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2026年8月12日 (水)

日米開戦と大島浩の「情報」

今日のネット記事(「現代ビジネス」のサイト)で、第二次世界大戦時の駐ドイツ大使・大島浩の話を読んだ。

大島浩(1886-1975)は日独防共協定や日独伊三国同盟を推進。ヒトラーに心酔し、ナチス幹部と太いパイプを築いた。戦後は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、終身刑。恩赦による釈放後、公の場に現れることはなかった。

1941年6月、ヒトラーからソ連侵攻を示唆された大島は、この重大情報を本国に伝えた。実際に作戦が始まり、大島は政府内で絶大な信頼を獲得。そして秋には、「ドイツは計画通り、厳冬期前にソ連軍を壊滅し再起不能にできるだろう」と打電。これも信頼できる情報として、日本が対米開戦を決意する要因の一つになったと見られている。だが実際には大島自身も、ドイツ軍の強さを十分な根拠もなく信じ込んでいた、と生前語っていた。昭和史研究の第一人者である作家の保阪正康氏は、「大島さんは、ちょっとドイツびいきすぎた。100パーセント、ドイツにほれてしまった」と評する。以下、記事の一部をメモする。

ただ、保阪さんは、大島だけでなく、当時の指導者や国民の多くが、ナチス・ドイツとヒトラーの勢いに惑わされていたことを忘れるべきではないとも強調した。「日本もドイツに続け」という空気が支配的になっていたのだ。三国同盟締結前後の流行語「バスに乗り遅れるな」に象徴される「付和雷同」の国民性にこそ、本質的な危機があったと語る。

・・・戦争に向かう日本国内の「空気」は、ドイツの快進撃、加えてアメリカの強硬姿勢により醸成されたのだと思える。「空気」というと、何となくできるもののような感じもするが、やはりそれができる理由はあるのだ。おそらく「空気」ができること自体を抑え込むのは、殆ど不可能だとしても、肝心なのは、そこでいったん踏み止まることなのだろう。なぜこんな「空気」になっているのか、その理由を考えてみる。それしかないのか、それでいいのかと疑ってみる。まあ、そうはいっても、一度出来つつある「空気」の中で立ち止まる強さを持つのも、やっぱり難しいよなあ。

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