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2024年11月30日 (土)

愛岐トンネル2024秋の公開

きのうの金曜日、愛岐トンネル群・秋の特別公開に出かけた。自分が行くのは10年ぶり。その時は東京在住、日経新聞の文化面掲載の記事を見て、春の特別公開を見るため遠征した。今は名古屋にいるし、リタイア者なので思い立ったら平日でもすぐ行ける。ということで、そんなに人はいないだろうと思っていたら、全くそんなことはなく、JR定光寺駅で中高年中心に降りる人多数。世の中を甘く見ておりました。(汗)

定光寺駅を下車して川沿いに5分程歩いたところにある入口階段を上ると、3号トンネルが目の前に現れる。ここがスタート地点。3号(76ⅿ)、4号(75ⅿ)、5号(99ⅿ)の三つのトンネルを経て、最後に最長の6号トンネル(333m)まで、全長1.7kmの散策ルートである。

3号トンネルの春日井口(南側。北側は多治見口)

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4号トンネルの多治見口。今年の紅葉の進み具合は遅いようである。

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5号トンネルの春日井口

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6号トンネルの多治見口。ここが散策ルートの終点。ここから先は岐阜県になる。

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2024年11月29日 (金)

老舗政党、「オワコン」の危機

日経新聞電子版の本日付発信記事「老舗政党は衆院選なぜ苦戦」から、以下にメモする。

結党して半世紀以上を超す「老舗政党」が10月の衆院選で苦戦した。政党の基礎体力といえる比例代表の得票をみると、支援者や党員の結束の強さで知られる公明、共産両党の減少傾向が止まらない。2012年の政権復帰後は一強状態だった自民党も比例票を大きく減らした。

結党60年を迎えた公明党は8議席減の24議席にとどまった。比例得票数は596万票となり、1996年以降の現行制度で最低を記録した。支持者の高齢化の影響が指摘される。

102年の歴史を持つ共産党は10議席から8議席に減らした。比例票は336万票で、14年衆院選と比べ半分近くまで落ち込んだ。議席数はれいわ新選組を下回った。同党も党員や支持者の高齢化に悩む。衆院選で自民党派閥の政治資金問題が大きな争点となった。党の機関紙「しんぶん赤旗」は問題を広く知られる前から報じていた。田村氏は「赤旗が共産党の機関紙だと知らない若い人が少なくない」と語る。「裏金問題をスクープしたことはさらに知られていない」とも話した。攻め手をつくったが自民党批判の受け皿になれず、悔やむ気持ちを隠せない。

25年で結党70年を迎える自民党は比較第1党で政権の座を守ったものの、少数与党になり厳しい政権運営を迫られる。比例票は1458万票となり、現行の選挙制度に切り替わった1996年以降で最少となった。

自民党に限らず老舗政党はなぜ票が出せなくなったのか。日本人の組織に対する帰属意識の低下も要因の一つとして考えられる。

2025年は昭和100年。平成生まれの筆者にとり自民、公明、共産各党は歴史をつくってきた一方で昭和の香りがする。日本社会のあちこちで組織に縛られず生きる人が増える。老舗の変わらぬ良さを生かしつつオープンな組織のあり方を模索しないと時代に取り残される。

・・・日経の若い記者が老舗政党に「昭和の香り」がする、というのも分かる気がする。特に公明党と共産党については、宗教学者・島田裕巳先生の見方が納得できる。つまり、創価学会=公明党と共産党は、高度経済成長期に地方から都市に出てきた若者をターゲットに拡大を図った組織であり、両者の歴史的役割は終わった、ということだ。要するに公明党と共産党は「オワコン」である。「昭和の香り」3党の中でも、政権与党経験の長い自民党はまだまだしぶとさを発揮するだろうが、与党としての公明党そして野党としての共産党、両党の存在意義は事実上消滅している。

そして昭和的選挙戦術と言えば「組織票」。その影が、今年の選挙では大層薄くなった。先の総選挙で、公明党が現有議席を確保できなかったのは驚きだったし、およそ40%の低投票率だった名古屋市長選でも、既存政党相乗り支援の候補が敗れた。一方で、都知事選や兵庫県知事選では、SNSの影響力の強さがあれこれ取り沙汰されることにもなった。とはいえ、自分が時代の変わり目を強く感じたのは、やはり「組織票の終わり」といえる事象である。

