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2018年4月28日 (土)

関ヶ原(山中・藤下)合戦の経緯

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(乃至政彦、高橋陽介の共著、河出書房新社)の「第15章 西軍降伏後に起きた合戦」を、以下に要約してみる。

慶長5年(1600)9月14日、徳川家康の軍勢が美濃赤坂に着陣。石田三成ら西軍の立て籠もる大柿(大垣)の城から北に一里(約4km)ほどの場所である。また同日、小早川秀秋勢が松尾山の西軍勢力を排除して当地を占拠(これは高橋氏によれば、事前に家康方と示し合わせての行動である)。松尾山は大柿から四里(約16km)西の関ヶ原にある。東軍に寝返った小早川を討つべく、14日の夜、大柿にいた石田三成、宇喜多秀家、小西行長、島津惟新(義弘)の4部隊は城を出て関ヶ原に向かった。

大柿から関ヶ原までの途中にある南宮山には、毛利勢が布陣していた。関ヶ原方面に移動する西軍の行動を撤退と捉えた毛利家の筆頭家老・吉川広家は、既に東西両軍の勝負がついたと判断。東軍と和談交渉を行うことを独断で決意し、使者を送った。そして、東軍の井伊直政・本多忠勝らと吉川広家らは起請文をとりかわし、広家側は人質を差し出した。高橋氏は、これにより東軍と西軍の総和談は成立、それは事実上の西軍の降参を意味する、という。

9月15日の未明、西軍は松尾山の北、山中村・藤下村付近に展開した。西から島津、宇喜多・小西・石田、一番東側に大谷吉継である。同日の早朝、東軍の先手である福島正則・黒田長政らの部隊が、西軍陣地に攻め掛かってきた。

西軍で最初に戦い、最初に崩壊したのは大谷吉継の部隊である。吉継は、西軍陣地のいちばん東側にやや離れて布陣していた。東軍先手衆の攻撃を六、七度撃退したが、松尾山からおりてきた秀秋の部隊に側面を攻撃され、崩壊した。さらに東軍先手衆は宇喜多勢、石田勢を潰走させ、島津の陣地への攻撃を開始した。島津勢は、それらの部隊の真ん中を切り開いて東へ向かって撤退。こうして関ヶ原合戦は終わった。

・・・関ヶ原合戦通説の見直しにおいては、西軍の移動(大垣城から関ヶ原)の理由が、一つの焦点だと思われる。通説では、西進する東軍を関ヶ原で迎え撃つためとされていた。これに対し高橋説は上記のように、小早川陣攻撃のためとする。また、白峰旬・別府大学教授の説によれば、家康軍到着により圧迫を受ける南宮山の毛利勢を、バックアップする体制に立て直すためである(『歴史群像』2017年10月号所収の論文)。しかしどちらにせよ、吉川広家の主導による和睦成立、すなわち毛利の事実上の降伏により、東軍が何の障害もなく西進し関ヶ原に進出できたのは、山中・藤下に布陣した西軍にとって想定外の事態であったといえるだろう。これが短時間の戦闘で西軍が崩壊した一因のようだ。

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