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2022年5月31日 (火)

「決算書が読める」とは

今週の「週刊東洋経済」(6/4号)の特集は「決算書大解剖」。著書である『世界一楽しい決算書の読み方』は20万部のベストセラー、ツイッター「#会計クイズ」のフォロワーも10万人超という、「大手町のランダムウォーカー」氏(Funda代表、公認会計士)のインタビュー記事からメモする。

会計は英語で「accounting」だが、もともとの語源は「account=報告する」。つまり企業の財政状態を利害関係者に対して報告するのが、会計の本質的な役割だ。その報告の仕方を学ぶのが会計学。

一生懸命簿記の勉強をして公認会計士試験に合格し、監査法人に就職して初めて企業の決算書を見た。「会計の知識があれば決算書も読めるだろう」と高をくくっていたが、ふたを開けてみるとまったく読めない。これが決算書を勉強するきっかけとなった。

私の中での決算書が読めるということの定義は、決算数値から何らかのメッセージをつくれることだ。例えば、「トヨタの売上高30兆円」という決算数値を見ても、ビジネスの知識や経験が豊富な人ほどそこから多くの情報を得て、メッセージをつくることができる。

そのことを痛感してから、ビジネスの知識を猛勉強した。新聞や雑誌などからの情報収集に加え、「◯◯業界がよくわかる本」などを片っ端から読みあさった。だが、今振り返ると、だいぶ遠回りをしてしまったと思う(笑)。

情報収集の前に、まず自分の中に基準値を持つことが重要だ。例えば、「コメダ珈琲店の原価率は約60%」というニュースを見たときに、「上場企業の飲食業における原価率の平均値は40%前後」という基準値を持っていれば、「飲食業なのに原価率が高いな」という違和感が発動し、決算書から原因を探す行動につながる。そういう基準値を複数用意してニュースを読むことで、インプット効率は断然高まる。まずは情報にアクセスしやすい自社の業界から調べてみるのがよいだろう。

・・・会計の知識があることと決算書が読めることは異なる、というところが面白い。会計の知識があるとは、決算書の作り方を知っているということであり、決算書の読み方はまた別、なのだろう。とりあえず、決算書を読むということは企業分析(時系列)や業界分析(同業他社比較)とほぼイコールと考えてよい。

最近の「週刊経営財務」記事によると、「大手町のランダムウォーカー」氏は、高校卒業後は進学も就職もせず、「レールから外れた人生」を送っていたが、一念発起して公認会計士試験に合格。監査法人でコンサル業務を経験後、起業したという異色の経歴の持ち主。氏の人生の「履歴書」も読んでみたい気がする。

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2022年5月30日 (月)

『映画を早送りで観る人たち』

先日、映画会社や放送会社が、「ファスト映画」投稿者に損害賠償を求めるというニュースを聞いた時、ファスト映画を作る人が訴えられるということは、自分の予想以上に、ファスト映画を見る人は沢山いるのだなと、改めて了解した。ので、「ファスト映画・ネタバレーーコンテンツ消費の現在形」との副題を持つ『映画を早送りで観る人たち』(稲田豊史・著、光文社新書)を読んでみた。

昨今、画像配信される映画やドラマなどを「倍速」や「10秒飛ばし」で観る、あるいは先に結末を確かめてから観る(ネタバレ)という視聴方法が、若者を中心に広がっているという。この「鑑賞法」に対する違和感から、著者(1974年生まれ)は出発。データや取材を基に考察をまとめたのが、この本である。

早送りによる「鑑賞法」が広がっている背景だが、まず膨大な数の作品が供給されているという状況がある。いわゆるサブスクのサービスが浸透しており、あれ観たこれ観たという話題にも付いていきたい。が、とにかく膨大な数の作品を観る時間がない。その解決法が、倍速視聴による「時短」化である。

2つめはコストパフォーマンス(コスパ)の追求。倍速視聴者は時間コスパ、言い換えるとタイムパフォーマンスを求める。これを若者は「タイパ」あるいは「タムパ」と呼ぶ。彼らはタイパ至上主義者であり、「タイパが悪い」ことを極度に嫌う。倍速やネタバレは、作品が面白いかどうか分からないストレスを軽減し、無駄な視聴に時間を使ってしまうリスクを避けるための手段なのだ。