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2024年11月25日 (月)

『SHOGUN 将軍』劇場公開

先週、期間限定で劇場公開された『SHOGUN 将軍』(第1話と第2話)を観た。

言うまでもない、アメリカのエミー賞受賞作品。今年9月に作品賞、主演男優賞、主演女優賞ほか、史上最多の18部門を受賞したドラマシリーズである。主演の真田広之がプロデューサーも兼ねて、日本文化を正しく伝える時代劇を目指して作り上げた作品が、まさに歴史的快挙を成し遂げたとして、日本のエンタメ界を大いに賑わせたニュースだったのは記憶に新しい。

いわば「本物の時代劇」を目指した『将軍』だが、第1話と第2話を見る限りでは、本物感がそれほど強い印象ではなかった。というのは、ストーリーは日本に漂着したイギリス人の船乗りを中心に進むし、当時の日本に広まっていたキリスト教カトリックの国(ポルトガル、スペイン)と、後からやってきたプロテスタントの国(オランダ、イギリス)の対立を強調する場面がいやに目立っていたからだ。さらに、主人公の武将「吉井虎永」とそのライバル「石堂和成」を含む「五大老」、つまり日本の最高クラスの権力者たち5人のうち2人がキリシタン大名。そのカトリックの2大名が、プロテスタントのイギリス人を速やかに抹殺するよう求めるなど、当時のヨーロッパの新教と旧教の対立が日本にも持ち込まれているという、何だかかなり妙な感じのするストーリーなのだった。お話のベースとしているのは、1600年の「関ヶ原の戦い」直前の時代で、確かに16世紀のヨーロッパは宗教改革の時代であり、その結果としてカトリックのイエズス会が日本にキリスト教を伝えたようなものだけど、日本のキリシタンにプロテスタントを目の敵にする気持ちがあったとは思えないわけで。その辺はキリスト教ベースの西洋人にも入りやすいストーリーにしているのかもしれないが、日本人にはやや奇妙な感じのする「時代劇」になっているというのが、正直な感想。

「インスパイアされた」という言い方になっているが、登場人物にはモデルがあり、吉井虎永は徳川家康、石堂和成は石田三成。フィクションなので別にいいけど、石堂は五大老のひとり(史実は五奉行)で、虎永とほぼ対等感のある人物にグレードアップ。五大老のひとりに、大谷吉継にインスパイアされたと思われる武将がいるが、なぜかキリシタン大名で、ハンセン病が重くなって見た目がグロい感じになっているのが、ちょっと嫌だな。(汗)

もしかすると第3話以降、より本格的な時代劇になっていくのかも知れないが、今のところ配信で見る気もあんまりしないなあ。

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2024年11月24日 (日)

天守は木造復元すれば本物?

名古屋の前市長である河村たかし氏は、名古屋城天守の木造復元計画を進めてきた。その前提には、河村前市長の「木造で復元すれば本物」という考えがあるという。はたして、その考えは妥当なのか。『名古屋城・天守木造復元の落とし穴』(毛利和雄・著、新泉社)からメモする。

河村市長は、復元した木造建物が本物になるのは、三条件(元あった場所に、元の材料の木を使って、資料どおりに)をみたして復元した場合だとして、「奈良文書」と文化庁の「史跡等における歴史的建造物の復元等に関する基準」をあげる。

「奈良文書」とは、ユネスコの世界遺産の基準となっている1964年の「ヴェニス憲章」を補完するもので、1994年に奈良市で開かれた国際会議で採択された。

日本の木造建築は解体修理が行われ、傷んだ木材を継ぎはぎしたり、取り替えたりするが、そうした伝統的なやり方の修理でも本物であることは維持されるとする。日本では、解体修理で、もし創建当初の姿がわかれば、それに復することを「復原」と呼び、燃えたりしてまったくなくなったものを再現した場合には、「復元」と呼び分けてきた。

