「関ヶ原」、伊藤盛正の災難
天下分け目の関ヶ原の戦い。華々しい決戦の影で、2度も城から追い出されるという理不尽な目に合った武将がいる。大垣城主の伊藤盛正である。雑誌『歴史群像』4月号記事から以下にメモする。
慶長5年(1600)、石田三成が上方で、家康打倒を掲げて挙兵する。三成は西軍を率いて東進し、美濃垂井まで至ると、大垣の盛正へ使者を送った。
「西軍の本営として大垣城を借り受けたい。ついては、貴殿はただちに城を立ち退き、我らに明け渡されよ」
盛正は困惑しただろう。本営云々はともかく、立ち退けとはどういうことか。当然、彼は断った。
「かような形で城を開けば、天下の嘲りを招き、先祖を辱めることになり申す。この件、とてもお受けしかねる」
しかし、三成は頑として要求を曲げず、力づくで城を奪う姿勢さえ見せたため、ついには屈せざるを得なかった。
城を追い出された盛正は、領内に陣屋を築いて在していたが、しばらくすると、松尾山城へ移るよう命じられた。この城は関ヶ原の南西、平原を見下ろす小高い山の上に築かれており、上方へと通じる近江街道を抑える後方の重要拠点だ。
ところが、およそ一月後の9月14日。松尾山城の番を続ける盛正へ、ある西軍大名がいきなり、こう要求したのだ。
「この城を我が陣営とする。すぐに明け渡し、立ち退かれよ」
相手は秀吉の甥で、小早川秀秋といった。盛正は問答無用で追い出され、再び城を失った。
そして翌日、東軍と西軍が関ヶ原の地で激突した。盛正は、三成の部隊に属して戦ったが、その松尾山城の小早川秀秋が東軍に寝返ったことにより、西軍はあっけなく敗れた。
・・・敗戦の中で、かろうじて命を拾った盛正はその後、福島正則の家臣を経て、金沢の前田家で禄を食んだということだ。歴史の大きな波に翻弄された小大名の大いなる悲哀を感じるなあ。
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