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2021年5月31日 (月)

人生を意味あるものにする

世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(ハーパーコリンズ・ジャパン発行)は、書名は何だか北欧ファン向けの読み物っぽいが、内容は、著者であるフィンランド出身の哲学者、フランク・マルテラが人生の意味を考察する「哲学書」。以下は自分なりの内容まとめ。

自分はただ、偶然にこの世界に生まれただけで、生きていることに特別な意味など何もない。人間の人生は、この広い宇宙の中では本質的に何の価値もないのだと気づいてしまったら、後戻りはできない。

かつては、人生を賭けるに値するような目的があると思えたのだが、今では幸福が人生の最大の目的となった。「今を楽しく生きる」という考えは、もはや強迫観念に近い。ただ困ったことに幸福は結局、単なる感情だ。人生に永続的な意味を与えてくれるものではない。

西洋哲学においては、1000年以上にわたり「人間の目的とは何か」が問われてきた。古代から中世までの哲学者たちは、人間の目的や根本的な存在理由を探求した。しかし科学的世界観の普及と共に、その問いは重要でなくなった。代わって「人生の意味とは何か」という問いが始まった。

「人生に意味はあるのか」と問う時、人は普遍的な意味、つまりあらゆる人の人生に共通する意味を知りたいと思っている。だが、人生にはもう1つの「意味」がある。それはもっと個人的な意味だ。自分の人生を「意義深い」と感じさせてくれるもののことである。自分が今、何に、どうすることに価値を感じているかを知り、常に新しく何かを学び、さらに成長を目指す。それこそが、意味のある人生を歩む道だろう。

人生そのものに普遍的な意味はないが、一人ひとりが自分の人生を意味深いものにすることはできる。そのためには、自分の存在を他人にとって意味あるものにする必要がある。自分の存在が他人にとって意味があると感じられた時、私たちは自分の人生に価値を見出すことができる。

他人とのつながりも大切だが、同じくらい自分自身とのつながりも大切だ。自分自身とつながる、というのは、自分自身の選んだとおりに生きる、自分自身で選んだ行動を取るということだ。自分に正直になり、自分の価値観や関心に従うことが、真に活き活きと生きることにつながる。

人生を意味にあるものにする方法は2つ。1つは他者とつながること、もう1つは自分自身とつながることだ。自分自身とつながるとは、自分らしく生き、能力を高めることである。他者とつながるとは、他者と緊密な関係を築き、その人に良い貢献をすることだ。大切なのは、たとえ今、どこで何をしていたとしても、自分に正直でいること、自分の価値観、関心に忠実でいること、他者と良い関係を築くことだ。それが人生に意味を与えてくれる。

普遍的な人生の意味を考えるのではなく、自分自身の人生に個人的な意味を与えることを考える。自分の人生を――そして愛する人たちの人生を――どうすればより意味深いものにできるかだけを考える。単純すぎるようだが、意味ある人生を送るにはそれ以外に方法がない。

・・・誰にでも当てはまる人生の意味は無い。しかしあなたにはあなたの、私には私の、人生の意味がある(だろう)。かつては、宗教や共同体が人間に人生の意味を与えていたかも知れない。しかし今や人間は宗教や共同体から解放されているので、人生の意味をそこから受け取ることは望めない。良くも悪くも自由になった人間は、何だかんだ言っても実存的に生きるほかない。だから、自分の人生の意味も自分で設定するしかない。そこで忘れてはいけないのは、おそらく人間は自分だけのために生きていくようにはできていない、ことだ・・・こんな具合につらつら思う私は、マルテラ先生の言うことに概ね同意するものです。

付け加えると、この本の最初と最後にカミュの言葉が置かれているのは、自分的には至極当然に思えた。このテーマを率直に語る際に援用される作家として、おそらくカミュほど相応しい人物はいないだろう。

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2021年5月30日 (日)

フィンランドはヘヴィ・メタルの国

世界一しあわせなフィンランド人は、幸福を追い求めない』(ハーパーコリンズ・ジャパン発行)は、書名は何だか北欧ファン向けの読み物っぽいが、内容は「哲学書」。著者のフランク・マルテラは、フィンランド出身の哲学者なのだ。同書の中にエピソード的部分として、フィンランドとヘヴィ・メタル音楽の関係についての考察がある。北欧の国々、特にフィンランドは幸福度(生活の満足度)が高いことで知られるが、幸福感はそれ程強くないという。そんなフィンランドでヘヴィ・メタルの人気が高いのはなぜか。以下にメモしてみる。