加えて、最近は何でもセリフで説明する作品が多く、セリフのある部分だけでも内容は把握できると考えて、飛ばして観る視聴者も多くなっているようだ。

こうなると「作品鑑賞」ではなく、「コンテンツ消費」(あるいは「情報収集」)である、と著者は考える。何しろ今はSNS常時接続の時代だ。誰もがLINEから逃げられない。常にレスを求められる。この状況に対応するため、人はコンテンツを効率的に消費せざるをえないのである。

とりわけ、いわゆるZ世代と呼ばれる若者層中心に「コスパの悪さ」を恐れる傾向は強い。そのような効率性を求める価値観は、どのような環境で育まれたのか。ひとつめは、キャリア教育の圧力だ。今は、大学在学中から綿密なライフプランやキャリアプランを組み立てろ、と迫られる。昔のように、とにかくどこか会社に入ってからプランを考える、という時代ではない。もうひとつが、SNSによって同世代の活躍が否応なく目に入ること。直接知らない人の活躍でも、見てしまうと自分も早く何事かを為したいと、焦る気持ちになってしまう。らしい。

キャリア教育の圧力と、同世代活躍者の見える化を横目に、マイペースで行こうとしても、今の大学生生活は多忙であるようだ。大学は出席に厳しく、仕送りは減少傾向にある中バイトにも行くし、LINEのコミュニケーションにも勤しむ。ということでほぼ必然的に、若者は膨大なコンテンツを倍速処理で消費する、あるいはチェックすることに追われるのである。

自分も年配の人間なので、倍速視聴には違和感を持つ者であるが、この本の、倍速視聴という行動の直接的な分析から、倍速視聴という行動を生み出した社会的背景や若者の価値観にも展開していく説明には、充分納得させられた。

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2022年5月28日 (土)

映画「シン・ウルトラマン」

映画「シン・ウルトラマン」が公開中。言わずと知れた、鬼才・庵野秀明が手掛ける「シン」作品である。この「シン」の意味するところはとりあえず、「新」および「真」であると見ていいと思うのだが、「新」はもちろん新しい、そして「真」はオリジナルを超える、くらいの意味合いか。この了解を元に考えると、セルフカバー的な「シン・エヴァンゲリオン」は置いといて、「シン・ゴジラ」は「シン」と呼べる凄い作品だと思うが、「シン・ウルトラマン」の出来はオマージュ作品の性格を大きく超えるものではない、というのが自分の感想。

ウルトラマンの姿で、オリジナルと一番異なるのは、カラータイマーが無いところ。もともと成田亨のデザイン原案にはカラータイマーは無く、いわば原点回帰の姿。カラータイマーは、テレビ番組の演出上付け加えられたものであり、しかも当時カラーテレビの普及が道半ばだったため、青色から赤色の変化を点滅で示す仕掛けも作られた。「シン」ではその代わり(なのか)、エネルギーが減少するとウルトラマンの体色の赤が緑に変化する。その他は、おなじみのスペシウム光線や八つ裂き光輪が、必殺の武器として繰り出されるのは変わらない。

怪獣は「禍威獣」と称されて、ネロンガとガボラが登場。宇宙人は「外星人」と称されて、ザラブとメフィラスが登場。デザインはオリジナルにまあまあ近いものもあれば、かなり異なる印象のものもある(ネットには「エヴァ」の「使途」を想い出すとのレビューが目につく)。映画冒頭にウルトラQ怪獣のパゴスもちょっとだけ登場するが、パゴスの頭部はガボラと同じに見えるし、パゴスの胴体はネロンガとほぼ同様の形状で、これはオリジナルでも着ぐるみの使いまわし(頭部を改造)していたことをベースにしているのだろう。

ストーリーでは、オリジナルの「にせウルトラマン」「巨大フジ隊員」が取り入れられているし、最後にゼットンが登場するのもオリジナルをなぞった展開。ただしゼットンは怪獣ではなく、全人類抹殺のための巨大な最終兵器という形で、しかもウルトラマンと同じ光の星からやってきたゾーフィ(ゾフィーではない)が持ってきた兵器という、かなり捻った設定である。

映画の結末では、ウルトラマンは死んだ・・・と思われる(セリフによる説明から推測するしかないけど)。これがオリジナルだと、ゾフィーが「命を二つ持ってきた」(!)と言って、ウルトラマンもハヤタ隊員も生き続けるわけだが。「シン」では、人間の自己犠牲的行動に強い関心を持ったウルトラマンが、最後には自分も自己犠牲の道を選んだ・・・ようにも見えるが、どうなんだろう。

まあ結局自分は、ウルトラマンよりも怪獣が好き。なぜ当時の(自分も含む)子供たちが怪獣に熱狂したのか。今から思えば成田亨という芸術家がデザインし、高山良策という芸術家が造型したからだよ、つまり僕たちは芸術を愛好していたのだと、何の迷いもなく言うことができる。

だから映画の冒頭を見た時に、庵野氏は先に「シン・ウルトラQ」を作るべきだった、と強く感じた。今からでも遅くない、怪獣だらけの「シン・ウルトラQ」が観たい!

