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2026年1月23日 (金)

「定年後の後」は「隠居」が理想

60歳の定年後、10年を過ぎて70代に入る頃から、多くの人は老いを実感し始める。定年後も何らかの仕事をしていた人も、70歳を超えると働き続けるのは難しくなってくるだろう。つまり「定年後」は10年で終わり、次の段階「定年後、その後」に入る。そのひとつの理想は「隠居」であろう・・・『定年後、その後』(楠木新・著)からメモする。

日本には、定年に近い概念として「隠居」がある。隠居は、辞書を見ると「仕事や生計の責任者であることをやめ、好きなことをして暮らすこと(人)」とされている。

「定年後、その後」を吟味していくと、まさにこの隠居こそが目指すべきひとつのゴールのように思えてきた。隠居には、単に「仕事を退いてのんびり暮らす」ということだけでなく、好きなことをして過ごすという意味が含まれているからだ。

「定年後、その後」を隠居の位置づけにするためには、主体的な意思や姿勢が不可欠だといえる。老いても自分で考えることが重要だ。

老いが進む中で、新たな世界を切り開いたり、自身に変革を起こしたりすることも簡単ではなくなってくる。また行動範囲もさらに狭くなる。そこでのホームグラウンドは、日常生活であり、その中に最大限の楽しみを見つけることが基本になるだろう。

「定年後、その後」になると、これから新しい能力を身につけたり、努力して成長することは難しくなる。今、自分が持っているものを大切にして、その中に〝いい面〟を見つける力が問われているのだ。

・・・「老いても自分で考える」「日常生活の中で最大限の楽しみを見つける」「今、自分が持っているものを大切にする」とか、楽しい隠居のための心がけになると思われる。やはり年を取ると、新しいことをやるのはかなり難しくなる。もちろん挑戦するのはいいことだけど、昔やったことをやり直してみる方が、まあまあ無難?というか、それで日常生活は十分楽しくなるんじゃないかと思う。

自分の指針は、出口治明さん(世界史を愛好する元経営者)の言う「人、旅、本」。人に会う、旅に出る、本を読む。詰まるところ、人間のやることはそれしかない。年取って隠居の身になっても、それがやれていれば十分だろうと。

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2026年1月22日 (木)

69条解散と7条解散

20日付日経新聞政治・外交面記事から以下にメモする。

自民党が結党し比較的安定した政治体制となった「55年体制」以降の衆院解散22回のうち、前回から2年以内(衆院議員の任期4年間の折り返し前)のケースは、1980年の「ハプニング解散」など3回にとどまる。

80年は自民党の反主流派が造反し、野党が提出した内閣不信任決議が可決された。与野党ともに予期しない展開だった。2005年の小泉純一郎首相の「郵政解散」は郵政民営化法案を参院が否決したのがきっかけだった。14年は安倍晋三首相が消費税の増税先送りの是非を国民に問うのを大義に11月に解散した。

衆院解散は憲法に根拠とする条文が2つある。解散を内閣の助言と承認により天皇が行う国事行為と位置づける7条と内閣不信任決議が可決した場合の69条だ。69条は22回のうちハプニング解散など2回で、大半は「解散は首相の専権事項」と解釈される「7条解散」だった。

高市早苗首相は23日召集の通常国会の冒頭で衆院を解散すると表明した。前回衆院選から解散までの期間はハプニング解散の7カ月ほどを上回るものの、7条解散としては過去最短となる。1年3カ月ほどで任期の3分の1に満たない。

・・・「55年体制」以降の69条解散は、80年と93年。80年は総選挙期間中に大平首相急死という一大事が起こり、「弔い合戦」的な勢いも出て自民党が勝利した。93年は宮沢内閣不信任案可決、自民党分裂で総選挙実施。その結果、細川内閣が誕生し連立政権時代が幕を開けるという、歴史的な選挙となった。

こう見ると、内閣不信任案が通るというのは稀なケースなのだな(当たり前か)。ひと頃は、国会会期末に年中行事のように、野党から内閣不信任案が出て、粛々と否決されていた。単純に考えれば、与党に造反者が出ないと可決は無理なわけだから、そういう見通しもないのに、不信任案提出を繰り返していた野党は、実績にもアピールにもならないことをやってたと言うほかない。

