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2025年7月31日 (木)

「藤田嗣治×国吉康雄」展

「藤田嗣治×国吉康雄」展(兵庫県立美術館、8月17日まで)を観てきた。先週末の日経新聞で紹介されていたのを見て、名前くらいしか自分は知らない画家だけど、海外で活躍した同年代の日本人画家をカップリングしてみせるのは面白い企画だなと感じた。巡回するのかなと思ったが、兵庫県立美術館のみの開催ということで、まあヒマもある金もそこそこある隠居の身としては、兵庫まで遠征することにした次第。(画像は上が美術館屋上にあるカエルのオブジェ。何じゃこりゃ~。下は展覧会カタログ。左が表表紙の藤田作品、右が裏表紙の国吉作品)

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藤田が1886年東京生まれ、国吉は1889年岡山県生まれ。藤田は東京美術学校を卒業し、パリに留学。国吉は16歳で労働移民として渡米、西海岸で働きながら公立学校に通い、教師に勧められて画家を志し、ニューヨークで研鑽を積む。若き二人の画家は共に30歳頃に、初個展を開いてキャリアをスタートさせる。

1920年代、藤田は「乳白色の裸婦」作品で絶頂期に。国吉も、29年にはニューヨーク近代美術館の展覧会に出品するなど評価を高める。

世界恐慌により世界が混迷する中、33年に藤田は日本に帰国する。そして日米戦争突入。藤田はいわゆる「戦争画」に取り組む一方、国吉はアメリカで「敵性外国人」の扱いを受けながら、反軍国主義をテーマに作品を生み出していく。戦争の時代、二人の画家の歩んだ道のりは対照的だった。

戦後、アメリカの画家としての評価を確立した国吉だったが、ガンに侵され1953年に死没。享年63歳。藤田は再び日本を離れ、50年にパリに戻る。55年フランス国籍を取得、59年にカトリックとなる。1968年に81歳で没した。

藤田はフランスで、国吉はアメリカで活躍。画風も全く異なるし、対照的な人生を歩んだように見える。しかし両者とも、大いなる才能を発揮して海外で高い評価を得ると共に、戦争という時代の嵐の中で、それぞれが自らの信じる道を進んだところは共通している。二人の間に交遊など濃密な関係があったわけではない。それでも、同じ時代を生きた二人の画家の人生を合わせ鏡のようにして見ると、お互いの人生の光と影が、より際立って現れるように思えた。

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2025年7月23日 (水)

渋谷陽一の訃報

音楽評論家の渋谷陽一氏の訃報が伝えられた。7月14日死去、享年74歳。知らなかったけど、一昨年11月に脳出血で入院、その後療養及びリハビリ生活だったらしい。

50年前の高校生である自分にとって、渋谷陽一といえばNHKのFM番組「ヤングジョッキー」である。NHKのサイトから、番組内容の説明を引用する。「放送年度:1976~1978年度 最新のロックと音楽情報を紹介するディスクジョッキー番組。ディスクジョッキーは渋谷陽一。初年度はFM(日)午後9時からの60分番組。1977年度は(土・日)の週2回に増設された。」

レコードを好きなだけ買えるはずもない高校生にとって、「ヤングジョッキー」は音楽雑誌(「ミュージック・ライフ」か「音楽専科」)と共に、ロックの重要な情報源だった。日曜日夜9時からのFM番組を、必死でエアチェック(FM放送を録音すること。死語ですね)していたなあ。

渋谷陽一といえば、雑誌「ロッキング・オン」。といっても、自分は「ロッキング・オン」を、まともに読んだことはなかったと思う。でも昔、渋谷陽一が「クイーンのロジャー・テイラーの写真を表紙に使ったら、売れたので有難かった」とか言ってた記憶はある。(苦笑)

そして渋谷陽一といえば、当然ロック評論家。とりわけレッド・ツェッペリンを圧倒的に高く評価していたのだが、とりあえず自分が「なるほどー」と思ったのは、キング・クリムゾンの話だけど、「アンコールで『21世紀の精神異常者』を演奏するのは、彼らの自己確認である」と語っていたこと。とっても感心したんだけど、後々になってから、「自己確認」って言葉は何にでも使えそうだなあ、って思った。ベタに言えば、人生とは自己確認である、とか(苦笑)。(そうだ、今は「精神異常者」じゃなくて「スキッツォイド・マン」なんだよな。くだらない改変だなあ、といつも思う)

渋谷陽一の業績は数多あるのだろうが、50年前の高校生にとっては、70年代におけるロックの伝道師であったことが、最も偉大な功績として記憶される人物なのであった。R.I.P.