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2022年5月25日 (水)

「ネオナチ」批判、空回り

日経新聞電子版本日付配信記事「プーチン大統領、ネオナチ批判の重いツケ 侵攻3カ月」からメモする。

ロシアがウクライナへの軍事侵攻を開始して3カ月。プーチン大統領は侵攻理由のひとつに、ナチズムとの闘いを掲げる。ウクライナのゼレンスキー政権を「ネオナチ政権」と非難。第2次世界大戦で当時のソ連がヒトラー率いるナチス・ドイツに勝利した歴史と重ね合わせ、ロシア国民の愛国心をあおって侵攻を正当化しようとしている。だが、こうした戦術が奏功しているとは言い難い。

プーチン氏が執拗にネオナチを持ち出し、ウクライナ非難の宣伝材料にするのには理由がある。第2次大戦前後にウクライナの独立運動を主導した政治家ステパン・バンデラの存在だ。
バンデラは「ウクライナ民族主義者組織」の指導者で、ウクライナ西部を中心に戦前はポーランド支配、その後はソ連支配からの独立を求めて武力闘争やテロ活動を主導した。1959年、滞在先のミュンヘンでソ連国家保安委員会(KGB)の工作員によって暗殺された。
ソ連による占領に対抗するため、一時的にナチス・ドイツとの協力を唱えた経緯があり、旧ソ連やロシアではバンデラを「ヒトラーの協力者」、バンデラ主義者を「ネオナチ」とみなす。一方、ウクライナでは91年末の国家独立以降、バンデラを英雄視する傾向が強まり、各地に銅像も建てられるようになった。
ロシアを中心に旧ソ連ではもともと、ナチズムへの嫌悪感が根強い。第2次大戦の対独戦で3000万人近い犠牲者を出したからだ。一時的にせよナチスと協力したバンデラの存在は、ウクライナ侵攻で国民の支持を得たいプーチン氏にとって格好の宣伝材料となっている。

ただし、政権の思惑が必ずしも成功しているわけではない。「ウクライナ情勢で何を懸念しているか」。民間世論調査会社のレバダ・センターが4月に実施した調査によると、民間人やロシア兵を含めた人的犠牲が47%を占めた。半面、バンデラ主義者やナチズム信奉者の脅威を挙げたのは6%にすぎなかった。

・・・「ネオナチだから敵だ」という主張は、NATOに接近するウクライナを「敵」と見做して、後からネオナチのレッテル張りをしているだけのこと。そんなバレバレの主張で戦争を起こす人間というのは、やはり正気ではないとしか言いようがない。「極悪」のシンボルとして引き合いに出されたナチスにも、お門違いの「不名誉」であるかも知れないと、かつてドイツと同盟国だった極東の島国の住人であるワタシは思ったりする。

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2022年5月22日 (日)

傷痍軍人の記憶

「傷痍軍人」についての展示資料館が、東京・九段下にあるというのは知らなかった。サイト『現代ビジネス』の本日付配信記事から以下にメモする。

戦闘で傷ついた兵士たちは、名誉の負傷として戦中は下にもおかない対応を世間から受けたが、戦後、一転した。軍部憎しの感情から、彼らも犠牲者であったにもかかわらず、白い目で見られた人がいかに多かったか。実際、GHQは旧軍人へ厳しく対し、軍人恩給は廃止され、働くこともままならない人々は困窮した。

大きな駅の前には、義足をつけ、白い着流しの病院服に軍帽姿の元兵士たちが姿をあらわし、アコーディオンやギターを奏でて道行く人から寄付を募った。目撃した人のなかには、彼らが奏でる物悲しい旋律に、なにか恐ろしさを感じたと回想する人もいる。やり場のない怒りと悲しみが響いていたのだろう。

いまこの瞬間も、世界では取返しのつかない傷を負っている人がいる。この国でかつて、若い人々がどんな傷を追い、どんな戦後を生きていったかを今知ることには、きっと、意味がある。

