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2020年12月31日 (木)

株式相場「よもや、よもや」の2020年

2020年の株式相場が終わった。春先よもやのコロナ大暴落、そこからよもやの年末高。大ヒットアニメ「鬼滅の刃」に出てくる鬼狩り剣士、煉獄さんのセリフじゃないけど、まさに「よもや、よもやだ」というほかない激変相場だった。

12月30日大納会の日経平均株価は2万7444円で終了。年間ベースで2年連続上昇し、年末終値としては1989年末3万8915円(史上最高値)以来の高値。今年3月安値と12月高値の差は1万1015円。この値幅も1990年の1万8491円以来、30年ぶりの大きさという。

本日付日経新聞の記事によれば、東証1部上場銘柄のうち上昇したのは4割に止まる。今年は春先のコロナ暴落以降の対処について、投資家は悩ましくも難しい判断を迫られたと思うが、結局は単純に日経平均のインデックスを買っていればオッケーだったという、何とも拍子抜けするような後悔を感じる展開だった。

株価は30年ぶりの水準とはいうものの、本日の日経記事にもあるように、30年間日本株相場を見てきた者には、結局日本株は景気循環の中で上げ下げするだけ、というイメージが拭い難くあるのも確か。さらに今はいわゆる超金融緩和相場ということもあり、景気や企業業績の実態から株価は大きく乖離している、と言われれば否定できない。

そんなことで上昇相場の持続性には懐疑的になってしまうのだが、じゃあ今の日本株はバブルなのかというと、人々の株に対する関心度から見れば、80年代後半バブル当時の財テク(死語)ブームの熱狂からは程遠いとしか言いようがない。当時の日本経済は世界最強という自信に満ち溢れていた。対して今の日本経済は、どっちかといえば衰退イメージが優勢だろう。今の日本株は金融緩和にも支援されて、稼ぐ力のある銘柄の集中買いにより相場全体を引っ張り上げているような感じである。

来年2021年は株価3万円という声もある。金融緩和政策は基本的に続くとして、今年上がらなかった6割の銘柄が、来年どれくらい評価を上げられるか。日経記事にもあるように配当利回りの改善など、とにかく日本株が長期投資の対象となることができれば3万円、さらにはその先の史上最高値の更新も視野に入ってくるのだろう。

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2020年12月20日 (日)

関ヶ原の西軍、幻の決戦計画

昨日19日夜のNHKBSプレミアム「決戦!関ヶ原」は、最近見直しの動きが盛んな関ヶ原合戦について、いろいろ考えるネタを提供してくれる番組だった。副題に「空からのスクープ 幻の巨大山城」とあるように、航空レーザー測量という方法を使い、樹木を取り払った姿で地形そのものを写し取る「赤色立体地図」により、関ヶ原周辺にある山城の全体像を把握。その結果、西軍の幻の決戦計画が見えてきた、というのが番組内容の骨子。専門家は小和田哲男先生、千田嘉博先生、外岡慎一郎先生がスタジオ出演。

「幻の巨大山城」の名は玉城といい、関ヶ原の西に位置している。今回その全貌がCG再現されると共に、西軍総大将である毛利輝元、さらには天下人である豊臣秀頼を迎え入れるための城だったのではないか、という見方が千田先生から示されていた。

(この玉城は、自分が最近目にした出版物では『歴史REAL 関ヶ原』(洋泉社MOOK、2017年)の中で、「玉の城山」という名称で紹介されている。同誌には城の縄張り図も掲載されており、大津城攻めや丹後田辺城攻めの軍勢の合流など、西軍大集結を想定した陣城とされている)

番組では、決戦当日の西軍の布陣についても、西から順に、玉城に石田三成が入り、松尾山の麓で大谷吉継が小早川秀秋の裏切りに備え、さらに南宮山の毛利勢が関ヶ原入り口で東軍を牽制する配置を提示。しかし毛利が敵の大軍との衝突を回避したため、東軍はやすやすと中山道を西に進み、決戦当日の朝、まず最前線にいた大谷を攻め、間もなく小早川も裏切り、その後西軍は壊滅したという。