さて今回の解散は、高市首相が高い支持率(期待率?)を背景に小泉型安倍型の解散を打って、与党の安定多数確保を目指すということらしいが、逆に言えば、現状の与党議席数での政権運営に自信がないと言ってるようなものだ。やはり現状のまま野党の協力を得ながら、とにかく予算を仕上げるところまで頑張ってやってから解散、という普通の道筋が望ましかったように思う。

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2026年1月18日 (日)

「中道改革連合」の示すもの

立憲民主党と公明党の合併による新党「中道改革連合」結成の、社会学的意味とは何か。宗教学者・島田裕巳のnote、1/16投稿(創価学会消滅の意味するものは何か?)から、以下にメモする。

国家と個人の間に立ち、個人をアノミー(無規範状態)から守る緩衝材としての「中間集団」は、健全な民主主義社会に不可欠である。かつての日本には、以下の三つの強力な中間集団が存在し、政治参加の基盤となっていた。
1.企業・業界団体(自民党支持基盤)
2.労働組合(社会党・民主党支持基盤)
3.宗教団体・地縁組織(公明党・自民党支持基盤)
2020年代半ば、これら全てが機能不全に陥っている。

2026年の「中道改革連合」の結成は、衰退する二つの古い中間集団(労組と宗教)が、互いの欠損を埋め合わせようとする「弱者連合」としての側面を持つ。
立憲民主党(労組依存)と公明党(学会依存)の提携は、新たな価値観や支持層の開拓ではなく、残存する組織票を効率的に配分することで延命を図るシステムである。しかし、これは「無縁社会」化して浮遊する大多数の有権者(無党派層)や、既存の中間集団から排除された層(ロスジェネ、若年非正規)の受け皿にはなり得ていない。

公明党が「中道改革連合」を通じて政治的延命を図ることは、短期的には一定の合理的選択である。しかし、長期的には、支持母体の人口動態的消滅という根本問題は解決されない。「宗教政党」としての看板を下ろし、真の「中道福祉政党」へと脱皮できるかが問われるが、創価学会との一体性が強すぎる現状では、その転換は極めて困難である。

公明党の危機は、日本社会における「共同体の喪失」の最終局面を象徴している。戦後民主主義を裏で支えてきた「組織による動員」というシステムが終焉を迎え、代わって現れたのは、孤立した個人がSNSやポピュリズムの風に煽られて流動する、極めて不安定な政治空間である。個人化・流動化した社会において、いかにして新たな「連帯」や「相互扶助」のネットワーク(新しい中間集団)を構築するか。それが無き限り、日本の政治は「孤独な個人」たちのルサンチマンと不安によって漂流を続けることになるだろう。

・・・明快な図式化。さすが島田先生。個人的な印象では、公明党も以前よりは宗教色が薄まっているような気もするのだが、やっぱり一般的な政党になるのは難しいのかな。それでも、立民との「合併」により、何らかのケミストリーが生じることを期待したいものだ。

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2026年1月16日 (金)

岡田奈々!

先日、映画「五十年目の俺たちの旅」を、吉祥寺オデヲン座で観た。平日の映画館の中は、シニアだらけ(お前もだろ 苦笑)だった。

このドラマ、自分の年代的にはリアルタイムなんだけど、実はそれほど熱心に見てなかった。当然、その後のスペシャルドラマ「十年目の~」「二十年目の~」「三十年目の~」も見てないし、到底ファンとは言えないワタシだが、今回「五十年目の~」が作られたこと自体は凄いなと感じたので、観ることにした次第。

ちなみに、同じ頃の日本テレビ系「飛び出せ!青春」、村野武範主演の学園ドラマ(レッツビギン!)に出てくる高校生・木次君は、結構自分の好きなキャラだったが、演じていた森川正太(故人)は「俺たちの旅」にも浪人生役で出ていて、今回の映画の中でも過去映像でちらほら映っていた。

さて「五十年目の~」だが、まずは岡田奈々である。昔(50年前 汗)、何かのCMで、セーラー服姿の彼女をテレビで見た時、同い年でこんな可愛い子がいるのかと、驚愕した覚えがある。映画の中にも過去映像で、母子役の八千草薫と岡田奈々が抱き合うシーンがあるが、画面に満ち溢れる女性美に息を呑む。母が八千草薫、田中健と岡田奈々が兄妹だから、美男美女すぎる家系だあ~(笑)