じつはそれをよく知ることができる施設が九段下にある。戦傷病者を知るための施設、「しょうけい館」だ。正直、あまり知られていないだろう。展示内容はおどろくほど充実している。元兵士たちからの寄贈品など視覚的な資料とともに、190人超から聞き取りした証言ビデオも。国会図書館にも所蔵のない、ここにしかない資料もあった。

そもそも、どうして傷痍軍人に特化した国営施設があるのだろう。歴史的経緯がある。昭和27年、サンフランシスコ講和条約発効により日本が主権を回復したころ、元兵士たちの様々な動きが活発化。 いくつかの旧軍人団体もでき、翌年には、軍人恩給が復活している。
その時期生まれた団体のひとつに、日本傷痍軍人会(日傷)があった(昭和27年設立)。この会も、不遇だった傷痍軍人たちへの補償を求め続け、昭和38年にはついに戦傷病者特別援護法が成立。会は、1960年代初頭で35万人ほどの会員がいたという。
この人々が遺した次世代への置き土産が、この施設だったといっていい。厚生労働省が所管する国営の施設として、平成18年に開館した。

・・・自分も、子供の頃に傷痍軍人を見たという遠い記憶がある。時は昭和40年代前半だろうか、場所はおそらく浅草寺の境内の片隅。白い服を着た手や足のない人たち10人くらいの集団が、アコーディオンの物悲しい響きを奏でながら佇んでいた。やはり何だか怖かったという記憶が、自分にもある。

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2022年5月18日 (水)

「脱マスク」とナッシュ均衡

経済学のゲーム理論から見ると、「脱マスク」への移行はそう簡単ではないようだ。本日付日経新聞記事(「脱マスク」実現 経済学で考える)からメモする。

「同調圧力が強い日本では『みんなが着けている』から『みんなが外す』状態に移るのが難しい」。慶応大学でマーケットデザインを研究する粟野盛光教授は指摘する。現状は経済学のゲーム理論で「2つのナッシュ均衡が存在する状態」として説明できるという。

自分だけがマスクを外すことは風当たりが強い。他人がマスクを外しているのに自分だけマスクを着けても意味がない。こうした「自分だけが行動を変えても得しない状況」がナッシュ均衡だ。
新型コロナウイルス感染拡大期は「みんながマスクを着けている」状態が最適となって均衡した。それとは別に「みんながマスクを外している」状態での均衡もある。ゲーム理論では2つの近郊の移行が困難とされる。元に戻るには強いきっかけが必要というわけだ。

粟野氏は「まずはデータを科学的に示すことだ」、「もし『みんながマスクを外す』状態がデータで望ましいとなれば、人々の行動変容は進むだろう」と語る。
もう一つ、経済学者が口をそろえるのがメッセージの重要性だ。確立した習慣や同調圧力を覆すのは容易ではない。著名人や専門家が「マスクを外してもよい」とメッセージを発することで、人々の行動を変える。

「脱マスク」がいつ実現するのかは、まだ見通せない。科学的知見に基づく議論に加え、メッセージの発し方にも工夫がいる。

・・・ある行動が定着すると、そこから真逆の行動に転換するためには、納得できるデータや強いメッセージが必要になるのだろう。

「脱マスク」に似ているなと思われるのが、エスカレーターの「片側空け」。最近、各地の鉄道の駅ではエスカレーターの利用法について、「立ち止まって」とか「歩かないで」とか「手すりにつかまって」とか、標示やら自動音声やらで呼びかけているが、「片側空け」になっている場合がまだまだ多い。はっきりと「片側空け禁止」を言わない理由はよく分からないが、定着してしまった習慣を変えるためには、やはり強いメッセージを発する必要があるように思われる。

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2022年5月14日 (土)

「聖大公」ウォロディーミル1世

本日付日経新聞コラム記事「王の綽名」(作家・佐藤賢一)からメモする。

東スラヴ人の国家、キーウ公国のリューリク朝だが、始祖となったリューリクはノルマン人で、つまりはヴァイキングだった。最初は北方、バルト海から内陸に入るノブゴロドに拠点を構えたが、それを9世紀末、オレフ公のときに、ドニエプル河沿いを南に進んだキーウに移した。このキーウ公国、さらに大公国の最盛期をなしたのが、ウォロディーミル1世(在位978~1015年)である。

988年、大公は東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)バシレイオス2世に援軍を頼まれた。ウォロディーミルは、そのかわり皇帝のアンナと結婚したいと申し入れ、キリスト教徒になると告げて、クリミア半島にある皇帝の拠点、ケルソネソスで洗礼を受け、そのまま皇女アンナと結婚、意気揚々とキーウに戻ると、以後はキリスト教を国教にするとも宣言したのだ。