「奈良文書」は、本物が存続している文化遺産のオーセンティシティ(真正性)の属性として、形態や意匠、材料と材質、用途と機能、伝統と技術などをあげているので、すでに本物がなくなってしまっている場合に、それらの属性を踏襲して復元しても、それはあくまでも複製品(レプリカ)であって本物ではない。

名古屋城の場合、(史資料面から)質の高い復元ができる条件はそろっている。名古屋市は、「天守の木造復元は、オーセンティシティを担保するものと積極的に評価することが可能と考える」とする。ただし、その場合でも、復元された名古屋城の木造天守は、特別史跡名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではなく、「本質的価値の理解を促進」させる要素だ。

・・・名古屋城の石垣は江戸時代に作られた本物であり、名古屋城跡の本質的価値を構成する。一方、天守は復元である限り、コンクリートだろうが、木造だろうが、レプリカであり本物ではない。つまり名古屋城跡の本質的価値を構成する要素ではない。現状、木造復元計画は石垣保全との兼ね合いのほか、バリアフリーでもモメているが、これも人権に鈍感というより、前市長の認識としては、「本物」の天守にエレベーターは要らない、程度の印象。とすれば、たとえ木造でも所詮復元天守なのだから、エレベーターくらい付けろよ、という話だろう。

本日、投開票が行われた名古屋市長選挙では、前市長の後継者との触れ込みで立候補した広沢一郎氏が当選した。前市長の政策をすべて継承するということだが、名古屋城天守の木造復元については、まずは石垣の保全という順序、さらにバリアフリーの実現という課題について、前市長の短兵急かつ頑なな姿勢を修正して、計画を着実に前に進めてもらいたいものだと思う。

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2024年11月23日 (土)

信長と義昭の接近そして離反

今日は岐阜駅前にある「じゅうろくプラザホール」に出かけた。開催イベントは「第18回信長学フォーラム」、テーマは「安土城からみた岐阜」。目当ては、中井均先生の講演だったわけだが、もう一人の講演者、松下浩氏(滋賀県文化スポーツ部、城郭調査の専門家)のお話も、最近の信長研究を踏まえたと思われる分かりやすいものだったので、配布資料も参照しながら、以下にメモする。

当時、「天下」の意味するところは、京都を中心とする伝統的秩序の領域、そして「天下人」とは天下を静謐にする人(とりあえず室町将軍)だった。織田信長といえば、「天下布武」の印章、ハンコが有名。これはかつては、天下(日本全国)を武力で統一するという宣言として受け取られていた。しかし、天下=京都(畿内)であるならば、この理解は誤り。永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を伴って上洛。義昭は室町幕府15代将軍となったことから、「天下布武」とは、室町幕府の再興を意味すると考えられる。

信長上洛の100年前、応仁の乱で将軍権威は失墜。さらに明応2年(1493)に起きた明応の政変以降、将軍家は分裂し、管領の細川家も後継者争いが続いた。政争に敗れた将軍は京都を追われ、有力大名を頼って京都復帰を目指すというパターンが繰り返される(足利義材(義稙)と大内氏、足利義晴・義輝と六角氏など)。ということで、義昭と信長がタッグを組んだこともこの流れの中にある。

義昭は信長の傀儡ではなかった。信長は義昭から「天下之儀」を任されてはいたが、あくまで天下人は足利将軍であり、信長はその代理人である。天下人の責務である天下静謐は、天下人の代理人である信長の戦争の大義となる。義昭の存在は、信長が天下静謐実現のために戦う前提だった。

しかし義昭は何を思ったか、信長から武田信玄に乗り換えようとする。その理由は明らかではない。信長からは、義昭は天下人の務めを果たしていないように見えたらしく、あれこれ義昭を「指導」していたということはある。とにかく、元亀4年(1573)7月、義昭と信長は決別に至る。天正4年(1576)、義昭は毛利氏を頼って備後鞆に移り、今度は義昭が毛利氏に支援されて、京都に帰ってくる可能性も出てきた。

義昭追放により、天下静謐実現の前提を失った信長は、朝廷からの官位を受けるなど、天皇との結び付きを強めようとする。安土への天皇行幸を計画し、安土城内に行幸御殿を作る。安土城は総石垣作りで高い天守を持つ、それまで無かった城であり、信長自らが天下人であることを示す城だった。