全体的なお話の印象としては、やや暑苦しいし少々説教臭いし、やはり「昭和の」という形容を付けざるを得ない。何となく落ち着きどころを得ない男たちの有り様が、切ないとか寂しいとか、かなりセンチメンタルな色合いで描かれるという按配。まあ自分も、このドラマから伝わる感覚的なものは分かると言えば分かるのだが、全面的に共感できるかと言われれば、それはないなあ。カースケ(中村雅俊)の昔の恋人洋子は既に亡くなっているのだが、物語の前半に、その洋子の言葉をカースケに無理やり思い出させる「仕掛け」がある。じゃあそれでカースケが何か行動するかというと、特にそういうことはなく、後半はオメダ(田中健)の気持ちにカースケやグズ六(秋野太作)が動かされていくという展開。正直言うと、金沢碧が演じていた洋子は魅力的な女性とは思えなかったので、それもドラマをあんまり見なかった理由かな。まあ、「青春」の雰囲気は濃厚にあるドラマだとは思うけど、それも小椋佳の作った主題歌の力が大きいかも(苦笑)。で、映画を観終わった後、京王線井の頭公園駅に行ってみました。伝言板は無かったです。(そりゃそうだ 笑)

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2026年1月14日 (水)

午年の総選挙、どうなる株価

1月解散で、日銀も利上げを進めやすくなった。本日付日経新聞投資面コラム記事(6~7月利上げに自由度)から、以下にメモする。

23日召集の通常国会冒頭で衆院を解散する案の浮上は、日銀の利上げシナリオにも影響を及ぼす。一部で有力視された6月の解散が常識的には消えるため、次の金利引き上げ時期の候補である6~7月に動きやすくなるからだ。6月か7月が次回利上げ決定時期の候補になるのは、春季労使交渉で決まりそうな高めの賃上げの実施状況が見えてくるので、利上げ判断を下しやすいため。

1月の衆院解散はめったにないが、過去半世紀では1990年に前例があり、2月に総選挙があった。当時も日銀の利上げ局面で、2月の選挙で自民党が勝利し、3月に日銀が利上げを決めた。8月にはイラクのクウェート侵攻もあり、原油高によるインフレ懸念などに対応し日銀は再び利上げを決めた。2月までに「選挙の季節」が終わった自由度から、2度の利上げに動きやすくなった面もあったのではないか。

当時と今を単純比較すべきではないが、年初から一定期間続いた円安基調、地政学的リスクといった点も似ている。今回も選挙後に日銀が金利引き上げを進めていく同様のパターンになっても不思議はない。

・・・今年は午年、株式相場の格言でいう「午尻下がり」の年。過去の午年を見ると「1990年」が目に付く。言うまでもなく、株価大暴落の年である。前年89年の春から日銀が金利引き上げを進める中、年末に当時の史上最高値を付けた株価は、年明けから下落に転じ、2月の総選挙で自民党が勝利したにも関わらず、相場の下げは加速していった覚えがある。

午年、2月総選挙、日銀の利上げ・・・36年前と同じことが株価に起こるとは思わないけれど、とにかく相場の上昇スピードが速すぎるので、反動が大きくなる恐れもあると感じる。

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2026年1月12日 (月)

加藤茶の「ちょっとだけよ」

ブックオフで『ドリフターズとその時代』(笹山敬輔・著、文春新書2022年)を買った。この本は、伝説のテレビ番組『8時だョ!全員集合』(1969年10月~1985年9月)を舞台の生中継であると捉えて、ザ・ドリフターズを日本演劇史の中に位置付けて正当に評価しようと試みるなど、意欲的な労作だと思う。以下に、一世を風靡した加藤茶のギャグ「ちょっとだけよ」について、同書からメモする。

(1971年4月から番組は半年間休止した。)再開後の『全員集合』は30%台の視聴率をキープし、ときに40%を超えた。何よりも加藤が絶好調だった。繰り出すギャグは次々と流行し、1972年には「ちょっとだけよ」が初登場する。

トランペットのメロディに乗って加藤がストリッパーのように足を上げ、身体をくねらせながら、「ちょっとだけよ」「あんたも好きねえ」と客席に声をかけた。曲はラテン音楽のスタンダードナンバーである『タブー』だ。