このキリスト教だが、ギリシャ正教である。キリスト教を受け入れたウォロディーミル1世のキーウ大公国は、西ヨーロッパにおけるフランク王国に相当する。5世紀と10世紀で時代は大きく違うが、歴史の流れに占める位置としては、始祖クロヴィスがカトリックの洗礼を受けたメロヴィング朝と、全く同じなのである。

これがゲルマン世界の本流なら、スラヴ世界の本流はキーウ大公国である。この国こそ現在のウクライナの原型であり、モスクワなど亜流にすぎない、ロシアなにするものぞといった気概も、俄かに頷けるものとなる。

ところが、ロシアの側にいわせると、ウォロディーミル1世の時代には、モスクワそのものがなかった。モスクワ公国の成立が、ようやく13世紀のことで、大公になったのが14世紀、これがロシア皇帝を称するのが15世紀なのである。聖大公は後に発展する全ての東スラブ人、ギリシャ正教を受け入れた全ての民のルーツなのだということで、名前も人気だが、ただロシア語では「ウラジーミル」になる。ロシア大統領プーチンの名前がウラジーミルな通りだ。が、これに断固立ち向かうウクライナ大統領、ゼレンスキーの名前もウォロディーミルなのだ。

・・・ロシアとウクライナは「兄弟国」と聞くと、大国ロシアが兄かと思うが、歴史から考えれば年長のウクライナが兄、ロシアは図体のデカい弟というところか。「同名」の大統領を戴く「兄弟国」の対決は、今のところ決着が見えない。

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2022年5月11日 (水)

ツイッターは有名人のツール

本日付日経新聞オピニオン面コラム記事(ツイッターは派手な「劇場」)から、以下にメモする。

米起業家のイーロン・マスク氏がツイッターを買収したとの発表に対する一部の反応をみると、マスク氏は世界そのものを買おうとしているかのように受け止められている。

ツイッターは世界そのものではない。一部のジャーナリストやマスク氏のような大人げない億万長者、言動が子供じみたトランプ前大統領などは取りつかれているようだが、大半の人はツイッターで起きていることをあまり気に留めていない。
ツイッターはフェイスブックやユーチューブと並ぶ、巨大ソーシャルプラットフォームだとみられているが、こうしたサイトはアクティブユーザーが数十億人いるのに対し、ツイッターは2億2900万人しかいない。その大半は投稿を閲覧するだけで発信しないユーザーだ。

マスク氏のみならず他の人も頻繁にツイッターを広場にたとえるが、これは間違いだ。
ツイッターでは地位がすべてだ。大多数の人のツイートは誰にも見られることはない。
実のところ、ツイッターは街の広場ではなく劇場だ。そこでは誰もが最大280文字の脚本を慎重にリハーサルし、見られていることを意識しながら観客に向けて演技する。これに対し観客は演技者にやじを飛ばす、あるいは直接話しかけることができる。

ツイッターで最も頻繁に発信するユーザーたちが、その未来をこれほど懸念する理由は、何年もかけて集めてきた注目を失いたくないからだ。俳優が名声を失いたくないように、ツイッターのユーザーも、注目と社会的地位を失いたくないというのが本音だ。

・・・ツイッターでは地位がすべて、という意見に同感。所詮ツイッターは有名人がやるもの、有名人が自分のファンに向けて発信するためのツールだろう。だからツイッターに関して「言論の自由」云々と言われても、それは有名人の言論の自由ということになるから、何だか付いていけない感じがするのである。

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2022年5月 9日 (月)

プーチンの戦争の行方

今日のロシアの「戦勝記念日」におけるプーチン大統領の演説では、「戦争状態」宣言など新たな展開を示す言葉は語られなかった。一方で、ウクライナとの戦争を止める気配も皆無。ということで現状ロシアの苦戦が伝えられる中、敗北を回避しつつ戦争を終わらせるために、ロシアが限定的に核兵器を使う可能性も消えていない。「文藝春秋」5月号掲載「徹底分析プーチンの軍事戦略」(小泉悠・東京大学先端科学技術研究センター専任講師)から、以下にメモする。

プーチンがウクライナでの戦争を簡単に終わらせるとは考えられません。現状、ウクライナへの全面侵攻によって、ロシアに何か特別な利益がもたらされたとは思えない。

こうなると従来は心理戦だと考えられてきたエスカレーション抑止戦略が、突如として現実味を帯びてくる。限定的に核を使用し、ロシアにとって有利な形で戦争を終わらせようとするのではないかという可能性が高まってきたのです。