・・・義昭を追放した後、信長は新たな足利将軍を立てずに、天下静謐という大義の源を天皇に求めた。さらに、自らが天下人であることを示そうとした。その理由は何か、史料がないと分からないとしても、なかなか興味深いところだ。それはそれとして、改めて戦国時代の足利将軍、8代義政から後の将軍(いろいろややこしい展開だけど)の本を読み直してみようと思った。

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2024年11月22日 (金)

積読(つんどく)の「美学」

本を読む人にとって悩ましいのが、積読(つんどく)。いつの間にやら部屋の中に本が積まれていると、自分の趣味は「読書」じゃなくて「買書」だな、とか思う(苦笑)。誰か、買うだけで内容が頭の中に入る本を発明してくれないか(また苦笑)。

12人の作家・読書家へのインタビューで構成されている『積ん読の本』(石井千湖・著、主婦と生活社)は、本が溢れる各人の自宅などのカラー写真付き。以下に、3者の発言からメモしてみる。

「本は自分の関心事が物の形をとった、知識のインデックスみたいなものなので、必要になったときに読めばいい。だから私は積ん読がいくら増えても気にしません。むしろ積まなくてどうするという感じです(笑)。(背表紙を並べれば)非常に効率よく知識を編集できるんですよね。なるべく目的の本を探しやすい積み方を心がけています。空間を使って、知識や創作物のマップを作っている感じです。」(山本貴光、文筆家・ゲーム作家)

「社会学者の服部恵典さんの言葉がしっくりきたんです。〈積読っていうのは、「読まない本を買ってる」んじゃなくて「自分のための図書館を建ててる」んですよね〉という。自分専用の図書館を作ってると思えば、急いで読まなくてもいいんじゃないかなって。今読まなくてもすぐ手に取れる場所にあるというのは自分にとってはだいじですね。」(柴崎友香、作家)

「本は書いた人の世界がパッケージになったもの。本がここにあるということは〈自分じゃない人の世界がここにある〉ということだと思います。私はできるかぎり、積ん読をしたほうがいいと思うんです。読んでない本があると、世界は外に広がっている。未知の世界に自分が開かれているんです。」(辻山良雄、書店主)

・・・なるほど。積ん読とは、自分の図書館を作ること。あるいは自分が向き合う知識の世界を作ること。と考えて、積ん読に励むとしようか。それにしても、私の部屋の広さの限界が、私の積ん読の世界の限界である、のが悩ましい。(苦笑)

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2024年11月18日 (月)

70年代司馬遼太郎ブームの背景

「日経MJ」17日付発信の文芸評論家・三宅香帆(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著者)インタビュー記事の中で、聞き手である中村直文・編集委員が以下のように発言していた。

(著者は)1994年生まれなのにまるで時代を見てきたように書いています。すごい読書量なんでしょうね。 著書内容の大半は同意しますが、司馬遼太郎作品については異論があって。1970年代に会社員らが60年代のノスタルジーとして読んだのでは、と書いていましたが、80年代に読んだ身としては、「まだまだ日本はいける」前提で読んでいました。

・・・年若い著者が、1970年代の司馬遼太郎ブームについて考察しているのは凄いなあと感心したのだが、自分も中村氏同様、そのブームは60年代のノスタルジーだったという見方は、違うと思った。70年代の時点で60年代を振り返ってノスタルジーの対象にするのは、さすがに早すぎるだろうと。じゃあ司馬遼太郎ブームとは何だったのかと問われると、年寄りの自分もすぐには答えが出てこない。(苦笑)

自分は司馬遼太郎をまともに読んだことが殆どない。小説は「国盗り物語」「燃えよ剣」を読んだくらい、それも割と最近の話。司馬作品のど真ん中という感じの「竜馬がゆく」「坂の上の雲」は読んでない。あとは、エッセイやテレビでの断片的な発言を聞きかじりしていた程度だ。

