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2025年2月27日 (木)

将棋タイトル戦、多すぎ

将棋タイトル戦「叡王戦」の「消滅危機」について、以下にネット記事(アサ芸プラス)からメモする。

「リベンジ」と「八冠復帰」はならなかった。将棋の第10期叡王戦本戦トーナメント準決勝で、藤井聡太七冠が糸谷哲朗八段に100手で敗れ、失ったタイトルの奪還は来年以降に持ち越されることに。

相手棋士の研究が進み、最近の過密スケジュールが影響しているのか、かつての勢いに翳りが見えてきた藤井。そして再び「八冠」の称号をまとう可能性について「八冠は二度とない」という声が散見されるように。いったい、なぜなのか。 これには叡王戦の成り立ちを今一度、振り返る必要がある。

叡王戦は2016年にドワンゴ主催により、一般棋戦として第1期が開始され、2017年度の第3期からタイトル戦に昇格。主催が新聞社・通信社以外のタイトル戦は史上初で、契約金の額による序列は竜王戦・名人戦に次ぐ第3位となった。

ところが2020年に豊島将之九段が藤井を破ると、その直後にドワンゴが撤退を発表。第6期から不二家と日本将棋連盟の共同主催となった。

近年は藤井人気により叡王戦がクローズアップされるが、決勝に藤井の名前がなければ、話題性が失われるのは間違いなかろう。新規参入した不二家がいつまで将棋連盟と歩みをともにするか。あるいは他のオフィシャルスポンサーが一気に離れる可能性も否定できない。

「わりとマジで叡王戦が消滅しそう」という将棋ファンの杞憂が現実になれば、藤井は最初で最後の「八冠棋士」になるかもしれないのだ。

・・・自分のようなオールド将棋ファンからすると、将棋のタイトル戦は多すぎる。単純に考えると、一タイトルの番勝負に最長2ヵ月程度の期間が要るから、最大6タイトルで充分だと思う。オールドファンから見ると、叡王戦、何それって感じだから、特に続けなくてもいいよなあと思うし、「八冠」が一時の幻に終わっても、それはそれでいいかなあと思う。

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2025年2月22日 (土)

「母親の後悔」から見えるのは

2022年に翻訳書が出た『母親になって後悔してる』(イスラエルの社会学者、オルナ・ドーナトの著作)の書名には、ドキッとさせられた。そういう気持ちを持つ母親もいるのか、と。この本の日本での反響を、NHKは番組化。さらに、取材したNHK局員二人が『母親になって後悔してる、といえたなら』(新潮社)を出した。本の中から、「後悔している母親」たちの言葉の一部をメモする。

今まで母になってよかったと思ったことはありません。(中略)ずっと後悔を抱えて生きると思います。
お母さんたちはもっと気軽に後悔していいと思います。後悔のない人生を生きる人なんかいないですよね。母親になったという部分だけ後悔しちゃいけないということはないと思うので、たくさん後悔して、嫌なことは嫌だと言って、そこから何ができるか、考えられるようになればいいと思います。(美保さん)

私は子どもの世話をするときよりも、仕事をしたり人と会話をしたり、趣味に時間を使っているときのほうが、充実していると感じる人間なんだと分かりました。母にならなかったほうが毎日の充実度は大きかったと思います。
お母さんならみんな育児が得意で好きだと思う人もいるかもしれませんが、私はすごく苦手です。お母さんは全員同じじゃなくて、(中略)いろんなお母さんがいることを認めてくれる社会になれば生きやすいし産みやすい。(村田さん)

塩に砂糖を加えてもしょっぱさが消えないように、子を産んだ後悔は子を産んだ喜びや楽しみを相殺するものではないとも思っています。どちらも同じだけあります。ただ、とにかくしんどい。母親であるために「やるべきこと」「できて当たり前のこと」がなぜこんなに多いのでしょうか? なぜ父親はできないの一言で免除されるのでしょうか。(太田さん)

今でも後悔の気持ちはあります。(中略)日本で母になることが、良い選択だと私はまだ思えていません。(中略)子どもを持ったことに後悔はないです。この社会で母になったことに後悔があります。(久美さん)

