会津征伐と直江状
『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第5章 会津征伐と直江状」の要点などを以下にメモする。
(会津征伐に至る経緯の通説)
慶長5年(1600)4月、謀反の疑いをかけられた会津の上杉景勝は、徳川家康からの上洛の要請に対し、家臣の直江兼続に長文の返信をしたためさせた。それは「会津の政治に後ろめたいことは何もない。逆心など謂れのないことだ。無茶なことばかりを言い立てるのは、何か悪巧みがあるのではないか」と挑発する内容だった。世にいう「直江状」である。書状を手にした家康は怒り心頭に発し、諸大名に「会津征伐」の総動員をかけた。
(乃至氏の「直江状」検証の要点)
いわゆる「直江状」は、西笑承兌(さいしょうじょうたい)和尚の書状に対する返書である。写しのみが現存し、原本がないため、真贋論争が続いてきた。乃至氏は「直江状は承兌書状の内容に一々返答したが、どこも噛み合っていない」(渡邊大門氏)という説に同意する。そして、「実際に兼続が書き送った返書と、直江状を別物として考える」(水野伍貴氏)という提言に従うべきだとする。というのは、そもそも西笑和尚の書状は私的なものである。つまり承兌と兼続の私信往還と、家康側と上杉側との間の公使往還とはまったく別物なのだ。直江状は両者を混同した創作物だと考えられる。要するに兼続は景勝と家康の交渉に一切関与していないのだ、と乃至氏は結論づける。
(上杉景勝の本意とは)
さらに乃至氏は、景勝の「逆心」も真実だったと見ている。景勝は事前に誰とも共謀することなく、単独で開戦準備を進めていた。景勝は自ら動乱を呼ぶことによって、天下に公儀のありようを問おうとしたのである。もともと景勝は豊臣秀吉死去以来の上方の政争に消極的で、くだらない派閥争いで安定しない公儀に、不快感を募らせていたのだろう。行き詰まった上方の政情を打破することができれば、それで良かったのである。
以上から、会津征伐は通説のいうような家康の野望の現われではなく、景勝の逆心による関東の争乱勃発を防ぐため、公儀による征伐として動き始めた戦争なのである。
・・・自分は、まず高橋氏担当部分(関ヶ原合戦)を目当てに同書を買ったのだが、乃至氏担当部分(関ヶ原に至る政治プロセス)も読んでみると非常に面白い(特に直江状の解説)と思ったので、メモさせてもらった次第です。
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