で、いわゆる「司馬史観」もイメージしか持ってないが、軍隊経験のある作家は、とにかく戦時中の日本に違和感ありまくりだったので、何で日本はこんなにおかしくなったのか、昔の日本人はもっとまともだったはずだと考えて歴史小説を書き始めた、という話だったと思う。つまり明治維新から、日清・日露戦争までの40年間は輝かしい時代、その後の大東亜戦争終結までの40年間は暗黒の時代であった、と。なので基本的に、日本と日本人の輝かしい時代を描いているのが司馬作品という印象。

日本の1970年代は、前半の石油ショックを乗り越えて、先進国サミットに非西洋国として参加し、70年代末には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」との声も出た。1960年代の高度成長は終わっていたが、経済大国としての自信は確かなものになっていたと思う。そういう時代に、輝かしい日本を描く司馬作品はフィットしたという感じがする。

ついでに言うと、70年代は日本人論が流行った頃で、これもアジアの中でいち早く近代化、西欧化して、戦争には負けたが高度成長を達成した日本とはどういう国であるのか、日本人とは何かという問いに、日本人自身が大きく関心を寄せたものと見える。つまり日本の70年代とは、経済大国という自信の裏に、内省的な意識も芽生えていた時代ということになる。

そんな時代背景から、日本や日本人を問う作家の姿勢も含めて、司馬作品が70年代の日本の社会状況と共鳴したのではなかろうか。

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2024年11月17日 (日)

政治家の「経済オンチ」は罪深い

日本の政党の掲げる経済政策は妥当性が疑われるものばかり。日経新聞電子版15日発信のコラム記事(自民・国民民主・れいわ「経済オンチ」は一体だれか?)からメモする。

石破首相(自民党総裁)は衆院選で「最優先すべきはデフレからの完全脱却だ」と主張した。一方でそのために掲げたのは「物価高を克服するための経済対策」だった。
デフレなのか物価高なのか。消費者物価指数の上昇率は、インフレ目標である2%を2年半にわたって上回り続けている。生活者の物価感をデフレかインフレかの二択で示せば、今はインフレだろう。ところがデフレという単語は曖昧に解釈できる。「デフレ=経済停滞」と広義にとらえれば、ガソリン補助金のような物価高対策に大義名分が生まれ、有権者にアピールする財政出動に道が開ける。

国民民主の玉木代表は「賃金デフレ」という言葉を使う。それが指すのは「1996年をピークに下がり続けている実質賃金」だという。
実質賃金は、実際に生活者が受け取る賃金(名目賃金)から物価上昇分を差し引いて計算する。2023年の実質賃金は前年から2.5%も下落した。ただ、実質賃金が下がった最大の理由は手取りが減ったからではなく、消費者物価(持ち家の帰属家賃を除く総合)が3.8%も上がったからだ。現状は円安を起点に賃金上昇を上回るインフレ圧力がかかっている。本来なら引き締め的な円安対策を講じるのが王道だ。玉木氏はそれを「賃金デフレ」と言い換えることで、所得税の非課税枠拡大といった大幅減税案で有権者の歓心を買うことに成功した。

衆院選で議席を増やしたれいわの山本代表は「30年不況」という厳しい言葉を繰り返す。
経済論議の中で「不況」とは通常、景気循環上の悪化局面を指す。実際の日本経済は、1993年から2020年までの5回の景気循環の中で拡張期は245カ月、後退期は74カ月と成長期の方が大幅に長い。長期トレンドとして「低成長」の状態にあるが、マイナス成長を続けているわけではない。不況期であれば、失業者の増加を防ぐ即効性のある財政出動と金融緩和が必要になる。山本氏がいう「消費税減税」も検討対象の一つになるかもしれない。

経済状態が不況でなく低成長であれば処方箋は変わる。成長企業に働き手を移す労働市場改革や国際競争力の高いハイテク産業の育成など、複雑な構造改革こそ求められる。野党のように「減税」の一言で政策を語ることはできなくなる。二大政党制と異なり少数野党が乱立する日本の政治は、バラマキ的な公約合戦につながりやすい。政権を担う意志がなければ、財源も副作用も気にする必要はない。

30年の長期停滞でわかったのは、日本経済に一発逆転劇をもたらす「魔法の杖」は見当たらないことだ。レトリックではなく、息の長い地道な改革を説く責任政党はどこなのか。有権者一人一人に政治の幻惑を見破る高い読解能力が求められている。