・・・本の中で紹介されている母親の事例を読むと、世の中にはいろんな人生があると改めて思ったりるするわけだが、それはともかく母親の後悔の理由として挙げられているのは、子どもの命を預かる責任の重さ、周囲から「良いお母さん」を求められるプレッシャー、子ども優先で時間の余裕が無くなる中で自分を見失う、子育て含む家事分担の夫婦間のアンバランスなど。また、環境的・社会的要因のほか、母親個人の価値観から後悔する場合もある。

おそらく、自分は母親に向いてないと内心思っていた人は、これまでも一定数いたのだろう(もしかしたら、自分の母親も思っていたかも)。そこに、社会的要因として働く母という役割の負担の重さが加わり、後悔する母親が増えているような気がする。

父親はどうなんだろう。父親になって後悔する人はいるのかな。個人的には、自分は父親に向いてないと思っていて、実際父親になっていないし、何とも分からないところだが。

事例を見ると、共働き夫婦でも、やはり夫は仕事、妻は子育てが基本という無意識があって、その結果、仕事にフルに取り組もうとする妻の負担が過大になっている感がある。会社での長時間労働の問題もあるが、子育て含む家事について夫婦間の分担を公平にするためには、無意識の前提無しで考えて、お互いゼロベースで積み上げるのが理想だろう・・・と、言うは易く行うは難し、か。

まあとにかく、母親が後悔してると聞くとドキッとするわけだが、今は女性にも仕事で自己実現を図るなどの選択肢が増えているからこそ、母親にならない道を歩んだ方が良かったかもしれないという後悔が生まれる、という面はあるように思う。とりあえず母親の役割について相対化する見方をしてみること。そして美保さんが言うように、母親の後悔も、人生の後悔の一つとして語れるようになるのが望ましいような気がする。

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2025年2月19日 (水)

「三度目の日本」

石破首相が打ち出した「楽しい日本」は、堺屋太一氏(2019年2月死去)のアイデアとのこと。遺作となった『三度目の日本』(祥伝社新書)の中で、堺屋氏は、社会の形を決めるのは価値観であり、それは美意識と倫理感で成り立っているという。そして、この価値観ががらりと変わることを「敗戦」現象と呼ぶ。日本は近代以降、2度の「敗戦」を経験した。最初が幕末、そこから「第一の日本」が「強い日本」を目指した。次が太平洋戦争、文字通りの敗戦。そこから「第二の日本」が「豊かな日本」を目指した。その結果、日本は安全で安心な生活を実現したが、夢や楽しみがない社会になってしまった。この「敗戦的現実」を認めて、「三度目の日本」は「楽しい日本」を目指そうと提言する。

近代以降、日本は三度目の転換期を迎えているという認識自体は、今に始まったことではなく、1990年代から言われている。つまり冷戦終結後の経済のグローバル化の加速及び国内のバブル経済崩壊の時期である。特に金融資本市場からの日本経済改革に向けた圧力の強まりもあり、三度目の開国または敗戦という認識は実感の伴うものだった。

堺屋氏の本では、「三度目の敗戦」はイベント的なものではなく、「二度目の日本」である戦後社会が行き詰った結果の転換点とされる。そして戦後日本社会は特に1970年代以降、官僚主導で作られてきたものであるから、まずは官僚主導を打破しなければならないと主張する。(堺屋氏は官僚を過大評価したうえで、官僚主導打破を唱えているような印象もある)

個人的には、やはり1990年前後が三度目の開国または敗戦であり、90年代以降、経済の長期停滞、政治改革の継続、それに伴う社会の価値観の変化が今も続いているという認識。であるから、ここで「楽しい日本」とか言われても、何か頓珍漢な感じがしてしまう。まだまだ政治経済の「宿題」はいろいろ残っていると思うので、いわゆる昭和的なシステム、その徹底的見直しなどを進めるしかないだろう。

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2025年2月18日 (火)

