終戦の詔書、緊迫の作成
8月3日付日経新聞コラム記事「昭和史スケッチブック」からメモする。
「十日、十一日、十二日の三晩ほとんど徹夜して、何枚も原稿用紙を破りすてながら、ときには、涙で原稿用紙を濡らしながら、どうやら形を作り上げた」
終戦時に内閣書記官長だった迫水久常は、1964年刊行の手記「機関銃下の首相官邸」に、こんな回想をつづっている。45年8月15日に「玉音」として放送された「終戦の詔書」だ。
10日未明の御前会議で、昭和天皇は戦争の即時終結を表明した。終戦詔書づくりの混乱が、この日から始まったのである。
歴史研究者の茶園義男は、国立公文書館に眠っていた詔書作成過程を示す文書を80年に発見。この資料と、終戦時の内閣嘱託で漢学者の川田瑞穂が残した草稿がほとんど一致していることを突き止めた(「密室の終戦詔書」)。
もっとも、御前会議での天皇の発言を川田は聞いていないから、草稿の前の段階で、迫水が下書きを用意した可能性はある。それを川田が草稿にまとめ、迫水が引き取り、案文があわただしく関係者のあいだを行き交った――。
やがて、天皇が「ご聖断」を下し、ポツダム宣言受諾が決まるが、その条件や詔書の表現をめぐるせめぎ合いが続く。詔書は原本にさえ、行間に書き込みがあるのだ。中立国に詔書発布が打電されたのは14日午後11時だった。
・・・日経紙面には、タイプ打ちされた「詔書案」の一部の画像が示されているが、戦局を述べる部分に手書きで「必ずしも好転せず」の文言が追加修正されているのが分かる。この文言に関する閣内の対立が、映画「日本のいちばん長い日」の場面に(旧作にも新作にも)出てくる。陸軍大臣が「必ずしも好転せず」を主張して、反対していた海軍大臣も最後は折れる、ということだったらしい。この辺は、会社の中でもある話だなー、と思ってしまった。
「終戦の日」は、ポツダム宣言受諾を正式通告した8月14日(詔書の日付も14日)、あるいは戦艦ミズーリ船上の降伏文書調印日である9月2日(国際的にはこっち)という考え方もある。まあそれも手続き重視の話かな、と思う。やはり日本国民が玉音放送で敗戦を知った8月15日が、紛れもない「終戦の日」で良いんだろうな。
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