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2023年6月12日 (月)

石川数正が歴史を作った(かも)

徳川家の重臣として外交を担った石川数正。羽柴秀吉の下に走った謎の出奔により、豊臣政権から江戸時代に続く歴史が作られた、と評するのは作家の加来耕三。日経ビジネス電子版6月9日発信記事からメモする。

天正12(1584)年「小牧・長久手の戦い」後の羽柴秀吉と徳川家康との和睦交渉では、秀吉はその条件として、家康に「息子を人質に出せ」と言ってきました。家中は全員大反対です。これに数正は、周りから疑念の目で見られながらも、正論を吐きます。「ぶつかれば最終的には、徳川家は潰される。ここは妥協すべきだ。於義伊(おぎい、のちの結城秀康)様は人質に出すのではない。養子に出すのだ」と、家中が納得できる案を絞り出して、なんとか事を納めたのでした。

秀吉は今度は、家康を自分のもとに呼び寄せて、臣下であることを承諾させようと画策します。家康が出てこなければ、秀吉は今度こそ、実力で家康を潰す気でいました。ところが家康は、いつまでたっても、いっこうに現われません。間に挟まれていたのが数正です。そして天正13(1585)年の11月13日、52歳、あるいは53歳になっていた石川数正は、突然、家族と数百人の家来を連れて、秀吉のもとに走りました。

秀吉が討つ気になれば、もう徳川家はお手上げです。どうすればこの局面を脱して、家康を助けられるのか。数正が出した結論が、自分が秀吉のもとに出奔すること、だったのではないでしょうか。徳川家の内情を熟知している数正が秀吉側に走れば、徳川はもう秀吉と戦うことができません。

こののち天正14(1586)年5月、秀吉は、実の妹・朝日姫を正室として家康に差し出し、さらに10月、秀吉は生母の大政所(おおまんどころ)を朝日姫の見舞いとして岡崎に送りました。家康も、ここまでされては秀吉の臣従要求を拒みきれず、ようやく大坂城へ出向きました。

これにより、豊臣政権が成立しました。豊臣政権下で家康が潰されることもなく、のちに265年間の徳川時代にもつながりました。出奔という数正の苦渋の決断があって、現代に続く日本の歴史がつくられた、と言っても過言ではありません。

・・・石川数正の捨て身の決断により、秀吉と家康の全面衝突は回避された。秀吉の死後、日本が戦国時代に逆戻りしなかったのは、家康が生き残っていたからこそである。数正の出奔は、結果的に「徳川の平和」を招き寄せた。そう考えると、数正の行動がその後の日本史の展開を決定づけたと見ても、おかしくはない。

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