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2019年9月30日 (月)

「猫町倶楽部」代表、本を出す

読書会入門』(幻冬舎新書)の著者は、読書会コミュニティ「猫町倶楽部」の代表者である山本多津也氏。2006年9月に名古屋で山本氏は友人たちと読書会を開催。これを「名古屋アウトプット勉強会」と名付けて、定期的にビジネス書の読書会を開催。当時ブームになっていたミクシィでもコミュニティを立ち上げたところ、会員数が急増。メディアにも取り上げられて、読書会は幅広い年代層から参加者を集めるようになり、文学の読書会もスタート。2009年2月には東京に進出。現在は名古屋、東京、大阪、金沢、福岡で、ビジネス書、文学、哲学、映画、芸術などをテーマにしたイベントを年間約200回開催。年間約9000人が参加する「日本最大級の読書会コミュニティ」に成長している。

実際の読書会運営のあれこれはさておき、一番すごいと思われるのは、山本氏が「猫町倶楽部」課題本をすべて決めているということ。そんな山本氏が読書に目覚めたのは、実は20歳を過ぎてから。大失恋をきっかけとして、新しい自分に生まれ変わりたいと願った時、本に出会ったのだという。山本氏は自分の人生を変えた本として、栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』を挙げている(65年生まれの山本氏の20歳頃は、まさに人文カルチャーにおける「ニューアカ」花盛りの時期)。
山本氏はいう。「どんな人にも共通して、本を読み始めるのに適したタイミングというのがあります。それは、何か大きな壁にぶつかったとき、挫折したとき、どうしても前に進めないときです。心から答えを欲している、そんなときに読むからこそ、読書が価値あるものとなるのです」。

自分にも覚えがある。世界を知りたい、現実が分からない、いつか自分は死ぬ・・・どうすれば良い? そんなひどく切羽詰まった思いにかられて本を手に取る。要するに生きるために本を読む時期がある。その時始まる読書がホントの読書だ、という感覚がある。

ところで今年、自分も「猫町倶楽部」読書会に参加した。読書会の開催場所が、たまたま自分が今住んでいる藤が丘にあるJAZZ喫茶だったり、職場のある名駅付近の貸会議室だったりしたことも大きい。行ってみたのは「キム・ジヨン」「ドラッカー」「ショーペンハウアー」。小説、ビジネス書、哲学と一通り参加してみた。(ウエルベックの『ショーペンハウアーとともに』では、代表者とは知らずに山本氏と同席してしまいました)

最近思うのは、会社でもコミュニティでも何でもいいが、とにかく「場」を作る人はすごい。ということだ。人は何らかの「場」で生きていくしかない。そのような人が集う「場」を作り出し提供する人は、驚異の人だと思う。

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2019年9月25日 (水)

「真鍋塾」出身者、恐竜学をリード

本日付日経新聞社会面記事「恐竜リバイバル②」からメモする。

世界的な研究者を輩出する日本の恐竜学が、盛り上がりをみせている。けん引役は「国産」恐竜学者の第1世代と呼ばれる若者たちだ。

3本の角を持つ「トリケラトプス」は歩き方がわからず、論争の的だった。トカゲのように「肘」を横に張り出すのか、ネコのように脚を下に伸ばすのか。謎を解いたのが名古屋大学博物館講師の藤原慎一(39)だ。パソコンで筋肉や骨の動き方を分析し、恐竜の体のしくみに迫る。トリケラトプスの「肘」の関節の筋肉がつく場所を再現すると、ネコやイヌのように脚を伸ばす筋肉が強かった。「肘を伸ばし、腹や腰の位置を高く保って歩いたことが分かった」。

藤原の弟弟子が、岡山理科大学講師の林昭次(38)だ。化石を切り刻む手法で、恐竜の暮らしや成長の過程に迫る。林は大型の草食恐竜「ステゴサウルス」の背中に生えた骨の板の謎を解いた。「肉食恐竜から身を守る防具だった」との説もあったが、決め手を欠いた。約20体の化石を切断して調べたところ、血管の穴が開いたもろい構造だった。「血液の熱を逃がす放熱板だった」。09年から成果を発表し、論争は決着した。