子どもたちの間で大流行し、学校でもこぞって加藤の真似をしたために、教育現場からは抗議の声があがった。だが、今見ると、当時の加藤自身が子どもっぽいキャラクターのため、いやらしさは感じない。子どもたちには、ストリップ劇場という文脈ではなく、音楽やフレーズの面白さでウケたのだろう。

「ちょっとだけよ」効果もあってか、1973年4月7日、視聴率は50.5%に達した。16年間の歴史における最高視聴率である。

・・・当時の子供である自分(えーと、1972年というと中学生になった年です)の記憶では、男であるカトちゃんがストリップするのが単純に面白かったのだと思う。大人はいろいろ知ってるから騒ぐ、ということなんだろうけど、子供は何となく知ってる(よく知ってたら、その方が問題 笑)程度なので、単純にカトちゃんの動きやせりふを楽しんだというところ、です。

毎週毎週、作りこんだコントを舞台で披露したドリフ。「作りこむ」というと、円谷プロの特撮ドラマも思い出す。ドリフと円谷を見て育った我々、ニッポンの子供でホントに良かったなあと、つくづく感じる。

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2026年1月11日 (日)

秀吉と家康の「連れション」

NHK「大河ドラマ名場面スペシャル」を2回見た(1月2日地上波90分版、1月10日BS放送120分版)。

今年の大河ドラマは「豊臣兄弟!」ということで、「よみがえる戦国武将たち」と題して、過去の「戦国大河」からの名場面を特集。特別ゲストは竹中直人。「秀吉」(1996)と「軍師官兵衛」(2014)で2回、豊臣秀吉を演じた。このほか、前回戦国大河の「どうする家康」(2023)、女性が主人公の「おんな城主直虎」(2017)も、主演俳優がインタビュー出演していて、以上の4作品が番組の中心という感じだった。

このほかに出てきた戦国大河は、「おんな太閤記」(1981)、「江~姫たちの戦国~」(2011)、「徳川家康」(1983)、「利家とまつ」(2002)、「真田丸」(2016)、「毛利元就」(1997)、「独眼竜政宗」(1987)、「麒麟がくる」(2020)、「功名が辻」(2006)といった作品。

秀吉に関連する大事件の描き方の違いを見るコーナーでは、金ヶ崎退き口、本能寺の変、小田原攻めがテーマに。小田原攻めでは、いわゆる「関東の連れ小便」シーンが登場。「真田丸」では秀吉(小日向文世)と家康(内野聖陽)が、「功名が辻」では秀吉(柄本明)と家康(西田敏行)が「連れション」。これに対して「どうする家康」では、秀吉(ムロツヨシ)が一人で放尿。家康(松本潤)は付き合わない。ずるいなマツジュン、これじゃ「連れション」にならないぞ。

まあ自分的には、もう50年も前の作品ですが、「国盗り物語」(1973)が一番よく出来た戦国大河であるという評価は変わらないです。

そういえば、「国盗り物語」の徳川家康役だった寺尾聰は、「軍師官兵衛」でも家康を演じた。この作品では秀吉も家康も2度目の配役、竹中直人18年ぶり、寺尾聰41年ぶりと、どちらも記録的な「ぶり」だな。

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2026年1月10日 (土)

ゴッドファーザーの糖尿病

映画「ゴッドファーザーPARTⅢ」で、マイケル・コルレオーネを苦しめる発作は典型的な糖尿病の症状らしい。ブックオフで買った『死ぬということ』(黒木登志夫・著、中公新書、2024年)からメモする。

(敵の襲撃から)かろうじて難を逃れたマイケルは、ストレスと興奮から高血糖昏睡に陥る。その症状、腹痛、呼吸の乱れ、精神錯乱、糖尿病昏睡の症状を(アル・パチーノは)見事に演じきっている。

マイケルは(枢機卿との談話中)、低血糖で倒れる。彼は、震える手でネクタイを緩め、オレンジジュースとキャンディをもらう。オレンジジュース一杯には、糖分が10~15グラム含まれているので、低血糖を補うのにはよい方法である。

椅子からくずれ落ちるように死ぬ最後のシーンは、糖尿病が引き金となった心筋梗塞の可能性が高い。

・・・映画のシーンを思い出すと、改めて糖尿病ってよく分からんが怖い病気だなと感じつつ、やはりアル・パチーノは名優なのだなと思う。

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2026年1月 5日 (月)

