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2025年2月11日 (火)

『天皇問答』

天皇問答』(奥泉光と原武史の共著、河出新書)から、以下にメモする。

奥泉:2019(平成31)年に平成の天皇は生前退位しますが、それより前、2016年に「おことば」が発せられた。
:「象徴としてのお務め」を全身全霊で果たすことができなくなったら、もう天皇ではないんだと言っている。これは退位したいんだと伝わる内容になっているのであって、要するに世論を動かしている、民意をつくってしまっている。
奥泉:そもそも象徴の役割は何も法的規定がないのに、天皇が自分でつくってきたわけだし。
:それも大きな問題で、そんなことを天皇が言い出す前に、本来は国民が考えるべきことでしょう。
奥泉:たしかに国民は象徴ということの意味をまったく考えてこなかった。
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奥泉:天皇の子どもだということが天皇の権威の源泉であって、他には何もない。皇祖に遡る血の連綿性の神話こそが権威の根本。万世一系のイデオロギーを手放せない保守派の人たちの考え方はよくわかりますよね。そこを手放したら根拠を失ってしまうわけですから。まったくのフィクションですけれども。
:フィクションですね。「万世一系」くらいしかイデオロギーのよりどころがないのです。
奥泉:そうなると、ますますやはり、天皇が日本国の「象徴」であり日本国民統合の「象徴」であるとはどういうことなのか、国民の側にその思想の成熟がないのが苦しいところだと言わざるをえないですね。
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奥泉:少なくとも天皇制がない日本を考えておく必要がある。天皇制を考えるということは、むしろ逆に、天皇に頼らない統合のシステム、社会の姿、対話のかたちはどういうものかを考えることだと思います。
:憲法学者の多くも、第一条の解釈として、天皇の地位は国民の総意に基づくと規定されているわけだから、国民の総意が天皇はいらないと言えば廃止できると考えていますし。
奥泉:そういう可能性を冷静に議論できるくらい、われわれの社会が成熟する必要があるのだと思います。

・・・10年前、『天皇と軍隊』というドキュメンタリー映画の中で、戦後、昭和天皇が広島を訪問し人々の歓迎を受ける場面を見て、天皇は「国民統合の象徴」であったことが実感できた。そして同時に、「象徴」という設定は、時代的な、歴史的なものであることも了解した。言い換えれば、今上天皇が「国民統合の象徴」と言われても、リアルに感じる人がどれだけいるのか。かつてアメリカ占領軍は日本統治の都合上、天皇制を存続させたのだが、そのための「象徴」だったのであれば、天皇が「象徴」であることの理由はとっくに失われている。

ところで僕は今上天皇と同じ学年である。昔、学級委員のテッちゃんが、「何であいつ(浩宮)だけ特別扱いなんだよー」とかブツクサ言ってたので、テッちゃんが言うんだから、浩宮って悪い奴なんだと僕は思った。(苦笑)

それはともかく、皇室への思いについて、街頭でテレビ局からマイクを向けられれば、日本国民の多くは、それらしいコメントを語るだろう(ネット民は違うとしても)。しかし、天皇が「象徴」であることの意味とか、皇室を存続させるためにどうすればいいかとか、まじめに考えている人が今、どれだけいるのだろうか。おそらく、いわゆる保守派の人々、あとは一部皇室ファンだけではないか。そして、保守派の非現実的な考え方を押し通そうとすれば、遅かれ早かれ皇室は消滅する可能性が大きい。皇位の安定的な継承について政府内で議論はされていても、国民の大多数にとっては他人事であるように思う。結局、声には出さなくても、皇室って自然消滅しても仕方ないんじゃない?くらいに思われているのではないか。

功利的に考えれば、天皇がいなくなっても、今の日本社会の運営に何の不都合もない。文化的に考えれば、いろいろあるとは思うが、それでも絶対残しておかねば、これからも続けなければ、という程のものとも正直思えない。不幸なナショナリズムの記憶が風化していくと共に、天皇制も形骸化しつつあるように見える。昔、ロラン・バルトの「空虚な中心」という言い方が流行ったような気がするが、もはや単なる「空虚」になりつつあるのかも知れない。

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