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2024年10月21日 (月)

関ヶ原合戦布陣図の歴史

昨日20日、関ケ原古戦場記念館で「若手研究者成果発表会」を聴講。研究者3名の発表の中で、小池絵千花先生(早稲田大学博士課程)のテーマは「関ヶ原合戦像の変遷」。現在、我々が目にする合戦の定説的な布陣図はどのように形成されてきたのか、その過程を分析。以下に要点をメモしておきたい。

まず合戦当時の当事者によって書かれた古文書・古記録・覚書の内容は、部隊相互の位置関係や地形など、書き手の視点からの部分的な情報に限られる。具体的な地名はなく情報は断片的で、いわゆる一次史料から合戦の全体像を復元するのは、非常に困難。合戦の全貌を記した史料としては、太田牛一が著した『内府公軍記』の成立(1607年)が特異的に早く、大まかな布陣の構図もこの時点で成立している。その後、寛永年間から江戸幕府主導の史料編纂が行われ、自家の歴史の報告を求められた各大名家では、1640年代から50年代にかけて多くの家臣の覚書が作成された。1660年代以降になると、軍学者によって物語性の強い軍記が作られた。さらに1700年代になると、今度は考証意識の強い軍記が作られるようになる。

明治時代に入ってからの代表的な活動は、神谷道一による関ヶ原合戦研究と、陸軍参謀本部による『日本戦史』の編纂。この両者は各自で研究を開始したが、明治22年(1889)9月に参謀本部の日本戦史編纂委員が関ヶ原での現地調査を行った際、神谷道一が案内するなど、相互交流もあった。神谷道一は明治25年(1892)に『関原合戦図志』を出版し、参謀本部は明治26年(1893)に『日本戦史 関原役』を出版した。ここに、現在「定説」とされている情報が出揃うことになる。

小池先生によれば、江戸時代に広く流布した軍記よりも、地元美濃に伝来した軍記(写本)の方が「定説」の形成に大きな役割を果たしており、現地での比定作業によって「定説」となった地名も存在する。

・・・ということで、全体的な東軍西軍の各部隊の位置関係などは、基本的に太田牛一の史料により、個別の具体的な陣地の場所については、地元伝来の軍記や現地での比定作業によって、「定説」が形成されたという感じである。

最近の「山中合戦」など関ヶ原新説では、参謀本部の布陣図に大した根拠はないんじゃないか、くらいの勢いを感じたが、小池先生が改めて「定説」の布陣図形成について、史料を網羅的かつ丹念に分析したことにより、布陣図に対する疑義はほぼ払拭されたように思う。というか、最初に小池先生の論文(「地方史研究」第411号掲載、2021年6月発行)を読んだ時、えっ、あの太田牛一が関ヶ原合戦についても記録していたのか、と驚いた。『信長公記』の執筆姿勢は信頼できるし取材力は驚異的だし、関ヶ原合戦の記録も信用するしかないなあという感じになった。なので自分の中では、いわば「太田牛一」ブランドの前に新説は吹っ飛んだ格好。小池先生によれば、太田牛一の『内府公軍記』の執筆動機は不明だそうだが(言われてみれば何で書いたんだろう)、『信長公記』も含めて貴重な記録を遺してくれた牛一様に感謝である。

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