・・・のだが、もし玉城に西軍主力(石田、小西、宇喜多、島津)が入っていたとしたら、戦いが半日で終わることはなかっただろう。三成は三河尾張国境、岐阜、大垣と、いくつかの防衛ラインを想定して戦略を立てていたという。だから決戦前日に大垣城から関ヶ原方面へ移動したのも、あらかじめ防衛拠点として築いていた玉城を目指していたと考えてもおかしくはない。でも戦いが短時間で終わったことから見ると、結局のところ玉城に達する手前の山中地区で、東軍の急襲を受けて西軍は崩壊したというのが、番組を見終わった後の自分のとりあえずのイメージ。つまり玉城は築かれたものの使われなかった城、だから文献にも出てこない「幻の城」になってしまった。という「残念な城」、かな。

番組では、白峰旬先生もビデオ出演して、史料から西軍は山中地区にある玉城に上ったと解釈できるとコメントしていた。でもそうなると、白峰先生が自説の根拠としている島津家の覚書(合戦の回想録)と話が違ってくるんじゃないかなあと思ったりして、番組内容に意図的に寄せたコメントではないかと感じる。
また、小和田先生は笹尾山は石田陣と見てよいとコメント。立体地図に陣跡が見当たらないのは、急いで布陣したからだと述べていた。まあ小和田先生も新しくできた関ケ原古戦場記念館の館長だしなあ。従来ストーリーを簡単には否定できない立場からの、ポジショントークのようにも聞こえてしまう。(苦笑)

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2020年12月19日 (土)

欧米人の「マスク拒否症」

日本の新型コロナウイルス感染者数が比較的少ないのは結局、みんな大人しくマスクをしてるから、ということになるのかな。『世界のニュースを日本人は何も知らない2』(谷本真由美・著、ワニブックスPLUS新書)から以下にメモ。

日本人にはもともと「マスクをする」という習慣があり、インフルエンザが流行る時期や花粉症の季節にはマスクをする人が街中に溢れます。
ところが海外は違います。台湾や中国では、マスクはめずらしくありませんが、アメリカや欧州、オセアニアでは、マスクは真っ向から否定されていて、身につける習慣があるのは医療関係者だけでした。
彼らにはもともとマスクをつける習慣がありませんから、新型コロナで死者が大量に出ても、マスク着用を頑固に否定する国が多かったのです。

そもそも、彼らはマスクに対して大変な抵抗感があるのです。なぜかというと、「マスクをする人=異常な病気にかかった人」というイメージがあるからです。
さらに、マスクは弱者は病気の象徴であり、目にするだけで不気味だという考え方もあります。
英語圏の映画やドラマなどを観ると、口元を隠しているのは悪役や異常な行動をする人など、要するにヤバいキャラばかりです。
なぜ口元を隠すことがヤバい人の象徴なのか? それは他人と話すとき、英語圏の人々は相手の口元を見て、その人の感情や心を読みとっているからです。ですから口を隠すということは「自分の本心を隠す」ということ。

マスク騒動でわかるのが、一見合理的にみえる欧米の人々でも、実は日本人以上に科学を軽視し習慣や因習にとらわれる側面がある、ということです。

・・・自分も、マスク好きなど日本人の清潔感覚は度を過ぎていると思うこともあるのだが、その感覚が有利に働いたということであれば、今回のコロナ騒動では日本人でよかったという感じだ。

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2020年12月15日 (火)

「岸見哲学」の幸福論

大ベストセラー『嫌われる勇気』の著者、岸見一郎先生の新刊、『これからの哲学入門 未来を捨てて生きよ』(幻冬舎)から以下にメモする。

生きる目標は何か。それは端的にいえば、幸福であることです。

どんな時に仕事をしていて楽しく感じられるのかといえば、自分が仕事によって他者に貢献していると思える時です。

他者に貢献していると思えればこそ、生きがいを感じることができます。人は仕事をするために働いているのではなく、生きるために働くというのは、仕事をすることで生きがいを感じられるということであり、生きがいを感じられることができればこそ幸福に生きることができるのです。

どんな時に人は自分に価値があると思えるかといえば、自分が何らかの仕方で他者に貢献していると感じられる時です。ただし、仕事をすることによってしか貢献できないわけではありません。
子どもがただ生きているだけでまわりの人に幸福を与えられるように、私たちもまた生きていることで他者に貢献し、幸福を与えることができる。そう考えていけないわけはないのです。

人生の目標を成功ではなく幸福に据えなければなりません。人は未来に何かを達成するかどうかに関係なく、「今ここ」で幸福であることができます。このことに気づく人が増えれば、世界は大きく変わり始めるでしょう。

・・・人生の目標は成功ではなく幸福である。幸福とは他者に貢献できることである。そして貢献の仕方は仕事だけではない。生きているだけでも他者に貢献できる。すなわち生きているだけで幸福である。