幸福というのは、生活に満足すれば得られるものではない。幸福というのはあくまで感情だからだ。生活への満足度ではなく、国民の持つ感情で幸福度を計ると、フィンランドはトップから遠い位置にまで下がってしまう。(なにしろフィンランド人というのは、感情をあまり表に出さないことで有名だ)

ヘヴィ・メタルは総じて言えば評判の良い音楽ではない。しかし、フィンランドでは事情が違う。冬が暗く寒いことで知られるファンランドには、人口1人あたりにすると、地球上のどの国よりも数多くのヘヴィ・メタル・バンドが存在している――10万人あたり63のバンドがある計算になる。ファインランドでは、ヘヴィ・メタルが音楽の王である。フィンランドで史上おそらく最も人気があったバンドは、チルドレン・オブ・ボドムだろう。

フィンランドの人たちの幸福にヘヴィ・メタル音楽が重要な役割を果たしていることは見過ごせない。普段控えめでつつましく、それに誇りを持っているフィンランドの人たちにとって、ヘヴィ・メタルは精神を解放し、浄化する作用を果たしているようにみえる。大声で叫ぶことで、抑えつけられていた負の感情を外に出すことができる。カタルシスが得られるということだ。

負の感情を表に出すことを許容せず、それを抑圧するような文化は健全とは言えないし、人々の感情に必ず悪影響をおよぼす。あらゆる感情をいつもなんらかの方法で表に出せることが重要だ。ヘヴィ・メタル音楽は感情を表に出すための良い手段になっていると言える。

・・・まあ簡単にいうとヘヴィ・メタルでストレス解消ってことになるけど、ムーミンの一方にメタルがあると思うと、フィンランドも不思議の国ではある。

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2021年5月26日 (水)

バブル崩壊のトラウマの無い世代

昨日25日付日経新聞市況面コラム「大機小機」の表題は「トラウマを知らない子供たち」。その昔、「戦争を知らない子供たち」という歌があったなぁ、と思いつつ、以下にメモする。

日本の個人金融資産は2020年末に1948兆円に達し、2000兆円到達も目の前だ。一方、日本の家計の金融資産の54%は現預金、しかも円で保有され、欧米のようにリスク資産に分散された状況と大きく異なる。
しかしこうした状況は、1990年前後のバブル崩壊を機に、資産デフレと円高のダブルパンチが加わった中での必然でもあった。
こうしたバブル崩壊以降の負の体験、いわゆるトラウマが四半世紀近く続いたなか、リスクテイクを行うことを恐れる世代が生じたのも無理もないことだ。

一方、実質的にアベノミクスが始まった12年末以降の8年間の局面で、為替は1ドル70円台から100円台後半の水準に定着し、株式市場も日経平均が1万円割れから2万円台後半の水準に達した。
今日、20歳代の若者は社会人になって以降、アベノミクス相場の資産運用で成功体験しかない。同様に30歳代も金融危機以降に社会人になり、比較的トラウマは少ない。
これらの「トラウマを知らない子供たち」は、それ以前の世代と異なることを認識する必要がある。こうした世代が昨今、ネット証券を中心として口座を急増させているのだ。
トラウマを持たず、かつパソコンやインターネットに囲まれて育った「デジタルネーティブ」の若者世代の台頭が起点となって、日本でも貯蓄から投資への流れが生じていく可能性を秘めている。

・・・90年代バブル崩壊の「トラウマ」。確かに90年代の記憶のある者と、アベノミクス以降しか知らない若い世代とは、株相場に対する世界観はおそらくまるで違うだろう。過去を知らないというのは、それはそれで強みであると捉えることもできる。が、果たして「トラウマを知らない子供たち」は、新しい時代を開くことになるのだろうか。思い出すのは80年代バブル相場初期の株価高騰も、若い世代の機関投資家が主役の「新人類相場」と呼ばれていた。昨今の「デジタルネーティブ」の若い投資家たちも、昨年の「コロナ暴落」からの急回復を経験して、まだまだ意気盛んと思われる。その一方では、老後2000万円必要という意識から、相場変動に負けない長期積立分散投資に地道に取り組む若い人たちも増えているようだ。こういう若い人たちが、貯蓄から投資への流れ、その本流になっていくことが期待される。

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2021年5月19日 (水)

