カミュ=サルトル論争と『転落』
書店で、カミュの『転落』の新訳が出ていたのを見つけた時は「へぇ~」って感じがした。例の、ドストエフスキー作品の新訳とか出してる、光文社古典新訳文庫だ。最近のコロナ禍で読まれたという『ペスト』の新訳が出るのは、まだ分かる気もするが・・・それでもそんなに長くない小説だし、読んでみる気になった。解説によると、『転落』には、サルトルとの論争を巡るカミュの経験が色濃く反映されているとのこと。以下に、訳者である前山悠氏の解説からメモする。
『転落』から遡ること5年前、1951年、カミュは哲学的エッセイ『反抗的人間』を発表した。この一冊は、サルトルとの間に、終生の絶交にまで至る大論争を巻き起こすことになる。
この通称カミュ=サルトル論争(あるいはサルトル=カミュ論争)は、ごく端的に言えば、冷戦時において、社会主義勢力なかんずくスターリン統治下のソ連に対して、どのような態度を取るかをめぐる決裂だった。スターリンを恐怖政治の独裁者として告発するカミュは、『反抗的人間』において、社会主義そのものを危険視し、理想社会の達成という歴史的大義を謳って、個人の生命と自由を犠牲にすることは許されないと訴えた。これに対し猛反発したのが、社会主義寄りのサルトルおよびその一派、いわゆる「実存主義者」たちだった。
カミュは手帖にこう書いている。「実存主義。彼らが自分の罪を告白するのは、常に他人をこきおろすためであると考えて間違いない。告解者にして裁判官ども」。
かくしてサルトルら実存主義一派との論争をめぐるカミュの実体験は、のちの『転落』に様々に反映されることになる。
・・・のではあるのだが訳者は、論争を背景とした理解が、この作品を読む唯一の手段ではない、とも断っている。この作品は、かつての実存主義一派に限らず、現代人の多くが「告解者にして裁判官」であることを描き出しているのであり、要するに論争と関係なく、優れた小説として読まれうる、と。
『カミュの手帖』(大久保敏彦訳、新潮社、1992年)を久々に開いてみた。「実存主義」の記述の日付は1954年12月14日。大久保訳は「改悛者たる判事」で、前山訳との違いは正直良く分からない。告白者とか懺悔者だと、日本人にはもっと分かりやすい気がするが、専門的な何かしらの理由はあるのだろう。
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