「楽しい日本」

昔の安倍政権(第1次)が唱えた「美しい日本」も「はあ?」って感じだったが、石破首相が「楽しい日本」を打ち出した時は、結構脱力した。しかし「強い日本」「豊かな日本」の次の目標が「楽しい日本」と並べられると、そうかもな、とちょっと思った。さらに元ネタは堺屋太一と聞いて、首相とほぼ同世代の自分も解るなーという感じになった。以下に、本日付日経新聞オピニオン面コラム記事(「楽しい日本」が突く本質)からメモする。

明治維新後の「強い日本」、第2次大戦後の「豊かな日本」に続く「楽しい日本」を目指す――。(石破首相は施政方針演説の中で、)作家で経済企画庁長官も務めた故堺屋太一氏の遺作「三度目の日本」に倣い、多様な価値観を持つ国民全てが輝ける国家づくりを唱えた。

国内の評価は芳しくない。多くの人々が物価高にあえぐなかで、これからは「楽しい日本」だと胸を張られても、違和感を覚えるのはやむを得まい。

堺屋氏の遺志を継ぐ石破氏も、「強さ」と「豊かさ」が伴ってこその「楽しさ」だと言いたかったようにみえる。何より「失われた30年」と呼ばれる長期停滞から確実に脱却できなければ、国民の共感を得るのは難しかろう。

大企業がグローバルに勝ち抜く「強さ」。地方の主要拠点への集住やサービス業の活性化で実現するローカルな「豊かさ」。モノ消費からコト消費(観光、グルメ、エンタメなど)への移行で得る「楽しさ」。IGPIグループの冨山和彦会長が訴えるのは、3つの目標の同時追求だ。

「『楽しい日本』の本質は画一性を排し、多様性を引き出すという点に尽きる。石破氏が学ぶべき点もそこにあるのではないか」とニッセイ基礎研究所の小原一隆主任研究員は話す。

国力を強めつつ、国民のウェルビーイング(健康で満ち足りた状態)を高めるのは永続的な課題だ。「楽しい日本」の発想そのものを、葬り去ってしまうのは惜しい。

・・・確かに、単に「楽しい日本」を目指すというとアホみたいだが、強くて豊かで楽しい日本を目指す、といえば、すごいかもと思える。とはいえ、「強い」や「豊か」は国家目標になるけど、「楽しい」はどうかなー。「楽しい」実現のためには、国家主導ではなく民間のアイデアに任せるというか、民間のアイデアを国家がサポートするしかないかな。

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2025年2月17日 (月)

ハードかつプログレなロックが最高

雑誌「Burrn!」の2月号と3月号に掲載された論考「ヘヴィ・メタルとプログレッシヴ・ロックの相関関係」には、60年代~70年代のハードロックとプログレッシヴロック両者の要素を併せ持つバンドが数多く紹介されているが、とりあえず超メジャーバンドに関する言及をメモしてみる。

1966年にアルバム「FLESH CREAM」でデビューしたCREAMをプログレッシヴ・ロック・バンドとする傾向は殆ど見られないが、サイケデリック・ロックやブルーズ・ロックがハード・ロックへと進化を遂げていく過程において彼らが果たした役割は極めて大きいと言える。

1969年、ヘヴィ・メタル/ハード・ロックとプログレッシヴ・ロックの双方にとって、絶大な影響を及ぼすことになるバンドが登場した。アルバム「IN THE COURT OF THE CRIMSON KING」でデビューを果たしたKING CRIMSONである。

LED ZEPPELIN、DEEP PURPLE、URIAH HEEP、BLACK SABBATHについて、プログレッシヴ・ロックと呼ぶ傾向は主流とは言えないにせよ、60年代後期から70年代初期というロック音楽にとっての最大の変革期において、それらの4組はそれぞれ他のバンドの先を行くもの、斬新なサウンドを生み出すべく心を砕いていた。そういう意味合いにおいて、彼らも言わばプログレッシヴなロック・バンドだったことは明らかである。

欧州大陸出身のプログレッシヴ・ロック・バンドとしては最大の成功を収め、且つヘヴィ・メタル/ハード・ロックのバンド達にも影響を及ぼしたバンドとして最初に挙げておくべきは、オランダのアムステルダムにて1968年に結成されたFOCUSである。