「責任ある積極財政」の運用

高市政権の掲げる「責任ある積極財政」。しかし積極だろうが緊縮だろうが、財政に責任が求められるのは当たり前だろう。本日付日経新聞オピニオン面のインタビュー記事(積極財政の「責任」とは)からメモする。

「国債の格下げリスクはそれほど高くない。債務残高の国内総生産(GDP)比が低下するなど、財政規律が表面上は改善しているためだ。しかし中身を見ると、インフレによって所得税や消費税の税収が上振れているだけだ。財政再建しているように見えるが一時的で、構造的に良くなったわけではない。」
「物価高対策であるのに、インフレの主因である食料には一切手をつけなかった。食料についてほとんど議論がなかったのは、根本的に間違っている。一つの方策は、食料品にかかる消費税の負担を減らすことだ。」(白井さゆり・慶応大学教授)

「日本は政策を遂行する時に、恒久財源を求めすぎではないか。将来の所得や成長を生む投資なら、国債発行は当たり前だ。」
「積極財政は野放図に財政出動するという意味ではない。財政指標をみながら、このぐらいがちょうどいいという水準を見定めながら判断することが大事だ。見るべき指標のなかで、企業貯蓄率は最も重要な指標の一つだと考えている。過去30年近く貯蓄率はプラスになっている。企業が国内支出や賃金、投資を切り詰めている証拠だ。高市政権が掲げる官民連携の成長投資で企業の投資活動を活発化させ、国内支出をぐんと増やして企業貯蓄率をマイナス、つまり投資超過にする必要がある。」
「財政出動をする際には、企業貯蓄率と財政収支を足し合わせた『ネットの国内資金需要』の管理が重要だ。企業と政府のお金を使う力が日本経済全体の膨らむ力になり、家計に所得が回る力になる。」(会田卓司・外資系証券エコノミスト)

・・・昔、バブル崩壊後の1990年代、企業と家計は借金返済に追われていたので、国が借金して公共投資にお金を使い、景気を何とか支えた。現在も、企業は株主配当と内部留保にお金を振り向け、家計は物価高で思うようにお金を使えない。ということで、国が借金してお金を使わざるを得ないのかもしれないが、どうも効果的とは言えない「バラマキ」をしているように思う。まずはとにかく企業にお金を使ってもらうため、投資や賃金アップを後押しすることが肝心だろう。結局、ポイントがズレたり無駄遣いになりそうな積極財政は、将来に禍根を残す。「責任」があるのは当たり前、「上手に運用される積極財政」を望む。

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2026年1月 4日 (日)

ニーチェ的に生きるとは

新春セール中のブックオフで、『ニーチェ[超]入門』(白取春彦・著、2010年発行)を値札の20%引きで買った(笑)。以下に、「力への意志/生きることとは何か」の章からメモする。

(生きることの)目的はともかくとして、人は生きるとは何かと問う。個人的な生き方のみがあるために、一般的な回答は得られないのかもしれない。ところが、哲学では一般的な回答を目指す。ニーチェの観点はまた少し異なる。

ニーチェは生の正体を見ようとは思っていない。生きるとはどういうふうになっていくことなのか、という見方をする。生きることの本質とは、「絶えざる拡張と増大に向かう力への意志」だというのだ。しかも、この力への意志には目的とか目標というものがない。何のためがなく、無限増大ばかりを目指す不断の働きなのだ。

こういう力への意志だけに染まった人格として、ニーチェは「超人」をイメージしている。超人は力への意志を純粋に体現し、ひたすら創造的でもある人格だ。創造的というのは、昨日までの自分を否定して、つねに新しい自分になっていくということだ。

・・・ニーチェの「力への意志」が意味するところは、生きるとはテンション上げて生きていくことだ、という感じかなと思う。生きることについて、おそらく一般的な意味や目的はない。人はそれぞれ、自分の意味や目的を設定して生きていくほかない。生きる根本に意味や目的があるというよりも、テンションを上げて生きていくために意味や目的が必要とされる、ということだろう。その時々の自分のテンションを上げるために、必要な意味や目的も変わっていく。変化する意味や目的と共に、自分自身も更新されていく。「自分らしく」生きるとは、常に新しい自分を発見するということだろう。まあ「実存的」に生きる、と言っていいんでしょうね。

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