ということらしいのだが、とりあえず「貢献」のレベル感は、どれくらいなのかなと思う。まあ子どもは生きているだけで人を幸福にするかもしれないが、大人はそうはいかないような。日々の生活の中で、人に貢献しているという実感を持てるかというと、自分的にはなかなか難しいという感じがします。

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2020年12月14日 (月)

「社会主義」の可能性

いまこそ「社会主義」』(朝日新書)は、池上彰と的場昭弘、ジャーナリストと哲学者の対談本。以下に的場先生の発言からメモする。

社会主義の挫折というときに、ついソ連のような共産党一党独裁タイプの社会主義、つまり国家主義的な社会主義の失敗を想起しがちですが、そうではない社会主義もあったということを忘れてはいけない。
別の社会主義、つまり、民主主義を前提にして、人々の自由な運営によって実現しようという社会主義もありました。プルードンはアナキスト(無政府主義者)と紹介されることが多いのですが、人々の自由な運営を重視した社会主義者でもありました。

19世紀に国家主義的な社会主義の思想が誕生した理由は、資本主義は無政府的で、貧富の格差を増大させ、貧困層はなくならない、という認識があったからです。国家が介入すれば、それをなくせる、と考えたわけです。

資本主義と比較して社会主義に大きな欠点があるとすれば、どうしてもドグマ(教義)というのがあって、そのドグマが権威を生み、それがさまざまな発展を止めてしまう傾向がある。
資本主義は、私たちの現実の暮らしのなかから出てきて、理論はあとから付けられたものです。社会主義は現実に存在しなかったので、頭の中で考え出されたがゆえに、極めて理論的な側面がある。原理・原則主義があって、それが破られないように政府が規制していく。そして、私たちの自由な発想が削がれていく。問題は、その部分です。
自由を担保した社会主義を、どうやってつくっていくかが課題となります。

・・・「極めて理論的」であるがゆえに、社会主義は「観念論」に陥りやすいのだと思われる。マルクスはヘーゲルの歴史哲学を観念論的倒錯である、つまり現実認識としておかしいと批判したのだが、マルクス主義もまた結局「観念論」だったというのは実に皮肉な感じがする。実際、社会主義国家や計画経済は失敗に終わった。簡単に言って人間は自由を求めるからだ。しかし自由な資本主義は格差を生む。その格差を是正するための再分配は国家が行う。ということで、平等を志向する社会主義は、国家主義に傾きやすい面もあると思われる。では、国家主義でない社会主義は現実に可能か。的場先生は、民主主義的な合意に基づく地方分権型社会主義を構想する。格差と分断が世界を覆う中で、社会主義の可能性を改めて追求する様々な試みが現われてくるのかも知れない。

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2020年12月10日 (木)

ステークホルダー資本主義

米地域社会や従業員など全ての利害関係者に配慮する「ステークホルダー資本主義」が、世界的な潮流になりつつあるという。本日付日経新聞経済面掲載の、マーティン・リプトン弁護士のインタビュー記事から以下にメモする。(企業法務の大家であるリプトン氏は長年、「短期的な株主利益の追求(株主第一主義)」からの脱却を訴えてきた)

米経営者団体『ビジネス・ラウンドテーブル』が2019年8月に株主第一主義からステークホルダー資本主義に転換した。短期的な利益の追求が格差や社会不安を生んだ。あらゆるステークホルダーの利益に配慮した経営が資本主義を守る、との認識が広がり、実際の行動につながっている。

私が考えるステークホルダー資本主義とは、個々の利害関係者を等しく扱うのではなく、株主価値の最大化を目指すなかで、従業員や顧客、取引先、環境、地域社会に配慮する経営だ。企業と主要株主が合意して、持続可能な成長戦略を進める必要がある。

企業があらゆるステークホルダーに利益をもたらそうとする動きについては、政府は(情報開示ルールなど)基本的な指針を定めるだけにとどめ、実際の行動は当事者に委ねるべきだ。
ただステークホルダー主義のあらゆる側面を包含した開示基準を作るのは難しい。気候変動問題や人材の活用、経営者の報酬など個別事案ごとに企業の行動を見ていくべきだ。

・・・ステークホルダー資本主義は、株主を含む全てのステークホルダーを等しく扱うわけではない。企業経営の基本はあくまで、株主価値の最大化である。これが行き過ぎて様々な弊害を生んだのが、短期的な利益極大化を目指す株主第一主義。これに代わるものがステークホルダー資本主義及び企業経営ということで、そのコーポレート・ガバナンスは、あらゆるステークホルダーに配慮しつつ、中長期的な企業価値の向上を目指す。とはいうものの、そんなことができる企業は、いわば余裕のある企業なので、数もそんなに多くはないだろうな。

