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2019年3月31日 (日)

死は「一巻の終わり」

『「死」とは何か』(文響社)という本がよく売れているとか。著者は米イェール大学のシェリー・ケーガン教授。中日新聞(3/28付)掲載のインタビュー記事から以下にメモする。

(死を考えないより、考えて生きる方がいいのか)
悲しい、あらがうことができない、重苦しい。いろんな理由で死を考えたがらない人が多いが、誤りだ。チェコ出身の作家フランツ・カフカは「人生の意味は、それが終わることにある」と言った。重要なのは、死はまさに一巻の終わりという事実に気づき、人生の尊さを知ることだ。二度目がないからこそ、どう生きるか、何が正しいかを見極めなければならない。

(なぜ人は死を恐れるのか)
死に関して最も悲しいことは、生きている限り享受できたであろう楽しいことを得られなくなることだ。しかし、死を恐れることは、筋が通らないと思う。死は必ず訪れるからだ。
少なくとも私は死を恐れるより、自分の人生を生きてきて、愛すべき家族がいて、哲学の知見を人々と共有できたことに感謝するだろう。

(結局、死とは何か)
私は身体が朽ちても魂は生き続けるという考え方に賛成しない。考えたり、恋をしたり、創造したりといったことは、物体にはない私たちの身体機能の一部だ。死とは、身体が壊れ、こうした機能も果たせなくなること。それが全てだ。だからこそ、死を考えることは、どうすれば人生の価値を高められるかを考えることにつながる。

・・・死とは身体が壊れること。変な感想になるけど、「銀河鉄道999」の機械の身体を求めて宇宙を旅するという話が、若い時にはピンとこなかった。なんで機械の身体なんか求めるの?と。しかし年を取ると、そういう感じも結構分かってくる。何しろ身体は壊れる。というか年を取ると壊れてくる。機械は壊れても修理できるから、そっちの方が良いのかな。と思えてくるのだね。

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2019年3月26日 (火)

哲学は「転回」する

今週の『週刊東洋経済』(3/30号)の特集記事「世界のエリートはなぜ哲学を学ぶのか」から、現代哲学の議論の流れ(岡本裕一朗・玉川大学教授の解説)についてメモする。

近代哲学は17世紀後半から「認識論的転回」と呼ばれる議論が展開されてきた。それは「人間の人間たるゆえんは心や意識といった主観の中にある」とする考えだ。

しかし、19世紀末から20世紀に入る頃、哲学の議論は「言語論的転回」へと大きく舵を切った。
人間は物事の理解や世界の認識を、すべて言語を通して行っているという考えに基づく哲学。意識のあり方を規定しているのは言語であり「言語を分析することこそが人の真理や考え方に近づくことになる」という考え方だ。
20世紀後半に現れたジャック・デリダらのポストモダンも言語論的転回と結び付いたものだ。文化や歴史が異なれば、善悪や正義に関しても普遍的な真理はなく(異なる言語ゲームは共約不可能である)、多様な解釈があるだけになる。

21世紀に入る前後から、改めて他者同士の相互理解に取り組む哲学の潮流が現れた。互いの違いを認めつつ「共通の正しいことを誰しも相互理解できる領域があるのでは」と模索する、ポスト言語論的転回といえる3つの潮流だ。

1つは「自然主義的転回」だ。これは近年発達した脳科学や認知科学といった自然科学を積極的に取り入れながら「意識とは“脳”のメカニズムを分析することで解明できる」というアプローチだ。
2つ目が「メディア・技術論的転回」である。これは音声や映像、あるいは文字といったメディアによって「物事の伝わり方が変わる」ことに立脚した分析だ。
そして最後が「実在論的転回」。実際の物理的な対象に加え、それに関する思想や心、感情、空想まですべて存在している、と考える哲学的な分析だ。

・・・「真の相互理解」が成立可能な知的基盤を求める哲学者たちの模索は今も続いている、とのことだが、個人的には言語論的転回=ポストモダンの衝撃が強すぎて、もはや哲学にそんなに新たな展開は期待できないような気がしている。自分が思うのは、ヴィトゲンシュタインの言う「私の言語の限界が私の世界の限界」、「語り得ぬものについては沈黙」という認識論的かつ倫理的な命題を心得ておけばよい、ということだ。

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2019年3月24日 (日)

『メタル脳』

脳科学者中野信子が愛する音楽は何とヘヴィメタル。「社会的な存在である人間のネガティブな部分に向き合う」メタルは、「愛とか恋を叫ぶ歌よりも」「音楽として本源的でまっとうだと感じた」とのこと。ここでいう「ネガティブな部分」は、「非社会的な部分」と言い換えても良い。人間(ホモ・サピエンス)は自らの生存戦略として、社会を作ること、社会性を獲得することを選んだ。しかし個人レベルでは、社会性を発揮するのが上手な人とそうでない人がいる。そしてメタルファンの多くは後者ではないか、という。彼女が愛を込めてメタルを分析する『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』(KADOKAWA発行)からメモする。