アメリカン・プログレッシヴ・ハードというカテゴリーで語られることも多いKANSAS、STYX、BOSTON、JOURNEY等が、北米シーンを席巻し始めたのは70年代中期のことだ。プログレッシヴ・ロックと形容されることは少ないはずだが、元祖ヘヴィ・メタルと目されることも多いBLUE ÖYSTER CULTも独自の音楽的進化を遂げた存在の一つだ。

QUEEN、RAINBOW、JUDAS PRIESTらが人気を博していた70年代中期の英国において、ハード・ロック及びプログレッシヴ・ロックはそれぞれジャンルとしては縮小化していったことは、これまで度々語られてきたとおりである。U.K.は70年代プログレッシヴ・ロック最後のスーパー・グループとして人気を博したが、スタジオ盤2枚のみで崩壊してしまう。

・・・そして1980年、「ハード・ロックとプログレッシヴ・ロックの要素を折衷させたうえでパンク・ロックのエッジを利かせた完全に新しいサウンド」でデビューしたのが、アイアン・メイデンだった。という流れです。

70年代ティーン・エイジャーである自分にとって、ブリティッシュ・ハードロックとプログレッシヴロックは、音楽の最上位にあります。クリムゾンはハードロックでもあり、ゼップはプログレッシヴでもあるという考え方は、素直に首肯できるものです。

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2025年2月16日 (日)

土はすごいのだ

ふと「土は何だろう」「何からできているのだろう」と思ったことがある。岩が細かくなったものか。それは砂だ。土には湿り気があるし・・・分かんないや。で終わり(苦笑)。雑誌「ニュートン」3月号の第2特集「土はすごい」が、疑問に答えてくれる。同記事からメモする。

土を研究する「土壌学」では、土は「岩石が細かくなって出来た砂や粘土に、腐った生き物の死骸がまざり合ったもの」と定義されています。土の最大の特徴は、生き物の死骸などからできた「腐植」が含まれることです。

地上には、植物の枯れた葉や茎、動物のフンや死骸などが積もります。それらをカビやキノコ、細菌などの微生物が分解したり、ミミズや昆虫などの生き物が食べたりします。こうして生じた分解途中の有機化合物が、粘土や金属と結びついてできる黒色の物質が「腐植」とよばれるものです。

生き物が存在しないと腐植は生まれないので、土は存在しえません。土が存在するのは、生物が存在する地球だけです。土の存在こそが、地球が生命の星であることの証なのです。

・・・土は、まさに生命の星である地球の「特産物」なのだ。すごいです。有難いです。この特集の監修者である藤井一至先生の近刊に、講談社ブルーバックス『土と生命の46億年史』がある。必読かも。

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2025年2月15日 (土)

希望格差社会は続くのか

社会学者の山田昌弘先生が、『希望格差社会』を出したのは2004年。その後20年経過したが、状況はだらだら悪化するばかりのようだ。新刊『希望格差社会、それから』(東洋経済新報社)の内容を、概観的にメモしてみる。

平成時代の日本社会の変化の背景をなすネガティブなトレンドは①経済停滞、②男女共同参画の停滞、③少子高齢化、④格差社会の進行である。これらの負のトレンドが平成時代に進行したのは、戦後、高度成長期に形成、バブル期までに確立した日本社会のシステム、特に経済や家族に関する「制度、慣行、意識」への固執にあると考えられる。平成以降、グローバル化の中で、経済社会のあり方が大きく変化し、昭和のシステムが一種の機能不全を起こした結果、4つの負のトレンドが生み出されたのだ。

その戦後社会システムの中心にあるのは、仕事における「日本的労働慣行」そして家族における「性別役割分業型家族」である。その2つを前提とした上で、日本の社会保障など様々な制度ができている。また、個人の意識、行動戦略もそれを前提としている。人生において、主要な二大領域といえる仕事と家族のモデルが「昭和型」(日本的雇用慣行で守られた男性正規雇用者と主に家事・子育てを担う主婦が組み合わさった家族)から脱却できていないことが、日本社会の停滞をもたらす主たる要因だと考えられる。

