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2024年10月22日 (火)

関ヶ原、「豊臣公儀」の分裂

一昨日の20日、関ケ原古戦場記念館において「若手研究者成果発表会」を聴講。研究者3名の発表の中で、北村太智先生(龍谷大学博士課程)から説明された「豊臣公儀」分裂の話が興味深かった。以下に要点をメモしておきたい。

会津出兵から「関ヶ原の戦い」への転換時に、「豊臣公儀」は東軍・西軍に分裂した。白峰旬氏は、「内府ちかいの条々」発布により、会津出兵中の徳川家康から「公儀性」が剝奪され、ここにおいて「石田・毛利連合政権」ともいうべき「公儀」が成立したと評価する。一方、山本浩樹氏は、東軍諸将の支持を得た家康の軍事指揮権は、会津出兵からの反転後にむしろ強化され、新たな「公儀」を創出したと評価する。

西軍の結成は、やはり急ごしらえの感は否めない。また、西軍の「公儀」は「秀頼を推戴している」という体を装っている以上の実態はなく、西軍は西軍で正当性(すなわち「豊臣公儀」)をアピールする必要や、家康に謀反人のレッテルを貼り付ける必要もあった(いわゆる「内府ちかいの条々」)。

西軍が形成された後も、家康の創出した「公儀」を「豊臣公儀」と認めて従う大名が多数いた。三成・輝元と家康の両陣営は各々「公儀」を創出し(=西軍・東軍の形成)、諸大名は自身の認める「公儀」に従うことで、「豊臣政権」は分裂することになったのである。

西軍・東軍結成時に両者の掲げた「公儀」は共に盤石なものではなく、どう転ぶかわからない不安定なものであった。

・・・ということで、最近の関ヶ原新説では石田三成方からの「内府ちかいの条々」発布により、徳川家康方は「賊軍」となり窮地に陥ったとする見方を強調していたと思うのだが、石田方の「大義」もそれ程説得的ではなかったということだろう。実際、西軍結成発表とも言える「内府ちかいの条々」の内容が知れ渡るのは、「小山評定」による東軍結成の後になったらしいのだが、それでも東軍大名は家康に付き従い続けたわけだし。

ただ劣勢に追いやられたわけではないにしても、状況がどう転ぶかわからなかったので、小山評定の後、家康は江戸にひと月留まって「書状作戦」に専念していたのだろうな、とは思う。

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