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2020年12月 9日 (水)

米国の経済格差と政治的分断

本日付日経新聞総合面コラム記事「真相深層」(米、経済格差で思想極端に)から、以下にメモ。

米国の分断をあらわにした大統領選から1カ月あまり。
大統領選の一般投票でバイデン氏は初の8000万票を集めたが、トランプ票も約7400万票と歴史的な水準だ。
政敵を露骨に罵るトランプ大統領。これに乗る左右のメディア、そしてSNS(交流サイト)。分断の原因はさまざまだが、構造的な要因は経済の格差だ。

最近ではダラス連銀の研究者らが「経済格差と政治の分断には明確な因果関係がある」と結論。そこでは以下のような力学が働いたという。
▶格差で米国の共同体としての意識が低下し、政治の分断が加速
▶政治の分断で政策が停滞し、格差に拍車
▶力をもつ富裕層が自らに有利な制度変更を働きかけ、格差を増幅

一方、格差そのものより格差が心理に及ぼす影響に注目するのが、ノースカロライナ大のキース・ペイン教授だ。人は常に自分と他者を比べ、下位に置かれると憤り、極端な考えを宿す。疎外感を抱く人々は、人生に意味を見いだそうと宗教や政治信条に深入りする。保守、リベラルの人とも元の立場がより極端になり、反対側の人々への敵対心を強めるという。
まさに米政治の縮図。トランプ大統領は格差が生んだこうした社会心理に便乗し、旋風を巻き起こしたともいえる。
「青い州(民主党支持)も赤い州(共和党支持)もない。われわれは合衆国だ」。バイデン氏はそう融和を呼びかけるが、それには経済格差と国民の意識の両面で対応が求められる。

・・・コラム記事は最後に、米国社会には深い亀裂が残っているだけに、再び「トランプ的」なポピュリズムが勢いづかないとも限らない、と結んでいる。今の世界では米国に限らず、あちこちの国で経済的格差が政治的分断を増幅し、ポピュリズムが跋扈している。この状況を克服するためには、良くも悪くも「社会主義」的な発想や政策が、改めて強く求められるのかもしれない。

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2020年12月 6日 (日)

上弦の鬼「童磨」に関する雑感

大ヒット漫画『鬼滅の刃』、12月4日の単行本第23巻発売で全巻完結。当日は新聞5紙に登場キャラの全面広告が入り、まさに「鬼滅の日」の様相だった。

公開中のアニメ映画の興行収入も11月末で275億円となり、300億円超えも時間の問題に。しかし「ドラえもん」ならともかく、決して万人向けの内容とは思えない「鬼滅」を観るために、老若男女が映画館に押し寄せる事態を見聞きすると、自分のようなただのおじさんは、ただただ訝しい気持ちになる。しかし、その万人向けとは言えない「鬼滅」のストーリーやキャラについては、どういうところからこういうこと(大正時代の鬼とか鬼狩り剣士とか)が考え出せるのか、作者の頭の中は一体どうなっているのかと、ただただ驚き感心するほかない。

そんな奇想天外な「鬼滅」に登場するキャラの中でも、「上弦」と呼ばれる最強クラスの鬼のひとり、「童磨」の個性は際立っている。他の鬼の外見は当たり前のように化け物だが、童磨の見た目はほぼほぼ人間。しかもその言動は何ともチャラい鬼なのだ。人間界では新興宗教の教祖として振舞っているのも、風変りな有り様である。

他の鬼は、人間だった時の怨念や復讐心など超ネガティブな感情から鬼へと化したのに、童磨にはそういった過去は無いように見受けられる。童磨が20歳の時に鬼になることを決心した理由は作品には描かれていないが、それでも作中には童磨のこんなセリフがある。「俺は“万世極楽教”の教祖なんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。誰もが皆死ぬのを怖がるから。だから俺が喰べてあげてる。俺と共に生きていくんだ。永遠の時を。」
童磨は、鬼となった自分に食べられることによって信者は永遠に生きる、つまり救われることになる、という考え方を持っている。おそらくは、そんな歪んだ「使命感」から、童磨は鬼となる道を選んだと考えてよいのだろう。