昭和ではあたりまえに実現できていた将来への希望、つまり、男女とも結婚して子どもを持ち、豊かな生活(持ち家を手に入れ、車や家電製品を揃え、家族レジャーをし、子どもに教育費用を十分にかける)を築くという将来への希望が持てない人たちが増えていく。平成はそのような時代であった。そして、令和になると、希望格差が固定化する傾向が強まっている。「格差が努力で乗り越えられる」という物語は、ますます現実味を失っている。

・・・山田先生の見立てでは、このままだと日本社会は少しずつ衰退する。平成時代から続く4つの負の傾向を止めるためには、「日本型雇用慣行」「性別役割分業型家族」を前提とした制度、意識を抜本的に改革しなければいけない、という。

とにかく、平成時代に大きく変化した経済の現実に合わない昭和型の、古い制度は徹底的に変えなければならない。また、昭和型の意識や価値観も捨て去るとまでは言わなくても、少なくとも徹底的に相対化する必要があるだろう。

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2025年2月14日 (金)

円安か円高か、それが問題だ

『「ガラパゴス・日本」の歪んだ円相場』(藤井彰夫・著)の第6章(円相場「脱ガラパゴス」への道はあるか)からメモする。

円高・ドル安になるときは、通常は米経済が悪化して金利が下がる局面です。世界第1位の経済大国の米経済が悪化する時は世界的な景気後退に陥ることが多いので、輸出企業は円高と輸出需要の減退に見舞われます。特に2008年のリーマン危機のように米国発の世界不況の場合は、日本は円高と世界不況のダブルパンチを被ることになります。

逆に円安の時は、米国経済をはじめ世界経済が好況にあることが多いので、原油など一次産品価格は上がりやすくなります。円安による購買力低下と一次産品高がダブルでインフレ圧力をもたらすのです。

円安で輸入価格が上がってインフレになった時に、価格転嫁が進み、賃金も上がれば、物価が上がり、金利も上昇するという循環になります。金利が上がれば円安にも歯止めがかかるはずです。この時に、金利上昇や人件費高で立ちいかなくなる企業もありますが、そうした企業が退出し、その企業で働いていた人々が、円滑にほかの職場に移れる労働市場の流動性、柔軟性があれば産業の新陳代謝は進み、経済全体は強くなります。

日本国内が、市場メカニズムを通じた価格調整、雇用移動、産業の新陳代謝ができる柔軟な経済構造になっていけば、円相場の変動に苦しむ程度は少なくなるでしょう。

・・・書名の「ガラパゴス」とは、主要先進国の中で日本ほど為替相場に一喜一憂というか大騒ぎする国は珍しい、という含意。確かに、1985年9月のプラザ合意に始まる円高局面以降を見ても、80年代後半は貿易黒字減らしのため公共投資の大幅積み増しなど内需拡大が国策となり、90年代は貿易慣行修正のための日米構造協議、21世紀に入ると小泉政権下の大規模ドル買い円売り介入、さらにアベノミクスの異次元金融緩和に伴う円安進行と、主に円高局面で日本の政策が大きく動いている。

本書にも述べられているように、円相場については「米国が決める」「日銀の金融政策で決まる」「通貨マフィアの腕しだい」等の「都市伝説」が語られるものの、現状では為替相場は「市場が決める」との理解が基本。とはいえ、市場が注目しているのはアメリカの経済政策や外交なのだから、結果的にアメリカが決めている、と見られるのは仕方がない感じもする。

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2025年2月11日 (火)

