2021年8月27日 (金)

パラリンピックについてのメモ(2)

前回の東京パラリンピックは1964年11月8日に開幕した。日経新聞8/26付記事から以下にメモする。

大会は2部構成。8~12日が国際大会の1部、13~14日の2部は国内大会。当時、障害者のスポーツ大会は下半身に障害がある人たちの競技大会とみなされていた。それゆえ、陸上種目やバスケット、アーチェリーなど、ほとんどが車いすを使う人たちの競技だった。国際大会はここまでだった。64年の東京大会が画期的だったのは2部の国内大会だ。1部に参加できなかった視覚、聴覚や四肢障害者などを加え、さらに広い範囲の障害者の大会とした。この2部がのちの「全国身障者スポーツ大会」につながる。現在は知的障害者も加えた「全国障害者スポーツ大会」になっている。

大きな支えとなったのが皇室、とくに皇太子夫妻だった上皇ご夫妻の活動だった。1、2部の開閉会式への臨席のほか、毎日各競技を見て回った。上皇さまが2部大会を発展的に継続し、毎年開催するよう大会関係者に促したことはよく知られている。
皇室が身障者に寄りそうきっかけは傷痍軍人への慰めにあるともいわれ、大会参加者にも含まれていた。なぜか昭和天皇が観戦しなかったのは、戦争との関連が注目されるのを避けるためだったのか。

・・・上皇様のご尽力には頭が下がる。ところで僕は子供の頃、傷痍軍人を見た記憶がある。時は昭和40年代半ば。浅草寺の境内の片隅で、白い服を着た人10人くらいの集団が佇んでいた。中にはアコーディオンを奏でる人もいた。何だかもの悲しい・・・というよりも、単に恐かった。そんな記憶がある。

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2021年8月26日 (木)

パラリンピックについてのメモ(1)

パラリンピックが東京で開催されるのは2回目だという。のだが、正直、前回のオリンピックの時にパラもやってたのは知らなかった。以下は日経新聞8/24付記事からのメモ。

パラリンピックは1948年7月29日、戦傷による脊髄損傷者の治療をしていた英国ストーク・マンデビル病院で行われた、障害者によるアーチェリー大会に源を発する。52年にはオランダの選手も参加、第1回国際ストーク・マンデビル大会(ISMG)に発展した。
ISMGが五輪後にその開催都市で開かれたのは60年ローマ大会だ。これが後に第1回パラリンピックとされる。64年東京五輪後に東京で開かれた第2回ISMGが第2回パラリンピックだ。
実は「パラリンピック」という言葉が使われたのは、前回の東京が初めてだった。これは「パラプレジア(下半身のまひ)」と「オリンピック」を合わせた造語で、東京大会の愛称として付けられた。大会の正式名称として、「オリンピック」の名称を管理する国際オリンピック委員会(IOC)も認めた「パラリンピック」が使われるようになるのは、88年ソウル大会からである。この時から、五輪と「パラレル(並行した)」な「オリンピック」という意味になった。

・・・とりあえず後から見て、オリンピック開催都市で開かれるISMGが「パラリンピック」という位置付けになったという感じ。でも64年東京開催の時に、今と意味するところは違えども「パラリンピック」という言葉が既に大会のタイトルに使われていた、というのは、へぇ~という感じだ。

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2015年12月29日 (火)

名選手は名監督ならず

野村克也氏の語る監督論はサラリーマンにも頷けるところが多い――週刊ポストのネット配信記事からメモ。

「名選手、必ずしも名監督にあらず」。これにもしっかりとした根拠がある。現役時代にスター選手だった監督は、攻撃野球を好む傾向が強い。素人が見てもわかりやすい、派手な野球が好みだ。
言い方を換えれば、ただ打って走るだけの才能と技術に頼った粗い野球である。これでは到底、常勝チームなど作れない。

また、スター選手はその才能からデータを必要とせず、細かいチームプレーとも関係なくやってきた者が多いため、いざ監督になったら緻密な野球ができない。有効な作戦が立てられないし、相手の作戦を読むこともできない。

そしてもう一つ。スター選手は自分ができたことは、皆もできると思い込んでしまっている。並の選手の気持ちや痛みがわからない。自分のレベルで選手を見るためにうまく指導ができず、言葉より感覚を重視してしまいがちなのだ。

スター選手の代表格といえる王貞治、長嶋茂雄のONは確かに天才的な選手だったが、その余りある才能ゆえに苦労を知らず、それぞれの哲学がなかった。だから監督としてはまったく怖くなかった。

ONに共通していたのは、目の前の試合に一喜一憂していたことだ。
監督というものは「ではこの先どう守ろうか、どう逃げ切ろうか」が気になるのが普通だ。子どものようにはしゃいでいるヒマはない。

現に、川上哲治(巨人)さんや西本幸雄(阪急など)さんが試合展開によって一喜一憂していただろうか。どんなに勝っても仏頂面だった落合博満(現中日GM)までいくともはや変人だが、まだONや原辰徳(巨人)よりはマシだ。

・・・名選手、必ずしも名監督ならず。サラリーマン社会の中でも大いに在りうる話で、仕事のできる人が、人を育てることのできる人かというと、そうでもないのだよな。

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2015年12月22日 (火)

監督に求められる「言葉」

選手の信頼や信用を得るためには言葉が大切――野村克也氏の語る監督論。週刊ポストのネット配信記事からメモする。

「信」は万物の元をなす。選手がいかに監督を信頼、信用しているか。これがなければチーム作りなどできるわけがない。

その「信頼」を得るのに重要なのが「言葉」である。リーダーは人の前できちんとモノが言える人物でないといけない。選手が聞いて感心し、納得するような言葉を持つ者こそが、選手から信頼・信用される良い監督なのだ。

球界も結局は、出身大学やその派閥がモノをいう学歴社会だ。田舎の高卒で、しかもテスト生で入った私が将来監督になれるなどとは思ってもいなかった。だから引退後は解説者としてなんとか球界に残りたいと思い、どの評論家にも負けないような解説をしようと思った。

そうして一生懸命頑張っていればわかってくれる人がいる。こんな私の姿をある人が見てくれていた。
あれは1989年のオフのこと。いきなりヤクルトの相馬和夫社長がやってきて「監督をやってほしい」といわれた。私はパ・リーグの人間だからセ・リーグの野球は知らない。何故私なのですかと聞くと、「野村さんの解説を聞き、新聞の評論を読んでこれが本当の野球だと感心した。うちのバカどもに本物の野球を教えてやってほしい。チームがうまく行かなければ私も責任を取る」といってくださったのだ。
これが就任の決め手となった。結局、優勝させるのには3年かかってしまったが、見事優勝した時には相馬社長が飛んできて私の両手を握って放さなかった。その感触は今でも忘れられない。私がヤクルトの監督になったのも、解説という「言葉」がきっかけだったのだ。

説得力、そして重みのある「言葉」を発し、選手から「信」を得られるかどうか。監督業とはそれに尽きるのだ。

・・・ノムさんは言う。巨人、阪神、横浜の新監督には、その「言葉」がない。だから心配だ、と。まあ言葉に重みのある人というか、ノムさんほどの努力家はそうそういないと思うけど。

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