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2025年7月22日 (火)

参政党躍進の背景

本日付日経新聞記事(与党大敗、識者の見方)から、以下にメモする。

参政党は、社会の中で脆弱な立場に追いやられていると感じる人々の連合体をつくった。石破政権が中道化し、空いた右のスペースを参政が埋めた。特に現役世代の負担感が強い。親の介護、育児の出費、自分の給料が増えない不満が、第三極への支持につながった。参政は、現役世代の中でも政治に関心がなかった層を新規開拓している。(吉田徹・同志社大教授)

比例票をみると、与党の大敗を招いた票は、参政党や国民民主党といった保守系の政党に流れた。既存政党を見限った有権者の支持が分散し、多党化が顕著になった。多党化の要因として今注目されているのが、経済的な安定を実感できずに疲弊する人の存在だ。既存政党の政策が、暮らしや地域に反映されない長年の不満が蓄積した。将来の見通しが持ち得ない現状を変えたい人々が、新しい選択肢に活路を見いだそうとした。(今井貴子・成蹊大教授)

特に国民民主党と参政党が予想以上に伸びた背景に、自民党支持層がある。物価問題など経済対策を心配する人は国民民主、外国人問題を心配する人は参政に投票したと分析する。日本の外国人問題は、これからの問題だ。総人口に対する移民の割合が10%を超すと、社会問題が顕在化すると指摘される。日本は3%ほどと、参政が主張するほどの問題には達していない。(自民党が)けじめをつければ、自民支持層は戻ってくるのではないか。(庄司克宏・慶大名誉教授)

・・・安倍派の弱体化もあり、国民民主党と参政党に流れた自民党保守派の票が、将来的に自民党に戻る可能性は大きくない感じがする。安倍元総理の銃撃死から3年、日本の政治風景は随分変わったと思わざるを得ない。

「外国人問題」というのは、自分には正直よく分からない。参政党の躍進は、欧州における極右台頭に準えられることもあるが、どうなんだろう。欧州極右の方々からは、「日本は移民が少なくていい」と羨ましく思われてると聞いていたので(苦笑)。日本に住む外国人は増えてきているが、まだ仕事を奪われるとか、そういうレベルではないように思われるし。まあSNS選挙ってネトウヨの色が付いているなあというのが、SNSと無縁に暮らす自分の感想である。

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2025年7月21日 (月)

またもや政治は混迷の時代へ

昨日の選挙の結果、参議院でも与党過半数割れが実現。本日付日経新聞朝刊のコラム(混迷の時代の始まり)から、以下にメモする。

長期に及ぶ混迷の時代が始まる。政治が長く構造的な不安定に陥ると固まったからだ。経済、社会、国民生活、すべてが打撃を受ける。

これから幕を開けるのは本格的な多党制だ。自民党の大幅減で、野党期間を含めて四半世紀続いた自公連立は機能不全になる。新たな枠組みを模索することになる。

多党制になる意味は何か。1990年代の選挙制度改革で目指した「政権交代可能な二大政党制」が名実ともに終わったということだ。単独で政権をとれない政党が乱立する多党制が続く。予算案や法案を通すための政策協力から連立の拡大まで、あらゆる手を尽くさなければ政治は回らない。

選挙戦は減税や給付など短期的な策を競った。多党制の協力も、こうした近視眼の選挙対策が交渉材料になりがちだ。一方で取り残されるのは社会保障、財政、安全保障といった長期的な課題だ。

近視眼の政治が構造的に続くなら、市場は「日本売り」を仕掛けてくる。政治は金利や為替など市場の動向に敏感にならないと、経済や社会、国民を守れないだろう。

SNSとアテンションエコノミーの影響も甚大だった。短期主義の政策や過激な発信が増幅し、投票につながった。

自民党が89年の参院選で過半数割れしてから、公明党を連立相手にするまで10年かかった。急いで安定の道をつくらなければ、長期の混迷を国民に強いることになる。

・・・「二大政党制」、そんな話もあったなぁ・・・(遠い目)この30年余りの日本の政治状況が走馬灯のように頭に浮かぶよ・・・。89年参院選社会党の勝利、93年自民党分裂と非自民連立政権誕生、94年は自社連立政権。その後の新進党の結成と解体、自公連立政権、小泉政権後の混迷から2009年民主党政権誕生。しかし3年で瓦解し安倍長期政権へ。結局、政権担当能力のある二大政党による政治は、日本では無理だったと言わざるを得ない。自民政権安定に寄与してきた公明党も、支持者の高齢化で「オワコン」化がはっきりした。そして今後、政治は再び混迷の時代に入るのは避けられないようである。

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2025年7月11日 (金)

駆逐艦「雪風」の敢闘

先日、『文藝春秋 日本軍艦戦記』(1970年11月刊行)の復刻版が発行されたが、その中に、駆逐艦「雪風」の艦長4人(3代から6代まで)の座談会記事があり、面白く読んだ。「雪風」は、太平洋戦争の4年間を最後まで戦い抜いた船であり、「武運艦」の誉れも高い。