『天皇問答』

『天皇問答』(奥泉光と原武史の共著、河出新書)から、以下にメモする。

奥泉:2019(平成31)年に平成の天皇は生前退位しますが、それより前、2016年に「おことば」が発せられた。
原:「象徴としてのお務め」を全身全霊で果たすことができなくなったら、もう天皇ではないんだと言っている。これは退位したいんだと伝わる内容になっているのであって、要するに世論を動かしている、民意をつくってしまっている。
奥泉:そもそも象徴の役割は何も法的規定がないのに、天皇が自分でつくってきたわけだし。
原:それも大きな問題で、そんなことを天皇が言い出す前に、本来は国民が考えるべきことでしょう。
奥泉:たしかに国民は象徴ということの意味をまったく考えてこなかった。
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奥泉:天皇の子どもだということが天皇の権威の源泉であって、他には何もない。皇祖に遡る血の連綿性の神話こそが権威の根本。万世一系のイデオロギーを手放せない保守派の人たちの考え方はよくわかりますよね。そこを手放したら根拠を失ってしまうわけですから。まったくのフィクションですけれども。
原:フィクションですね。「万世一系」くらいしかイデオロギーのよりどころがないのです。
奥泉:そうなると、ますますやはり、天皇が日本国の「象徴」であり日本国民統合の「象徴」であるとはどういうことなのか、国民の側にその思想の成熟がないのが苦しいところだと言わざるをえないですね。
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奥泉:少なくとも天皇制がない日本を考えておく必要がある。天皇制を考えるということは、むしろ逆に、天皇に頼らない統合のシステム、社会の姿、対話のかたちはどういうものかを考えることだと思います。
原:憲法学者の多くも、第一条の解釈として、天皇の地位は国民の総意に基づくと規定されているわけだから、国民の総意が天皇はいらないと言えば廃止できると考えていますし。
奥泉:そういう可能性を冷静に議論できるくらい、われわれの社会が成熟する必要があるのだと思います。

・・・10年前、『天皇と軍隊』というドキュメンタリー映画の中で、戦後、昭和天皇が広島を訪問し人々の歓迎を受ける場面を見て、天皇は「国民統合の象徴」であったことが実感できた。そして同時に、「象徴」という設定は、時代的な、歴史的なものであることも了解した。言い換えれば、今上天皇が「国民統合の象徴」と言われても、リアルに感じる人がどれだけいるのか。かつてアメリカ占領軍は日本統治の都合上、天皇制を存続させたのだが、そのための「象徴」だったのであれば、天皇が「象徴」であることの理由はとっくに失われている。

ところで僕は今上天皇と同じ学年である。昔、学級委員のテッちゃんが、「何であいつ(浩宮)だけ特別扱いなんだよー」とかブツクサ言ってたので、テッちゃんが言うんだから、浩宮って悪い奴なんだと僕は思った。(苦笑)

それはともかく、皇室への思いについて、街頭でテレビ局からマイクを向けられれば、日本国民の多くは、それらしいコメントを語るだろう(ネット民は違うとしても)。しかし、天皇が「象徴」であることの意味とか、皇室を存続させるためにどうすればいいかとか、まじめに考えている人が今、どれだけいるのだろうか。おそらく、いわゆる保守派の人々、あとは一部皇室ファンだけではないか。そして、保守派の非現実的な考え方を押し通そうとすれば、遅かれ早かれ皇室は消滅する可能性が大きい。皇位の安定的な継承について政府内で議論はされていても、国民の大多数にとっては他人事であるように思う。結局、声には出さなくても、皇室って自然消滅しても仕方ないんじゃない?くらいに思われているのではないか。

功利的に考えれば、天皇がいなくなっても、今の日本社会の運営に何の不都合もない。文化的に考えれば、いろいろあるとは思うが、それでも絶対残しておかねば、これからも続けなければ、という程のものとも正直思えない。不幸なナショナリズムの記憶が風化していくと共に、天皇制も形骸化しつつあるように見える。昔、ロラン・バルトの「空虚な中心」という言い方が流行ったような気がするが、もはや単なる「空虚」になりつつあるのかも知れない。

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2025年2月10日 (月)

「ROE革命」は可能か

日経新聞電子版で「ROE革命」という言葉が目に付いた。以下に、本日付のROE(自己資本利益率)解説記事からメモする。

トヨタ自動車が20%をROEの目標に掲げる――。昨年12月に伝わったこのニュースは国内外から関心を集めた。

「安定と継続」を優先しがちだったこれまでの考え方を振りほどき、もっと資本市場を意識して「効率と成長」を目指す経営へ脱皮する。それをトヨタ自動車がリードすると受け止められたからだ。