西洋と東洋、敵対か共存か

西洋(欧州)と東洋(中東)の関係、それは敵対の歴史か共存の歴史か。本日付日経新聞の経済教室「共生へ相互依存 再認識を」(ヤーッコ・ハメーンアンッティラ教授)からメモする。

欧州、キリスト教、西洋。対して中東、イスラム教、東洋。これまで西洋人は、西洋は東洋と異なると信じることで自らを定義してきた。イスラム側も同様だ。
西洋と東洋は、互いに敵意を抱いてきたという根深い信念を持つ。なぜなら自分ではなく相手が攻撃的だからだ。こうした見方には欠陥がある。地中海周辺の文明を形成してきた平和的な交流の大きさと深みを軽視していることだ。

地中海周辺の文化を千年単位で眺めると、相互に依存する文化圏という全く異なる姿が浮かび上がる。
大まかに述べると、地中海文明は紀元前3000年ごろ、メソポタミアとエジプトで始まった。紀元前6世紀になると、メソポタミアとエジプトの文明は停滞期に入り新たな民族が台頭した。ギリシャで驚異的な文化が発展し始めたのも、ギリシャ人がメソポタミアとエジプトから刺激を受けたからだ。
ギリシャ文化は1000年以上にわたり地中海文化の主役であり続けた。次の文化的な変化が起きたのは7世紀の第2四半期以降、アラブ人がおよそ100年の間にインド北部からスペインまでの国々を征服したときだ。

アラブとペルシャの学者は、ギリシャの哲学・科学文献をアラビア語に翻訳した。アリストテレス、ガレノス、プトレマイオス、ヒポクラテスは、アラブ・イスラム文化の驚異的な発展を後押ししたのだ。およそ850年から1250年にかけてアラブ・イスラムの科学は栄華を誇り、様々な地域に多大な影響を及ぼした。

西欧がこの科学の恩恵を受けるようになったのは、特に1100年以降のことだ。アラビア語文献のラテン語や現地語への翻訳が、トレドをはじめとするスペインや、後には欧州の他の地域の学者により進められた。アラビア語の文献の一部はギリシャ語から翻訳されたものだったが、欧州に帰ってきたのはギリシャの科学だけではなかった。
アラブ人が欧州に伝えたアラビア数字と製紙技術という画期的なイノベーション(技術革新)がなければ、ルネサンスは実現しなかっただろう。

・・・このような歴史の流れを踏まえて、教授は「西洋と東洋の共生こそが、われわれの語るべき大きな物語だろう。俯瞰的にみれば、大きな物語を支配するのは平和と相互依存であり、戦争と敵意は例外的な出来事にすぎない」と述べる。

自分的には教授の考えに異存はない・・・のだが、東洋の端っこ、極東の日本から見れば西洋も中東も同じ一神教文明で、どっちも攻撃的に見える。(苦笑)

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2021年5月15日 (土)

丸子城へ行く

今日は静岡県にある丸子城(まりこじょう)を訪ねた。移動の制限というか自粛というか、いろいろ動きにくい御時世ではあるが、今年は梅雨入りが早いとの話もあり、やっぱり気候のいい今のうちにお出かけしたいよなあ。(言いわけ?)

静岡駅北口バス乗り場7番から藤枝駅行バスに乗りおよそ30分、「吐月峰駿府宿入口」で下車。そこから5分程歩いたところに登山口がある。細い道は階段状に設えてはあるが結構急な上りになる。城の入り口に着くまで15~20分程度なので、そんなに長い時間はかからないにしても、なるほど山城は体を使わないと辿り着かないのだと実感する・・・のはいつものこと。
写真は上から、北曲輪、堀切(二の曲輪と本曲輪の間)、本曲輪(本丸)、本曲輪の案内板。

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『戦国の山城を極める』(学研プラス、2019年発行)では、丸子城について加藤理文先生が解説。城が今の形になった時期について、以下のような説明がある。

丸子城は、武田系山城の水準の高さを示す好例である。武田氏の後、城の支配者は徳川氏に移るが、武田時代から徳川時代を通じて、駿府へ至る街道を押さえる役割を担っていたことは間違いない。
羽柴秀吉と並ぶ実力を保持した徳川家康は、上方からの侵入を想定し、領内の街道筋の諸城の整備改修を進めた。丸子城の改修も、駿府城の西側防備の要として実施されたのである。改修年代は、家康が豊臣支配下に入る以前、天正10年から14年(1582~86)までのことになると考えられる。

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