« 長崎市恐竜博物館 | トップページ | 少数与党は辛いよ »

2024年10月26日 (土)

関ヶ原合戦、新説の敗北?

去る10月20日、関ケ原古戦場記念館で若手研究者の成果発表を聴講した。発表者3人の中で自分の目当ては、小池絵千花先生の「関ヶ原合戦像の変遷とその背景」。現在通説とされる布陣図の形成過程について、興味深いお話が聞けた。

会場の最前列には、「関ヶ原研究会」の会員である笠谷和比古先生、水野伍貴先生、高橋陽介先生などが陣取り、発表者への質問を行った。小池先生の発表では、水野先生が「戸田左門覚書」史料について質問し、小池先生は「偽書とまでは言えないが、問題のある史料」と答えていた。「戸田左門覚書」には、石田三成が「自害が岡」に陣を布いたと記されている。この史料に注目して、テレビ番組でも「自害が岡」(現在の「自害峰」)に石田三成陣があったと主張していた高橋先生からは、その場では何のコメントも出なかった。ちょっと残念。

最近、関ヶ原合戦については新説が多く出されて、それはそれでとても面白かったのだが、どうも一巡感が出てきたように思われる。とりあえず白峰旬先生の唱えたところでは、「問い鉄砲」は文献学的裏付けから事実ではないと認定された感じだが、そのほかの「山中合戦」や小早川の即座の裏切りは、通説に取って代わるところまでは行かなかったようだ。

それでも新説のおかげで、歴史ファンは改めて従来説についていろいろ考えることができたというか、妄想のタネ?をもらえたことは有難く感じている。自分の関ヶ原合戦のイメージは、まず1600年9月14日に徳川の大軍が西軍の籠る大垣城の北に到着し、同日関ヶ原では松尾山の守りが伊藤盛正から小早川軍に交代。その夜、大垣城の西軍は関ヶ原に向けて行軍、到着後は北国街道と中山道を押さえる形で布陣した。おそらく、南宮山に毛利がいるので東軍はすぐには関ヶ原に進めない、と考えていたのだろう。ところが吉川広家と黒田長政が交渉して急きょ和睦。これにより、東軍も西軍を追って関ヶ原に進出する。行軍の疲れが残る西軍は、家康到着で士気の上がる東軍と戦う羽目に。9月15日の朝、両軍の前哨戦が始まる。霧の中で手探りの慎重な戦い。松尾山の山上の小早川も霧のため、すぐには動けなかった。やがて霧が晴れて戦場全体の状況が見渡せるようになった時、自分が西軍の背後から攻撃すれば東軍が勝利することが分かった小早川は突撃を決行。西軍は崩壊した。

とにかく吉川広家がさっさと和睦(降伏?)した結果、東軍が迅速に関ヶ原に進出して、それを見た小早川も裏切りの決心がついた、という感じ。そう考えると、西軍敗北の張本人は吉川であるように思う。

| |

« 長崎市恐竜博物館 | トップページ | 少数与党は辛いよ »