※エスカレーション抑止:戦争に負けそうになったら、一発だけ限定的に核を使用する。その核の警告によって相手に戦争の継続を諦めさせる、あるいは、ロシアにとって受け入れ可能な条件で戦争を停止させることができると考える。

ロシアの限定核戦争にどう対応するかは、その時の指導者や国民の気分次第です。使用した場所がウクライナ域内だったとしても、アメリカがロシアの無人地帯に向けて、核での報復を行う可能性はあります。

そこから先は、不確実性に不確実性を積み重ねていく世界です。どこまでエスカレートするかは、神のみぞ知る。なにしろ核のボタンを握っているのはあのプーチンです。彼の精神状態が良くない方向に嵩じて行けば、全面核戦争に踏み込んでもおかしくはない。
仮に「ロシア対アメリカ・NATO」の全面核戦争に発展した場合、日本も無関係ではいられません。

ロシアの軍事思想を踏まえると、彼らは有事の際には、アクティブ・ディフェンス(攻撃的な防御)の構えをとる。攻撃を受ける前に敵の戦力発揮能力を破壊する行為が防御のうちに含まれているのです。となれば、ロシアは確実に日本の米軍基地を狙ってきます。つまり、このウクライナ戦争は日本にとって対岸の火事ではない。

日本も含めた国際社会に求められるのは、ロシアが核使用までエスカレートする前に、プーチンとゼレンスキーを交渉のテーブルにつかせること。プーチンの最低限のメンツを保ちつつ、かつウクライナの主権を奪われない形でなんとか話を妥結する必要があります。

・・・とにかく両国の大統領の会談が実現しなければ、戦争を終わらせて和平に向かうプロセスの入り口にも立てない。そして今のところ、その入り口すら遠くて見えない状況というほかはない。

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2022年5月 8日 (日)

カント哲学とラカン理論

近代ドイツ哲学の巨人カントと、現代フランス思想の大家ラカン。一見、何の繋がりもないように見えるが、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)によれば、二者の「認識論」には共通するものがあるという。以下に同書からメモする。

時代は18世紀末、カントは『純粋理性批判』において、哲学とは「世界がどういうものか」を解明するのではなく、「人間が世界をどう経験しているか」、「人間には世界がどう見えているか」を解明するものだ、と近代哲学の向きを定めました。

人間に認識されているものを「現象」と言います。現象を超えた、「世界がそれ自体としてどうであるか」はわからない。それ自体としての存在を、カントは「物自体」と呼びました。
人間はまず、いろんな刺激を「感性」で受け取って知覚し、それを「悟性」=概念を使って意味づける。この感性+悟性によって成り立っている現象の認識では、物自体は捉えていません。しかしそれでも物自体を目指そうとするのが「理性」である。感性、悟性、理性という三つが絡み合うのがカントOS(WindowsやMacOS) です。

ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語(あるいは記号)の領域で、この二つが合わさって認識を成り立たせている。ものがイメージとして知覚され(視聴覚的に、また触覚的に)、それが言語によって区別されるわけです。このことを認識と呼びましょう。第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えられない、つまり認識から逃れる領域です。この区別はカントの『純粋理性批判』に似ていないでしょうか。実はラカンの理論はカントOSの現代版と言えるものなのです(想像界→感性、象徴界→悟性、現実界→物自体という対応になっている)。

このようなX(捉えられない「本当のもの」)に牽引される構造について、日本の現代思想では「否定神学的」という言い方をします。否定神学とは、神を決して捉えられない絶対的なものとして、無限に遠いものとして否定的に定義するような神学です。我々は否定神学的なXを追い続けては失敗することを繰り返して生きているわけです。

ラカンにおける、現実界が認識から逃れ続けるということが、否定神学システムの一番明らかな例なのです。
カントまで遡るなら、否定神学的なXは「物自体」に相当すると言えます。
否定神学システムとは、事物「それ自体」に到達したくてもできない、という近代的有限性の別名なのです。

・・・カントとラカン、その認識論の構図は相似形であり、「否定神学的」アプローチも共有している。とりあえずラカンの例であるが、近代批判の色濃い現代思想といえども、近代哲学を承継している部分を見出すことができるというのは、とても面白いと感じる。

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2022年5月 7日 (土)

