはり戦時体制という時代の暗さの反映ということなのだろう。時代の重さが、画家たちの個性や才能が存分に花開くことを許さなかったとしたら、とても残念なことだ。

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2023年10月20日 (金)

「コネ社会」に生きるイタリア人

日経新聞の広告によると出たのは8年前ながら、最近話題の本らしい『最後はなぜかうまくいくイタリア人』(宮嶋勲・著。日経ビジネス人文庫)から、以下にメモする。

イタリア人の家族の結束は非常に強い。イタリアの家族の強い団結は、当然、異国にずっと支配されてきた歴史と密接な関係がある。被支配民族として、頼れるものは家族だけという考え方である。支配民族に対する抵抗から生まれて発達したシチリアのマフィアが、その組織を「Famiglia(家族)」と呼んでいるのは象徴的だろう。この例からもわかるように、家族という概念はもっと広い形でもとらえられる。同じグループに所属するメンバーがお互いに融通を利かせあって、便宜をはかりあうという発想が強い。

だからイタリア人は、何をするにしてもすぐにコネを探ろうとする。同じグループのメンバー、仲間だと思われると、物事がスムーズにいくと考えるのだ。常に誰かを頼っていき、頼られたほうは便宜をはかることにより、彼らの仲間は拡大していく。恩義の貸し借りの物々交換が物事を進めていくのである。

イタリアの食事は短くても2時間、長い場合はアペリティフを入れると5時間などということも珍しくない。厳密にいえば、イタリアでは食事の時間が長いのではなく、食卓にいる時間が長いのである。イタリアのようなコネ社会では、友人の輪を広げないと仕事も発展しない。そして、そのためにはアペリティフは最高の機会なのである。

イタリアの食卓はコネを広げる出会いの場だ。男女の区別なくくり返される、合コンのようなものであるともいえる。食卓でフィーリングが合う相手とは、ビジネスもきっとうまくいくだろうし、男女の場合なら結婚してもうまくいく可能性が高い。一方どこかしっくりこない相手とは、職業的にも、プライベートでもあまり好ましい発展はないだろう。重要なのは、自分と波長の合う相手を見つけることで、そのためには食卓が理想的な場であるということだ。

・・・「家族主義」の「コネ社会」に生きるイタリア人。何となく「ゴッドファーザー」の「ファミリー」を思い出すわけですが、まあ日本人にも「お家」大事の意識が今でも多少はあるでしょうから、そこは分からないでもないです。

一方で、被支配民族の意識というのは、半島住民のメンタリティ(朝鮮半島も似てる気がする)と言えるかも知れないので、島国根性の日本人とはまた違う感じもあります。まあイタリアという国もフランク王国の大昔から見れば、半島の根元の部分が元祖イタリアなのだろうし、北と南、ヨーロッパと地中海でもメンタリティ結構違うだろうと。

勝手なイメージでしかないけど、イタリア人は男も女もナンパする、される前提で生きてる感じがする。そこは羨ましいです。生まれ変われるならイタリア人が良いなと思う。

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2023年8月22日 (火)

ミニシアターの危機

昨日21日付日経新聞文化面「転機のミニシアター㊤」から、以下にメモする。

名古屋市千種区のミニシアター、名古屋シネマテークが7月28日に閉館した。倉本徹代表らが71年に始めた自主上映団体を発展させて、82年に開業。地方のミニシアターの先駆けとなった館だ。

閉館の理由は経営不振だけではない。倉本代表は「見たい映画を自ら上映して見る。そんな初期の精神が失われていった」と語る。「デジタル技術によって映画が容易に作れる時代になり、質が伴わない作品が増えた。上映したいと思える作品がなくなっていった」。ミニシアターの理念自体が揺らいでいるのだ。

京都市南区の京都みなみ会館も9月30日に閉館する。大阪市西区のシネ・ヌーヴォは7月15日から劇場存続のための支援と寄付を募り始めた。景山理代表によると経営の重荷は、デジタル映写機の更新に伴う数百万円のコスト負担。