ROEは当期純利益を自己資本で割った数値だ。東京証券取引所が上場企業に対し、株価を意識した経営を要請したのが2023年。そこから自社株買いや配当の増額が加速した。膨らんだ分母を絞る意味では前進といえる。

しかし大事なのは分子を増やし続ける経営だ。付加価値の高い事業を切り開くには研究開発や新規投資が欠かせない。人への投資も大事だ。低収益の事業は思い切って手放し、強みのある事業で成長を目指す「選択と集中」が必要になる。

企業分析ではROEを3つに分解する。本業の利益率が高いか(事業マージン)、保有資産を効率よく使って売り上げに結びつけているか(総資産回転率)、借入金も使って事業を大きくしているか(財務レバレッジ)だ。米欧に比べて日本が低いのは事業マージン。低採算の事業にしがみつかず、いかに高収益の事業を育て成長できるかが最大の課題だ。

・・・バブル崩壊に続く業界大再編の時代から、ROE向上を求める声が多くなった。つまり、言われ始めてから既に久しいのだが、今でも日本企業のROEが総じて目覚ましく改善した、という評価は聞こえてこない。ので、「掛け声倒れ」の感が強い。

日本企業の「薄利多売」や自己資本比率重視の経営姿勢は、ROE向上に適していないという印象がある。「効率と成長」を目指すのはしんどい感じもあり、日本企業の「安定と継続」指向を変えていくのは容易ではないように思われる。

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2025年2月 4日 (火)

「怪盗エロイカ」はロック・スター

青池保子の「エロイカより愛をこめて」は、名作マンガとしての地位を不動のものにしていると思われる。その主人公、「怪盗エロイカ」こと「ドリアン・レッド・グローリア伯爵」のモデルは、ロックバンド、レッド・ツェッペリンのボーカリストであるロバート・プラントであることは、周知の事実。『青池保子『エロイカより愛をこめて』の世界』(平凡社)の中で、音楽評論家の東郷かおる子の語るところをメモする。

当時の少女漫画誌の巻末には、漫画家の近況報告が掲載されていたのですが、そこにロック・ミュージシャンがよく登場し、「少女漫画家たちもロックが好きなのね」とは思っていました。また、萩尾望都さん、大島弓子さん、木原敏江さんといった少女漫画家が、自分の作品にちょこちょこキャラクターとして、クイーンのフレディ・マーキュリーやデヴィッド・ボウイを登場させていたのも面白かった。それでも、青池保子さんの『エロイカより愛をこめて』には驚きましたね。主人公の伯爵の姿は、レッド・ツェッペリンのボーカリスト、ロバート・プラントそのものでしたから!

ロバート・プラントは、ゴージャスな金髪巻き毛の長身ハンサムで、実に美しい。「70年代を代表するセックス・シンボル」とも称されています。でも、「少女漫画から抜け出たよう」というには、ライオンのように力強くシャウトし、野性的で男っぽい。そんなワイルドなロック・スターを少女漫画の主人公に仕立てたところは、「少女漫画の枠を超えた硬派」で知られる青池保子さんの面目躍如といったところでしょうか。

・・・確かに、少女マンガのキャラとしては、クイーンのメンバーの方がそれらしい感じはするのだが、やはりロバート・プラントはあの金髪巻き毛のゴージャスな感じが「伯爵」に相応しい、ということだろうか。「エロイカ」には、レッド・ツェッペリンのギタリストであるジミー・ペイジも、ケチと噂された性格が極端化されて登場、「ドケチ虫」と呼ばれて笑いを取るキャラになっている。また、ツェッペリン後期の名曲「アキレス最後の戦い」のタイトルを冠したストーリーもある。などなど、自分のような70年代ティーンエイジャーには共感するところ大なのだが、それでも少女マンガ家がクイーンじゃなくて、ゼップなのかあ~という驚きも感じるところだ。

ロックだけではない。戦車や戦闘機などのメカ、「パンツァーリート」(戦車隊の歌)とか、ミリタリー関連のネタも出てくる。そもそも、お話のベースはスパイ・アクション物である。という具合に、男子の関心も引き付ける「エロイカ」は、よく言われるように「少女マンガの枠を超えた」作品であると思う。

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