藤原らを排出したのが、国立科学博物館標本資料センターコレクションディレクターの真鍋真(59)が1990年代後半から開いた通称「真鍋塾」だ。閉館日に化石の測り方などを教えた。当時は大学に指導者がおらず「恐竜学の基礎を学べる場所が少なかった」(真鍋)。藤原もトリケラトプスの研究のヒントを真鍋からもらった。

・・・真鍋真先生は、あの未来的なイラストレーター真鍋博の息子さん。であることは去年読んだ『大人のための恐竜教室』(真鍋真と山田五郎の共著、ウェッジ発行)で知った。親子2代、異なる分野で才能が花開いているのを見ると、感嘆するばかりなのです。

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2019年9月16日 (月)

東海古城研究会見学会に参加

昨日9月15日、東海古城研究会の見学会「高橋陽介氏と行く新説・関ヶ原古戦場」に参加した。高橋氏は、白峰旬・別府大学教授と共に、関ヶ原合戦の通説見直しをリードする在野の歴史研究者。その当人が同行し現地で解説するバスツアーに、非会員も参加可能ということだったので、行って参りました。

当日朝8時30分に一宮駅に約50人が集合し、大型バスで出発。南宮山に程近い垂井城跡を経て関ヶ原・笹尾山(石田三成陣)に到着。島津義弘陣、小西行長陣、徳川家康最後陣を回り、関ケ原町歴史民俗資料館を見学。9月15日は関ヶ原合戦当日(旧暦)ということもあるのだろう、陣跡界隈や資料館では、旅行会社の団体ツアーと覚しき人々も多数行動していた。

Photo_20190916194401 昼食後、関ケ原駅から西に向かって進む。この日の最高気温は34度、強い日射しが照りつける中で藤堂高虎陣、福島正則陣と回った後は、いよいよ高橋説の「西軍陣地」である藤下(とうげ)及び山中地区に入る。いくつかのポイントで高橋氏の解説が行われ、山中にある(通説の)大谷吉継陣の付近で今回の古戦場巡りを終了。不破関資料館で待つバスに乗り、夕方5時30分頃一宮駅に戻った。写真は、藤古川付近で参加者と話す高橋氏(右端)。後方にある山は、高橋説の西軍陣地(自害峰)。

これで今年は、中日文化センター講座(名古屋、5・6・7月)、佐賀戦国研究会シンポジウム(小倉、6月)、そして今回バスツアーと、自分的には高橋イヤーになっている。ちょっと前は、呉座勇一先生の話を聞きに京都へ何度か足を運んだりしていたので、転勤で今名古屋にいるのも自分的には結構便利というか妙にタイミングが合ってるというか。

「応仁の乱」にしても「関ヶ原合戦」にしても、後世に書かれた軍記物をベースにした通説的ストーリーを、当時の当事者が書き残した書状や日記など一次史料を基に見直すというトレンドの中にあるわけで、これから先もどんな新説が現れて過去が更新されるのだろうかと楽しみに感じる。

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2019年9月 8日 (日)

南宮山(毛利秀元陣跡)に上る

先日、岐阜県垂井の南宮山に上った。関ヶ原合戦時、毛利秀元を大将とする毛利軍が陣を置いた山である。

垂井駅の南、タクシーで5分程度走ったところにある南宮大社の脇から、ハイキングコースとして整備された道を上っていく。スタート地点には安国寺恵瓊の陣地跡がある。自分が上り始めたのは朝9時半頃だったが、上から下りてくる人と何人かすれ違った。随分早い時間から上る人がいるのだな。

いちおう事前にネットで見たりして、頂上近くの毛利秀元陣跡まで1時間程度の道のりとは承知していたのだが、丸木の階段が延々と続く急な坂道を上るのは結構しんどかった。行けども行けども急な上りが続き、口からは「暑い」「ちくしょー」「もうだめだー」等々文句しか出てこない。

ゴールはまだかまだかと思いながらひたすら歩いていると、突如目の前にシカが現われた。山道の真ん中で行く手を遮るようにシカは横向きで立ち、顔はこちらに向けていた。自分も思わず足を止めて、普段は目にしない野生動物に見入るばかりだった。シカは特に慌てる様子もなく、道から外れて草木の中に分け入っていった。いやあ~びっくりした~というか、こんなことあるんだ。(クマじゃなくてよかった)

Photo_20190913211901 とにかくひいひいはあはあ言いながら、ついに展望台(毛利秀元陣跡)に到着。草むらに足を踏み入れるとバッタが何匹も飛び立った。いちおう事前の目処のとおり1時間余りのハイキングではあったが、ようやく辿り着いたというのが実感。