ディオニュソス対アポロン

講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)から、以下にメモする。

哲学とは長らく、世界に秩序を見出そうとすることでした。混乱つまり非理性を言祝ぐ挙措を哲学史において最初にはっきりと打ち出したのは、やはりニーチェだと思います。

『悲劇の誕生』(1872)という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、つまりヤバいもの、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。古代ギリシアにおいて秩序を志向するのは「アポロン的なもの」であり、他方、混乱=ヤバいものは「ディオニュソス的なもの」であるという二元論です。

ギリシアには酒の神であるディオニュソスを奉じる狂乱の祭があった。アポロン的なものというのは形式あるいはカタであって、そのなかにヤバい(ディオニュソス的)エネルギーが押し込められ、カタと溢れ出そうとするエネルギーとが拮抗し合うような状態になる。そのような拮抗の状態がギリシアの「悲劇」という芸術だ、というわけです。

この(アポロンとディオニュソスという対立の)図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。要するにかたちと素材ですね。かたちは秩序を付与するものであり、素材はそれを受け入れる変化可能なものです。この形相と質料の区別がアリストテレスにおいてまず理論化されました。あくまでも質料は形相の支配下にあります。

ところが、ずっと時代を飛ばしますが、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質料の側が、何か暴れ出すようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。

・・・ニーチェの「アポロンとディオニュソス」が、アリストテレスの「形相と質料」以来の哲学的伝統に連なる概念として位置づけられると共に、ニーチェにおいて秩序優位から非秩序優位への逆転が行われたとする著者の見方は、とても興味深いものに思われる。

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2022年5月 5日 (木)

ドゥルーズの元気になる思想

ポストモダンと言えば、批判的思想としてはとても魅力的だったけど、結局は相対主義に陥り建設的な思考は打ち出せないまま消えていった、という印象が強いかもしれない。それだけに、今改めてポストモダン思想を考える時には、そのポジティブな面を取り出すことが肝要なのではないかと思う。以下に、講談社現代新書『現代思想入門』(千葉雅也・著)からメモする。

ポストモダン思想、ポストモダニズムは、「目指すべき正しいものなんてない」、「すべては相対的だ」、という「相対主義」だとよく言われます。
確かに現代思想には相対主義的な面があります。ですが、そこには、他者に向き合ってその他者性=固有性を尊重するという倫理があるし、また、共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在しています。いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。

1980年代の日本では、べストセラーになった浅田彰『構造と力』の影響もあり、ドゥルーズ、およびドゥルーズ+ガタリが注目されました。
80年代、バブル期の日本におけるドゥルーズの紹介は、時代の雰囲気とマッチしていました。資本主義が可能にしていく新たな関係性を活用して、資本主義を内側から変えていくという可能性が言われた時代です。
有名な概念ですが、横につながっていく多方向的な関係性のことを、ドゥルーズ+ガタリは「リゾーム」と呼びました。

リゾームはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある。つまり、すべてがつながり合うと同時に、すべてが無関係でもありうる。
ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体性から逃れる自由な関係を言う場面がいろいろあって、自由な関係が増殖するのがクリエイティブであると言うのと同時に、その関係は自由であるからこそ全体化されず、つねに断片的でつくり替え可能であることが強調されます。全体性から逃れていく動きは「逃走線」と呼ばれます。

あらかじめ「これが最も正しい関係性のあり方だ」という答えが決まっているわけではありません。すべての関係性は生成変化の途上にあるのです。
そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。

ドゥルーズ+ガタリが考えているのは、ある種の芸術的、準芸術的な実践です。自分自身の生活のなかで独自の居場所となるような、自分独自の安定性を確保するための活動をいろいろ作り出していこう、と。いろんなことをやろうじゃないか、いろんなことをやっているうちにどうにかなるよ、というわけです。ドゥルーズ+ガタリの思想は、そのように楽観的で、人を行動へと後押ししてくれる思想なんです。

・・・1978年生まれの千葉先生は、難解な現代思想をきれいに整理していて、80年代に20代だった自分から見ても、当時訳の分からないまま丸飲みしていた言葉の意味するところについて、「そういうことだったのか」と教えられることが多い。本を読みながら、当時の浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とかドゥルーズ的な「逃走」、ラカン的な「最初に過剰があった」、あるいは岸田秀の「人間は本能が壊れた動物」とか思い出しました。

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2022年5月 4日 (水)

アトムよりも鉄人28号

今月の日経新聞「私の履歴書」執筆者はマンガ家の里中満智子。本日第4回の内容から以下にメモ。

7歳になるころ、書店で、好きな雑誌を選んでよいと言われたので、何冊かパラパラめくっていたら、創刊されたばかりの「なかよし」に載っていた「とんから谷物語」が目に入った。手塚治虫先生の連載である。ダム建設で故郷を追われる生き物たちを描いた漫画で、環境問題を扱った先進的な作品だ。当時の私には、美しい絵と物語だけでも十分に魅力的だった。

