「明智光秀家中軍法」の「瓦礫沈淪」
本能寺の変の丁度一年前の天正9年6月2日、明智光秀は家中の軍法(軍制)を定めた。その中で光秀は、石ころのような者であった自分は莫大な軍勢を預けられるようになったと述べて、主君織田信長への感謝を示しているとされているのだが、在野の研究者である乃至政彦はその見方を否定する。戦国武将をテーマとするコラム集『戦国大変』から、氏の考察をメモする。
(「家中軍法」の中にある)「瓦礫沈淪」の字句は、光秀研究において有名だ。通説はこれを「私光秀は石ころのような身分でいたのを(信長様に)拾われました」、「だからお前たちの活躍もしっかり報告して出世できるぞ」と言いきかせるための前置きのように説明してきたが、そうではないだろう。
ここにあるテキストは「軍役(動員の制度)」に関する内容である。自分の部下たちに読んで従わせる公式の軍制に、私的な情緒や体験を述べるのは不自然だ。ここは「わが軍が、バラバラになった瓦礫みたいになってみっともないのはよろしくない」という文意で読み、あくまで軍制に関する内容を記しているとするのがよいのではないだろうか。
そもそも「瓦礫沈淪」を説かれているのは誰であろう、光秀の家中に入ったばかりの新参者たちである。光秀は天正8年(1580)に信長から丹波一国を与えられた。光秀の兵員はここで爆増した。光秀が苦楽を共にした古参の者たちに「俺は若い頃から苦労したけれど、信長さまのおかげでここまで大きくなったよ」というなら感涙されるかもしれないが、征服されてその麾下に入ることになったばかりの丹波の侍たちにすれば、「あー、そうですか、よかったですねー」と呆れる思いがするだけだ。甘い昔話をして情緒に訴えるより、「お前たちが石ころみたいにバラバラでいたら、恥ずかしいことになるんだぞ」と厳しく言い聞かせる方が現実的である。
・・・通説的解釈だと、「家中軍法」の中で光秀は信長への感謝を述べていたことになり、一年後の本能寺の変に至る光秀の心変わりが余計に謎めいたものに思えたわけだが、そうではないという話なら、「そっかあ」という感じになる。本能寺の変について、乃至先生は「(光秀は)何の理想もなく、ただ勝算の有無だけによって挙兵した」と見ている。結局、そんなもんかもしれないなあ。
| 固定リンク | 0