展望台の東屋に置かれたクリアケースには、ノートや資料コピーが入っていた。その資料コピーによると、毛利秀元の陣城は慶長5年(1600)9月7日より15日の決戦当日までの間に構築されたものである。陣跡は南宮山の東方、404mの峰に位置している。関ヶ原方面は見ることができない。逆に大垣方面は一望のもとに見渡せる。城郭の構造からも、大垣を正面として意識した築城であることがわかる。とのことで、コピー元は何の本か分からないが、執筆者と縄張図の作成者は「中井」とあり、おそらく中井均先生の手になるものと思われる。

Photo_20190913212501 慶長5年の9月14日時点では、大垣城とその西にある南宮山が、東軍と西軍の主戦場と想定されていたが、14日の夜に大垣城の西軍主力が関ヶ原に移動し、翌15日に戦いが起きた。南宮山の毛利軍は、重臣の吉川広家が東軍に内通したこともあり、結局その場を動くことなく終わった。

南宮山の毛利陣地は、大垣城の西軍主力と連携した陣地であることを納得して下山。所々でカエルやトカゲなどを目撃しながら、石のたくさん転がる急な坂道をゆっくりと下った。結局下りも1時間以上かかった。南宮山の上り下りはとにかくきつい。脚は痛くなったし、「疲れた」のほかに言うことなし。

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2019年9月 7日 (土)

「東京裁判」は遠くなりにけり?

記録映画「東京裁判」のリマスター版が、先月から各地のミニシアター中心に期間限定で公開されている。

自分はこの作品は公開当時の昭和58年、1983年に映画館で観たし、DVDも持ってるので、内容が変わったわけでもないだろうから、どうしようかと思ったが結局観てしまった。しかし36年ぶりだよねえ。何か自分も長生きしてるなあと感じる。

この映画を観ると、いつも弁護人のブレークニーさんに圧倒されてしまう。東京裁判の開廷から間もなく、彼は裁判そのものの正当性を問う。
「戦争は合法的であり、戦争における殺人は罪にならない。真珠湾攻撃による殺人を罪に問うならば、我々は広島に原爆を投下した者の名前を挙げることができる。彼らは殺人罪を意識していなかっただろう。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵が不正義だったからではなく、戦争自体が犯罪ではないからだ。原爆を投下した者がいる! その彼らが裁いているのだ」
ブレークニー弁護人の主張する場面はいつ見てもすごい。すごすぎる。

このほかにも映画の後半では、ヤルタ会談における密約、すなわち南樺太の返還と千島の引き渡しを条件に、ソ連が日ソ中立条約を破り日本侵攻を開始する約束を裏付ける資料を、ブレークニーさんが提出したこと。あるいは、証人として出廷したアメリカ政府高官から、ハル国務長官やルーズベルト大統領が戦争は避けられないことを認識していた(日本の一方的な奇襲により戦争が始まったとする検察側の主張に対する反証)等の数々の証言を引き出したことなどが示される。ブレークニーさん、まさに八面六臂の活躍。

東京裁判というと、インドのパル判事が「日本無罪論」(というか東京裁判否定論)の展開により、日本人から英雄視されている印象があるが、実際の審議プロセスにおいては、ブレークニーさんこそ真のヒーローと言ってもいいように思う。

映画の終わりに、東京裁判終了後の国際紛争や戦争が列挙されるところで、この作品が最初に公開された当時は、まだ冷戦は終わっていなかったことに遅まきながら気がついた。しかも80年代前半というのは、冷戦がぶり返した(ように見えた)時期だった。だから当時は、東京裁判は「現在」と地続きの出来事であると受け止めることができたように思う。しかし冷戦が終わった今日、さすがに東京裁判は遠くなりにけり、という感覚もある。

とはいえ、当然ながら東京裁判は動かせない過去としてあることは変わらない。ソ連は消えたがロシアがある。安倍首相は頑張っているとは思うけど、北方領土が返ってくる可能性は相変わらず低い。それでも彼の地は侵略により不法占拠された日本の領土であることは、ずーっと主張し続けなければならないのだろう。決まり文句のようにいえば、歴史を振り返ることにより、残された課題やこれからなすべきことが見えてくる、ということだ。

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