終戦直後の集団自決頻発
81年前の8月23日、「国体明徴」を唱えるある結社の人々が集団自決した。17日付日経新聞のコラム記事「昭和史スケッチブック」からメモする。
前夜からの雨が降ったりやんだりの、蒸し暑い日だった。1945年8月23日のことである。
玉音放送が流れて1週間あまり。東京・新橋の駅前から祝田橋の十字路に向かう12人の一団があった。彼らは楠木正成の銅像のあたりで宮城(皇居)を遥拝すると、用意の短刀や拳銃を手に一斉に自裁に及んだ。午前11時だった。
事件を起こしたのは、日本郵船の海員を中心に「国体明徴」を唱えて活動していた明朗会のメンバーや同調者である。敗戦を迎えて突如、「国体護持ノ征戦」を叫んで集団死に至るのだ。メディアは「一死・皇国に殉ず」(8月29日付「読売新聞」)などと伝えたものの、敗戦の衝撃収まらぬ紙面のなかで相対的に扱いは小さい。各紙とも、同じ時期に起きた右翼団体の集団自決と合わせて明朗会の事件を報じている。22日には「尊攘同志会」のメンバー10人が芝の愛宕山で自決し、25日には「大東塾」の14人が代々木練兵場で割腹し、命を絶った。そもそも終戦直後には、小規模とはいえ軍人による反乱が相次ぎ、自決者も各地で続出していた。その数は600人にのぼるとされる。
戦争体験の継承を訴え続けた評論家の安田武は、彼らの自決は「『憤死』とでも名づくべき相を、色濃くもっていた」と指摘した(「記録 自決と玉砕」)。
・・・「国体明徴」とは何ぞや。とりあえずの調べとして、まず「国体」とは、日本は天皇中心の神の国である(昔、森首相が言ったことです)ということで、「国体明徴」とは、そのような日本国家の在り方をはっきりさせること。これが政治運動として現れたのが1935年、美濃部達吉の「天皇機関説」(天皇を国家機関の一つとみなす学説)が問題視されて始まった「国体明徴運動」。軍部・在郷軍人会・右翼団体などからの圧力に岡田啓介内閣は耐え切れず、「国体明徴声明」を出して天皇機関説を否定するに至る。以降、軍部の政治への影響力は増大の一途を辿る。
というようなことで、「天皇機関説」も昔、受験勉強で言葉だけは覚えたなあという感じ(苦笑)なのだが、この辺りから戦前日本の政治の前提は、国家>天皇から天皇>国家に、それまでいちおう立憲君主国家だったものが国体至上主義国家に転じたという印象だ。何にしても、戦前の思想は日本の近代化の一つの帰結には違いないし、終戦直後の「国体護持」を訴える「憤死」的集団自決も、戦前の思想に基づいた行動なのだから、日本の近代化の「陰画」的な出来事のひとつとして考えておく必要はあると思う。
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