10年代初めにフィルム映写機に代わって一斉に導入されたデジタル映写機は、どの劇場でも更新期を迎えている。札幌市中央区のシアターキノは900万円を借り入れたうえ、9月からクラウドファンディングで残る470万円を募る。倉本氏、景山氏と共にミニシアターの第1世代である中島洋代表は「ミニシアターの役割は変化している。映画館が選んだ1本をじっくり見てもらう時代はとうに終わった。多様な作品をできるだけ上映し、観客が自分で選ぶ時代になった」と語った。

・・・ミニシアターと聞けば、東京だとちょっとお洒落な感じだが、今池にあったシネマテークは雑居ビルの中にある試写室みたいな感じで、お世辞にもお洒落とは言えない場所ではあった。とはいえ東京でも一年前、ミニシアターの老舗である岩波ホールが閉館。図らずも、ミニシアター閉館ドミノ倒しの起点となった感がある。

確かに、もはやミニシアターが輝きを放つ時代ではないのかもしれない。今の映画は単なる娯楽作品ばかりになり、いわゆる「作家性の強い」作品は余り目に付かなくなった。隠れた傑作、埋もれた名作を見つける「目利き」の出番も無くなりつつあるのだろう。作品を自分で選ぶ時代になったのかも知れないが、「タイパ」という言葉もあるように、大量の作品がビデオや配信で流通する中で、時間を有効に使うため作品を早送りして見る=消費することを強いられるような環境の中で、一つの作品にじっくり向き合う姿勢は失われつつあるように思う。映画館で観るという、経験としての映画鑑賞は否定されつつあるようにも感じる。

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2023年8月14日 (月)

成田亨と金城哲夫

昨日13日付日経新聞別刷り(NIKKEI The STYLE)で、怪獣の話が特集されていた。タイトルは「怪獣の棲む国」。以下に内容の一部をメモする。

怪獣が愛され続けている理由の一つに、形態のユニークさ、多彩さがある。故・成田亨さんの手による初期ウルトラマンシリーズの怪獣のデザインは、近代アートとして改めて評価が高まっている。成田さんが育った青森市の青森県立美術館は、怪獣などのデザイン原画189点を所蔵する。

いまでは海外からも鑑賞者が訪れる。パブリック・コレクションになったことで異形や土俗といった様々な切り口で他の美術館からも借用依頼が相次ぎ、「美術家・成田亨」は全国に浸透しつつある。

初期ウルトラマンシリーズでは沖縄との関連も語られる。円谷プロダクションで企画部門の責任者を務め、メインライターでもあった故・金城哲夫さんは沖縄県南風原(はえばる)町の出身だった。

金城さんの脚本には正義が悪を退治する単純な勧善懲悪ではなく、怪獣が空や山に帰って行くような物語がある。弱者や異端者、倒される者への優しいまなざし。そこに、苦難の歴史を歩んできた沖縄の思いを重ねる指摘も多い。

仕事をしていた実家の書斎はいま「金城哲夫資料館」として公開されている。ハワイや香港など海外を含め、このウルトラの聖地を訪れる人は後を絶たない。

多くは60歳前後の初期ウルトラマン世代。「影響を受けました、と言って写真に手を合わせたり、涙を浮かべたりする人もいて・・・。ここに来る人たちに兄の偉大さを教えてもらっている」。弟の和夫さん(76)はそう話す。

・・・現在63歳の自分も、まさにウルトラマン「直撃」世代。昭和40年代前半、成田亨と金城哲夫、そして大伴昌司(少年マガジン「大図解」など)の三人が作り出したといえる怪獣ブーム。その熱狂の中に、僕たちはいた。今から思えば、ウルトラマン、その前作のウルトラQは、円谷英二のもとに芸術的才能溢れる人たちが集まり、寄ってたかって作り上げたもので、その内容は「子供向け」のレベルを遥かに超えて、日本の特撮テレビ映画の金字塔になった。そういう熱気と本気の溢れる作品に、子供の頃に出会った僕らは幸福だった。つくづく「怪獣の棲む国」、ニッポンの子供で本当に良かったと思う。

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