シーシュポスの「幸福」
『現代思想』3月号の特集は「人生の意味の哲学」。森岡正博と古田徹也の対談から、二人の哲学者がカミュの「シーシュポスの神話」について語る部分をメモする。
森岡:カミュは人間存在において注目すべきは不条理というあり方であると考えました。今まで安心して立っていた世界の底が抜けることを不条理という言葉で捉えています。不条理に満ちた世界で運命に反抗することで、自分が生きることを肯定していけるのではないかというメッセージをカミュは出しています。カミュはその際、古代ギリシャのシーシュポスの神話を例に出します。シーシュポスは、神々からの罰を受けて山の上に岩を押し上げなければなりませんが、岩は必ず転がり落ちてしまうので、何度も岩を押し上げ続けないといけない。カミュは、まったく意味がないように見えるシーシュポスの行為であっても、運命に反抗するというスタンスを取ったときには、何かそこに自己肯定的な、幸福につながるものが見えてくるのではないかと考えます。
古田:僕自身はカミュの問いーーあるいはそれは九鬼周造の議論のほとんど焼き直しのような感じですがーーがずっと気になっています。シーシュポスのあり方は、徒労と無意味を象徴化したものとして捉えられるのが一般的ですが、九鬼とカミュによれば、シーシュポスは幸福でなければならない。彼らはそこで、ある種の発想の転換を果たそうとしているわけです。このときの幸福とは何か。シーシュポスが置かれているのは、一般的な意味では全く幸福ではない状況です。つまり、我々が幸福を見出すことができるような条件は全てはぎとられている。何も達成できないし、何も承認されない。しかも精神的にも肉体的にもずっと苦痛が続く。しかしそれでも、生きることには何らかの肯定性を見出すことができるかもしれない。九鬼やカミュがシーシュポスに見出そうとしている幸福は、そういうギリギリの肯定性です。九鬼やカミュはシーシュポスの姿をめぐって、そういった肯定性を幸福という言葉に託して議論しているわけで、そういう意味では幸福論よりも人生の意味論に分類できると思います。
・・・「人生の意味の哲学」というテーマを語る中で、カミュの「シーシュポスの神話」がフィーチャーされるのは、至極当然のように思われる。何しろこのカミュのエッセイは、冒頭から「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と、切迫感を伴いつつ単刀直入、ド直球の問題設定で始まる本なのだから。シーシュポスは「ギリギリの肯定性」を体現する「幸福」な者であるならば、シーシュポスに倣って我々も、人生に意味はあると判断できる、ということなのだろう。
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