小学2年になると、貸本屋に通い始めた。ほぼ毎日雑誌か単行本を借りていた。
「あしたのジョー」のちばてつや先生や、「仮面ライダー」「サイボーグ009」などの石森(後に石ノ森に改名)章太郎先生も、はじめは少女漫画を描いておられ、私はリアルタイムで読んでいる。

ことに熱中したのは「鉄腕アトム」だ。後年、アニメでも大ヒットする手塚作品だが、私の記憶では連載当時、同級生男子には横山光輝先生の「鉄人28号」の方が人気があった。少年の操縦で巨大ロボットが敵を倒す痛快な物語に比べて、アトムは、くよくよ悩む。敵がなぜ悪者になったかを考え、背景にある人間の黒い欲望に気づく。敵に負けたり、人間にいじめられたりすることもある。
そんな姿に感情移入して「今月のアトム、泣けたよね~」と同級生男子に言っては、けげんな顔をされていた。彼らには、アトムは暗すぎたのだ。けれど私は「こんなとき、アトムならどうするか」と考えて行動を決めるほど思い入れが強かった。

・・・当時の男の子の鉄人人気は、自分も大いに頷けるものがある。自分も、アトムより鉄人の方が好きだった。その理由を考えたことはなかったが、里中さんの文を読んで、確かにアトムは暗いというか、少々鬱陶しい印象はあったかもしれないと思う。確かアトムに「ロミオとジュリエット」を下敷きにした話があって、それを子供の頃読んだ時、結末部分で何とも得体の知れない気持ち悪さを感じたことを覚えている。その一方で、「地上最大のロボット」(プルートウ!)は、わくわくぞくぞくしながら読んでいた。実際、人気作品だったらしいので、たぶん男の子は、この話が大好きだったんじゃないだろうか。

里中さんが熱中したことを考えると、確かにアトムには少女漫画テイストが結構含まれていたのかも、と思ったりする。

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2022年5月 3日 (火)

映画「気狂いピエロ」

ジャン=リュック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」が、リバイバル上映中。主演はジャン=ポール・ベルモンド。なので、昨年死去したベルモンドの追悼上映、らしい。自分がこの映画を観たのは1983年のリバイバル上映。ラストシーンが強烈だった。それ以外は覚えていない(苦笑)。今回、39年ぶりに鑑賞。

お話は掴みどころのない、とりとめのない展開だし、リアリズムで映像を作っているわけでもなく、基本、引用だらけの独白小説ならぬ独白的映画。とりあえずベルモンドのしなやかな身のこなしと、アンナ・カリーナの思わせぶりな眼差しにより、映画として成立している。のか。
結局やっぱりラストシーンが強烈。しかし最後のランボーの詩の訳が昔と違うような・・・「太陽と共に去った海」?・・・記憶にあったのは小林秀雄訳の「海と溶け合う太陽」なのだが・・・。900円を出して買ったパンフレットに、その辺の事情が書いてあった。やっぱりお金を出さないと得られない情報もある。

パンフレットに載っていたのは、翻訳字幕を作った寺尾次郎氏(1955-2018)が書き遺した話。それによれば、ラストシーンで語られるランボーの詩は「地獄の季節」の一節ではない。新訳を手掛けた時に、寺尾氏は「発見」したという。以下にパンフレット掲載文からメモする。

『気狂いピエロ』の、あまりにも有名なラストシーンに2人が語るランボーの「地獄の季節」の一節、「また見つかった/何が/永遠が/太陽と共に去った海が」。映画で引用されたこの詩が、「地獄の季節」(1873年)の中の「ことばの錬金術」とは異なる異句(題名は「飢餓」)であることを、恥ずかしながら初めて気づいた。僕が当時見た字幕の記憶では「海と溶け合う太陽」という「地獄の季節」の小林秀雄訳に近いものだったと思うのだが、今回、翻訳し始めて原文が違うので調べたところ、なんとランボーがその1年前の1872年に書いた「永遠」という詩のほうだった。

・・・うーん、そうなのか。しかし「地獄の季節」ではないと言われても、何かビミョーな気分。小林秀雄訳がカッコイイせいからか。やっぱり「海と溶け合う太陽」で良いような気がしてしまう。(苦笑)

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