・・・「デフレ」とか「不況」とか、政治家は言葉を何だかテキトーに使っているなあという印象。政権担当能力のない野党は、経済政策も無責任なことばかり言うだけだ。日本経済を変える「魔法の杖」はないし、地道な構造改革しかないのも分かり切った話。しかし当然ながら、構造改革は言うは易く行うのは難し。はたして今の日本に、地道な構造改革をやり切る胆力のある政治家はいるのだろうか。

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2024年11月16日 (土)

通潤橋(追加写真)

通潤橋の追加取材。橋の上に上りました。2024年11月14日撮影。

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2024年11月11日 (月)

通潤橋&恐竜博物館

先日、熊本県御船町の恐竜博物館に行った時、当然のように通潤橋にも行った。通潤橋までバスで行く時は、熊本市街の桜町バスターミナルから出る「通潤山荘」行きのバスに乗るのだが、その途中、丁度半分くらいのところに恐竜博物館前のバス停がある。ということで、通潤橋と恐竜博物館を巡る「路線バスの旅」、所要時間は恐竜博物館まで50分、通潤橋までは1時間40分。運賃は通潤橋まで乗ると1450円。

通潤橋の放水は午後1時から約15分。恐竜博物館見学の所要時間はとりあえず1時間として、恐竜博物館を行き(午前)に見るか、帰り(午後)に見るか、バスの時間を見ながら考えることになるが、まあ先にバスの終点近くの通潤橋まで行って、帰りに途中下車して恐竜博物館を見る順番がいいのかなと思う。

通潤橋では小学生の集団に遭遇した。平日に国宝見学に来るのは、小学生とリタイア者か。(苦笑)

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御船町恐竜博物館入り口。ティラノサウルスの片方の手が欠けているのが気になる。(苦笑)

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2024年11月10日 (日)

御船町恐竜博物館

先日、熊本県の御船町恐竜博物館を訪ねた。聞くところによると、日本には恐竜専門の博物館は福井と長崎と、ここ熊本の3つしかない。福井は行ったことあるし、長崎も先月行ったので、とりあえず日本の恐竜博物館は全部行きました。

実は御船町恐竜博物館の存在は知ったのはつい最近。9月、熊本市内の桜町バスターミナルから通潤橋に向かう路線バスの旅の途中で、「こんなところに恐竜博物館が」と、自分的には意外な発見をしたということです。失礼ながら。

なんでここに恐竜博物館があるのかというと、1979年に日本で最初の肉食恐竜の歯の化石が発見されたことが始まり。で、発見から約20年後の1998年、日本最初の恐竜博物館として開館。ちなみに、福井県立恐竜博物館の開館は2年後の2000年。

町立だし、規模的には、こじんまりとしている。建物内の、化石の研究・教育施設と展示室施設のスペースは半々くらいの印象。

トリケラトプスを先頭に恐竜大行進という感じ。

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ティラノサウルスとアパトサウルスが目立つ。

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2024年11月 8日 (金)

「失われた○年」は続く?

日本経済の低迷は「失われた30年」で終わった、と見るのは誤りだと言うのは、エコノミストの門間一夫氏。本日付日経新聞コラム記事「エコノミスト360°視点」(「失われた40年」にしないために)からメモする。

過去30年を「失われた」と形容するかどうかは定義次第だが、低成長であったことを失われたというのであれば、状況は改善していない。コロナ禍前の2019年から24年前半までの4年半で、国内総生産(GDP)の実質成長率は年率わずか0.1%にすぎない。

一方、株価は10年代初頭の約5倍にまで上がっている。株価の低迷は「失われた20年」の段階でとっくに終わっており、10年以上も明確な上昇トレンドにある。株価は代表的な日本企業の稼ぐ力を表すものであり、それらの企業は近年、株主目線の改革を着実に進めてきた。日本経済は少子高齢化、地方の疲弊、消費の低迷に悩み続けているが、「日本企業」はそれらから影響を受ける事業の効率化を図りつつ、グローバルには拡張戦略をとって利益成長を実現してきた。株価は今後も中長期的に上昇し続けるだろう。