さらに雑誌『歴史群像』最新8月号にも「駆逐艦『雪風』の生涯」の記事があり、『日本軍艦戦記』の艦長座談会と合わせて読むと、一層興味深い。特に五代艦長の寺内正道氏は、『歴史群像』記事で「豪放磊落な人柄が多くの逸話を残している」と紹介されており、『日本軍艦戦記』の座談会記事からも、その人柄の一端が窺えるのだが、その豪傑ぶりは痛快ですらある。寺内氏は1943年12月から45年5月まで艦長を務め、戦艦武蔵が沈んだレイテ海戦や、戦艦大和の沖縄特攻作戦などを戦い抜いた。この間、日本近海で護衛した空母信濃(大和型戦艦3番艦の改造)の沈没も目撃している。

さらにさらに、来月8月15日には映画『雪風 YUKIKAZE』が公開される予定で、戦後80年の今年、ちょっとした「雪風」ブームが起きる・・・ことはないだろうな、やっぱり。(苦笑)

艦長たちの座談会記事を読んで思ったのは、最前線で戦った人たちの話も貴重だなと。一般庶民の話だと悲惨一色で、戦争は絶対やってはいけないという、分かり切った結論になる。それに比べると、軍人さんの話からは例えば常日頃の訓練が大事だとか、むしろ平和の世にも通じる、人と組織に関する何かしらの教訓も引き出せる感じがする。

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2025年7月10日 (木)

リメンバー、ヒロシマ!

本日付日経新聞1面コラム「春秋」から、以下にメモする。

広島平和記念資料館に、当地への原爆投下からの日数を刻むカウンターがある。きょうは2万9193日を指しているはずだ。凄絶な記憶を胸に抱きながら被爆者が重ねてきた、ながい苦難の日々であろう。そしてその数字が増えるほど、あの日を知る人は減ってゆく。

被爆者健康手帳を持つ人が、3月末時点で初めて10万人を割ったという。平均年齢も86歳を超えた。

同資料館と東京都写真美術館はこの夏、報道機関などが撮影した原爆の写真企画展をそれぞれ開催中だ。GHQの圧力をかいくぐって残された写真も多い。原爆の実相に触れる機会を少しでも増やす。それが核なき世界への一助につながるはず――。展示会場に満ちるそんな信念はしかし、風化への懸念の裏返しでもある。

イラン攻撃に原爆投下を重ねる発言を米大統領が繰り返す。惨禍の記憶の継承と発信に、改めて全力で取り組まねばと思う。カウンターがどれほど日数を刻もうと、絶対に第3の戦争被爆地をつくらせない。私たちの変わらぬ誓いだろう。

・・・いかん、先日広島の資料館行ってきたのに、カウンターには気が付かなかった(苦笑)。写真企画展も、東京でやってるの知らなかった(汗)。

カウンターは「地球平和監視時計」というものらしい。とりあえずネットで見ると、資料館の出入口付近に置いてある感じ。確認はまた次の機会だな。写真美術館の展示は8月17日日曜日までか。まだひと月ある。とにかく行かねば。

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2025年7月 3日 (木)

陸奥記念館に行く

先日7月1日、瀬戸内海の周防大島にある陸奥記念館を訪ねた。JR山陽本線大畠駅から、防長バスと町営バスを乗り継ぐ「路線バスの旅」。

「陸奥」は日本海軍の戦艦。昭和18年6月8日、瀬戸内海の柱島付近に停泊していた陸奥は大爆発を起こして沈没。乗組員1,471名のうち1,121名が死亡する大惨事だった。戦後25年経った昭和45年から本格的な引き揚げが始まり、作業は8年続いた。陸奥記念館は関連資料を展示している。

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記念館の野外展示場の場所から、陸奥の沈没海域を望む。奥の大きな島が柱島。

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記念館内部。

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陸奥沈没地点の展示。周防大島と柱島のおおむね中間地点が沈没海域。

なんで突然遠路はるばる出かけたかというと、最近、復刻版が出た文藝春秋『日本軍艦戦記』(昭和45年11月発行)を見て、戦艦陸奥の記事(『陸奥爆沈』の作者、吉村昭の執筆)が目に入り、これは昔読んだ話だなと思い出したのがきっかけ。

昭和45年、僕は小学5年生、戦艦陸奥引き揚げのニュースは知っていた。戦艦陸奥のプラモデルも作った。ウォーターラインシリーズのアオシマ製700分の1スケールモデルだ。

長門型の2番艦、陸奥の誕生は難産だった。軍縮に絡んで米英とモメた。戦争が始まったら航空母艦の時代となり、出番が無くなった。そして最後は謎の爆沈。何とも無惨な運命の船だった。爆発の原因は、内部の人間による放火の可能性が高いという。しかし証拠はなく、断定もできない。

戦艦大和の最期(沖縄に向かう途中で撃沈された)は、まあまあ知られているような気がする。でも戦艦陸奥の最期を知ってる人は、どれだけいるのかな。忘れられていくばかりだとしたら、何か悲しいな。

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