一般的にメタルは「反社会的」なものとして認知されていると思われますが、わたしは「非社会的」という言葉のほうが合っていると見ています。「社会的であること」は生存競争において長らく人間の最強の武器でした。しかし、じつは近年その傾向が変わってきています。それは現代では、それまで必要なはずだった人間関係を持てば持つほど、そのことがリスクになる世の中になりつつあるということです。わたしたちにはまったく新しい戦略が求められていると感じます。そのひとつになり得るのが、社会から抜け出そうとする「非社会的」というアプローチだと考えています。

外向性の高さとは、要するにまわりを日和見る能力です。逆に言えば、「非社会的」な人は日和見の能力が低いわけで、「日和らない」基準を持った人と言うこともできます。外からの視線が判断基準にならず、自分の感情や経験に忠実であり、ていねいに思考を積み重ねることもできます。「ここだけは譲れない」という、自分だけの基準をつくりやすい人たちなのです。繰り返しになりますが、内向性の高さが、同時に社会からの影響の受けにくさであるなら、それはこれからの社会を生きるうえで強力な武器となるでしょう。なぜなら、いまの時代というのは社会そのものがリスクだからです。

メタルは、社会通念を打ち破ってくれそうな期待感を抱くに足る音楽です。一般的な人たち、「社会的」な人たちが信じているきれいごとの世界のことを社会と呼ぶならば、それに対して「ちがう」という意思表示をすることがメタルです。欺瞞に満ちた社会に対して、暴力によらずに音楽の力で強烈な一撃をくらわすこと、それこそがメタルの存在意義なのです。

・・・中野信子が論じると、メタルが知的な音楽に思えてくる。(苦笑)

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2019年3月22日 (金)

「世界史のリテラシー」

『サピエンス全史』が話題など世界史ブームの裏側には、「世界史のリテラシー」への渇望があると言うのは、山下範久・立命館大学教授。「世界史のリテラシー」とは、歴史のディテールや物語性の裏側を見通す力、「歴史がそのように書かれているのはなぜか」を適切に問う力だという。東洋経済オンライン本日付発信記事から、山下先生の話の一部を以下にメモする。

歴史は過去の再現ですが、過去のすべてを完全に再現することはできません。書かれたもの(あるいは語られたもの)としての歴史には必ず事実の取捨があります。意味のある、筋の通った歴史であればあるほど、その取捨にはなんらかの論理を具えた枠組みがあります。例えば清教徒革命やフランス革命が世界史の重要な事件とされる背後には、議会制民主主義の成立を近代社会の本質として歴史を見る枠組みがあります。

協調を志向するリベラルな国際秩序、議会制民主主義、経済成長を前提とした豊かな社会、理性的行為者として平等な「人間」など、私たちがなじんできた「世界史」の主題や基調は、こうした「近代」の達成の物語を描く枠組みに深く埋め込まれています。

しかし実際には、その枠組みの前提で「近代」の「達成」とされているものが、まさに今揺らいでいるわけです。このことは、ただちに近代が終わったとか、近代的な価値がただのイデオロギーでしかなかったということを意味するわけではありません。しかし、これまでの枠組みを、さらに広い視野やさらに深い次元に開いて位置づけ直す必要が出てきたと言うことはできるでしょう。

(世界史の本が読まれるのは、)深い次元での世界史への枠組みへの関心、つまり「世界史のリテラシー」を鍛え直したいという願望が読者の皆さんに潜在的に共有されているからだと思います。危機の時代とは、「世界史のリテラシー」への飢えが高まる時代なのです。

・・・どうやら、世界史を考えるとは近代を捉え直すということのようだ。近代批判のムーブメントは、80年代の半ばに「ポストモダン現代思想」ブームとして現われたが、昨今は思想よりもっと具体的な、歴史的事象の捉え方を問い直す「世界史ブーム」として現われているようにも思える。(最近の柄谷行人が「世界史」の本を書いているのも納得、という感じだ)

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2019年3月17日 (日)

関ヶ原合戦研究の難しさ

先頃、呉座勇一先生が関ヶ原合戦新説の整理と批判を行う講座に、2回参加した(2月4日中日文化センター・栄、3月16日NHK文化センター・京都)。

呉座先生の評価は、近年の新説が主に依拠する吉川広家書状案など覚書類は、後世の軍記物より信頼できるとはいえ、あくまで「回顧録」であり、覚書類で合戦の姿がどこまで復元できるかは慎重に見たい。関ヶ原合戦研究の難しさは、史料が非常に少ないところにある。通説は崩れているが、それに代わる確かな合戦の姿を示すのも難しい、というものでした。

まあ学問的にはそういうことなんだろうな、と了解する。信頼できる史料の批判に基づき、過去の事実を復元する、という歴史学の基本的なアプローチからすれば、白峰、高橋両先生がリードする関ヶ原新説はいろいろ推測が入ってくるので、どこまでホントなのか分からないと言えば分からない。正確性を第一に求めるならば、史料のないことは分からないというのが、学問的には正しいのだろう、とは思う。

とは思いながらも、関ヶ原合戦はもともと史料が少ないところで、時間の経過と共にあれやこれやストーリーが作られ加えられてきて、今見るような通説になったしまったわけだから、それはさっさと「お話」として脇に置いて、改めて史実は何か、あえて合理的推測も加えて踏み込んで考えないと、歴史の理解は進まないという感じもする。

呉座先生のほかには、桐野作人先生は関ヶ原新説をどう評価しているのか気になりますね。

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