教祖様である童磨の人間観は、ちょっと上から目線でもあるが、妙にリアルである。作中にこんなセリフがある。
「神も仏も存在しない。死んだら無になるだけ。何も感じなくなるだけ。心臓が止まり脳も止まり腐って土に還るだけ。生き物である以上須らくそうなる。(人間は)こんな単純なことも受け入れられないんだね。頭が悪いとつらいよね。」
「この世界には天国も地獄も存在しない。無いんだよそんなものは。人間による空想。作り話なんだよ。どうしてかわかる? 現実では真っ当に善良に生きてる人間でも理不尽な目に遭うし。悪人がのさばって面白おかしく生きていて甘い汁を啜っているからだよ。天罰はくだらない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって。そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ? つくづく思う。人間って気の毒だよねえ。」

理不尽極まりない現実から目を背けて、しょうもない物語を作って自らを慰めるのは、弱者のルサンチマンの現われでしかない。鬼の多くはパワーやフィジカルの強さを追求するが、童磨は現実を直視できる精神の強さを体現する鬼であり、そこが他の鬼と一線を画する(というか童磨にとって肝心なのは「強い弱い」ではなく、頭の「良い悪い」らしい)ところだろう。また童磨は人間的な感情を実感していない。なるほど人間の感情とは様々な思い込みから発するものであり、それもまた現実を受け入れられない人間の愚かさの現われであるとすれば、現実を直視する強さを持つ童磨が、人間的感情と無縁であるのも道理なのである。

一方で童磨が、自分に立ち向かってくる鬼殺隊剣士・胡蝶しのぶの健闘を称えて放つ言葉には、やや意外感もある。「全部全部無駄だというのにやり抜く愚かさ!  これが人間の儚さ人間の素晴らしさなんだよ!」
ここで童磨が肯定している人間の「愚かさ」とは、実は「強さ」と言い換えてもよい。しのぶの思い「できるできないじゃない。やらなきゃならないことがある。」は、できなければ全部無駄になるかもしれないという現実を超えて、人間には、やると決めたことをやる意思の強さがあることの表明である。感情という「愚かさ」から自由になれる人間などいないが、現実を超えようとする人間の意思の強さは尊いものだと言えるだろう。

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2020年12月 1日 (火)

EU危機とポピュリズム台頭

民間エコノミスト出身の浜矩子・同志社大学大学院教授。新刊『統合欧州の危うい「いま」』(詩想社)では、EU各国の政治状況を分析。同書第1章から、ポピュリズムとナショナリズムについて、以下にまとめてみる。

ポピュリズムは「大衆迎合」。ナショナリズムは「国家主義」とするのが定番の訳し方。この二つは混同されたりするが、もちろん同じものではない。ただ両者に共通点はある。それが二分法。世の中を「我ら」と「やつら」に二分割して、「やつら」を敵視する。ポピュリズムもナショナリズムも、このやり方で人々に働きかける。ただし誰が「我ら」で誰が「やつら」なのかは、両者で異なる。

ポピュリズムの場合、「我ら」が「大衆」で、「やつら」は「エリート」。大物政治家や高級官僚、ビッグビジネス経営者、富裕層、インテリ層等々。ポピュリストはエリートの差別から大衆を守る。ポピュリストは人々の意思の代弁者である。これがポピュリズムの論理だ。

ナショナリズムにおける「我ら」は「身内」、「やつら」は「よそ者」である。移民、難民、異教徒、異民族等々。それに加えて、国家の存立を脅かす者たち。人権活動家、市民運動家、労働運動家、反体制ジャーナリスト等々。

ポピュリズムとナショナリズムが重なり合う領域は「ポピュリズム型ナショナリズム」と呼べるだろう。ここは、ナショナリストたちがポピュリストに変装している領域だ。大衆の味方というポーズを前面に打ち出しながら、人々を国家主義の世界に引きずり込んでいく。これがポピュリズム型ナショナリズムの手口だ。

ナショナリズムと合体していないポピュリズムの領域は「反体制型ポピュリズム」と呼べるだろう。反体制は、英語の「アンチ・エスタブリッシュメント」のイメージ。(確立された権力または統治機構に異を唱えて改変を迫る)

・・・このポピュリズムとナショナリズムの台頭は、政治的中道を支えてきた中間所得層の衰退と表裏一体の動きであり、ここから中道右派の極右接近、中道左派の消滅という現象も現われてきている。というのが浜先生の見立ての概略。特に中間所得層の衰退傾向は、日本も同様であろうから、EU各国の政治状況を他人事として見るわけにはいかないと考える次第です。

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