日本経済には2つの道がある。ひとつは、株価だけが上昇し続けて日本経済はこのまま「失われた40年」「失われた50年」になる道である。もうひとつは、株価の上昇とともに実質賃金がしっかり上がるようになり、国民生活も豊かになっていく道である。

大前提として株主重視の流れは止まらないし、資産運用立国を標榜する以上、株価が上がり続ける国でなければならない。論点は、株主重視の企業改革を賃金の上昇や中小企業の繁栄にも波及させるには、何が必要なのかである。

「国内拠点の充実こそ企業価値向上の鍵であり、そのためなら賃金も上げるしサプライヤーにも報いたい」と企業が思えるようなビジネス環境を、国内につくることが国の成長戦略である。新分野への挑戦機会が豊富で、エネルギー供給に不安がなく、世界一の教育があり、海外からも優秀な人が集まる――そういう日本の「創生」を、政府には期待したい。

・・・日経平均採用の225社は株主重視のグローバル企業となり、日経平均株価も過去最高値を更新。その一方で、中小企業は置いてきぼりとなり、日本経済全体も決して好調とは言えない。株価が上昇し続けるのであれば、中小企業の従業員は資産運用に励めば良いのかも知れないが、やはり賃金が上がって消費も増えるというのが基本の姿だろう。この大企業と中小企業の業況の格差というか、大企業業績とマクロ経済の乖離というか、これが解消に向かうような政策を実行しないと、日本経済の「失われた時代」が延々と続くことにもなりかねない。

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2024年11月 3日 (日)

三島由紀夫と赤塚不二夫

「それってあなたの感想ですよね」論破の功罪』(物江潤・著、新潮新書)を読んでいたら、三島由紀夫は、赤塚不二夫のマンガのファンだったという話が出てきた。以下の三島の言葉は、同書からの孫引き。

いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合って読むようになった。「もーれつア太郎」は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めていた破壊主義と共通する点がある。私だって面白いのだから、今の若者もこういうものを面白がるのもムリはない。

・・・三島由紀夫が、ちばてつや「あしたのジョー」の愛読者であったことは有名だと思うが、赤塚不二夫「もーれつア太郎」も愛好していたというのは初めて知った。「もーれつア太郎」というと、自分にはアニメの印象が強いかも。主題歌の「こらえて生きるも男なら~売られたケンカを買うのも男~」というフレーズは、子供心にもなるほどなあ~と感じるものがあった。何にしても大昔の話だが、自分は子供の頃、父親からは「マンガばかり読んでるとバカになる」と言われたものだ。でも、三島みたいな大文学者がマンガを読んで面白がっていたわけだから、やっぱりマンガの力は偉大だと思う。

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2024年11月 2日 (土)

GHQ占領と東京裁判

昭和問答』(岩波新書)は、田中優子と松岡正剛の対談本。戦後の、アメリカの日本占領政策と東京裁判に係る松岡発言からメモする。

たしかにアメリカによる日本占領政策は、まさにフロンティアを開拓していくというような独創的で実験的なものだったんだろうと思います。アメリカが日本占領のすべての権限を独占的にもつ。ここが日本占領作戦の最も重要なポイントです。ヤルタ体制のままだと、ドイツの東西分裂やベルリン分割同様のことも起こったかもしれなかった。それをアメリカが巧みに出し抜いた。そのうえで、アメリカの日本占領政策が矢のように連打されていった。このシナリオがまさに「昭和」と、その後の今日に至る「日本」の命運をすべて決することになった。

にもかかわらず、これを詳細に検討することは、いまの日本人の〝宿題〟としては稀薄になっています。天皇の問題、憲法の問題、東京裁判の問題、日米安保条約の問題、経済政策の問題、民主主義の問題、独立の問題など、大問題のほぼすべてが占領政策の施行とともに確定してしまったのに、今日の日本はそういうシナリオから脱したかのように錯覚しているよね。

日本では、東京裁判を受け入れるような立場を「敗北史観」とか「東京裁判史観」とみなす考え方が一時流行した。東京裁判そのものはどう分析しても、勝ち組の裁判であることに変わりない。敗者として裁かれるという経験をした日本が、そういうものを抱えたまま国家を維持していくというのはどういうことなのかを、もっと考えつづけたほうがいいと思う。もし東京裁判がなかったら、はたして日本人はあの戦争を自分たちで振り返ることができたのだろうか、ということさえ怪しく思えてくるよねえ。

東京裁判でA級戦犯をつくりあげて処罰し、天皇のことは不問にする代わりに人間宣言をさせる。そこに加えて民主憲法をつくって与える。それをGHQがあっというまにやってしまった。これでは占領日本は、ぐうの音も出ない。

アメリカは自分たちの影響下での日本の再軍備、ようするに「自衛隊づくり」に着々と向かう。世界戦略として、アメリカは最初から日本をソ連に対抗する地政学的な拠点として見ていたからね。結局、(サンフランシスコ講和条約の調印と同時に)日米安全保障条約が結ばれて、これで日本はずっとアメリカに従属させられることになった。とうてい独立したとは言えないよ。

・・・こんなふうに整理されると、今の日本はアメリカが作った、としか思えなくなる。終戦直後にアメリカから平和憲法を与えられた日本は、冷戦構造の形成に伴い、アメリカの都合により再軍備を強いられ、「反共の砦」となった。冷戦終了後も、国家の在り方が孕む矛盾は解消されないままであり、今も日本は基本的に「属国」的な在り方を引きずっている。

来年(2025年)は「昭和100年」にして終戦80年。戦後日本の根本を問い直す良い機会になるのかもしれない。けど、政治は結局、目先の対応で右往左往するのだろうなあ。

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2024年11月 1日 (金)

少数与党は辛いよ

本日付日経新聞のコラム「大機小機」(少数与党は中道保守を結集せよ)からメモする。

衆院選で自民党と公明党は「政治とカネ」の逆風をはね返せず、議席の過半数を失った。野党が結束すればいつでも内閣不信任案が可決される土俵際である。石破茂首相がなすべきは中道保守を結集し、2007年から毎年、6人の首相が代わった「悪夢」を繰り返さないことだ。

少数与党のリスクは、政策協力や連立の協議がうまくいかず、首相が退陣に追い込まれても混乱が続き、政治が何も決められなくなる事態が長期化することだ。来年夏には参院選があり、政治闘争は激しさを増す。石破首相はその前に、中道保守勢力を結集する必要がある。

少数与党だからこそ、目先のメリットと共に中長期の日本の将来像を協議すべきではないか。「社会保障と税」や「労働市場の流動化と雇用法制」「人口減少とインフラの維持」「安全保障と国際連携」など、テーマは山ほどある。国の将来への責任に党派性は不要だ。

必要なのは、負担と受益の見直しによる持続可能な社会への見取り図である。負担増も含めて国民に提示しないことは、政治不信の一因でもある。野党も含めて問われるのは、中間層を守る意志だ。それなしには、欧米のように世論の分断も進むばかりだ。

・・・かつて安倍首相は、「悪夢の民主党政権」という言い回しを得意気に使っていた。しかし民主党政権(鳩山、菅、野田)の3年間だけでなく、その直前の自民党政権(第1次安倍、福田、麻生)の3年間も含めて、日本政治の「悪夢」の時代と見るところだろう。「悪夢」の始まりだった安倍首相が2012年に復活して、長期政権で「悪夢」の時代を終わらせたのは、立派だったとは思うが。

少数与党内閣というと、1994年の羽田内閣を思い出す。細川首相の辞任、そして社会党が連立を離脱した結果、少数与党の内閣を作った羽田首相は2ヵ月で退陣。その後の自社連立による自民党の政権復帰を許した。

衆院と参院の多数派が異なる、いわゆる「ねじれ」も、政治の不安定につながる。かつて福田首相は、自民党と民主党の大連立を模索した。現在も一部で、石破自民と野田立憲の大連立の可能性という見方が出ている。

現状、政治の不安定感は覆い隠しようもない。コラム氏の書くとおり、毎年首相が交代する「悪夢」を繰り返してはならない。少数与党は、ある意味開き直って、あらゆる手段の可能性を追求して、政策実現を図るべきだろう。

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