天下分け目の戦いが行われた関ヶ原。実はこの地は、古代の「壬申の乱」、室町時代の「青野ヶ原の戦い」においても、戦略上重要なエリアとして意識されていた。3つの戦いにおいて、なぜ関ヶ原エリアが重要な舞台となったのか・・・『壬申の乱と関ヶ原の戦い』(本郷和人・著、祥伝社新書)を読んで、学んだり考えたりのまとめ。
古代、関所は三ヵ所あった。越前国の愛発関(あらちのせき、現・福井県敦賀市付近に推定)、伊勢国の鈴鹿関(すずかのせき、現・三重県亀山市付近に推定)、美濃国の不破関(ふわのせき、現・岐阜県不破郡関ケ原町)である。それぞれ北陸道、東海道、中山道を東から進んでくる敵を防ぐための関所である。京の都から見れば、敵は東から攻め上ってくるのであり、三つの関の東側を「関東」と呼んでいた。つまり関所は、日本の東と西を分ける場所であった。日本の歴史においては長い間、畿内を含む西国が日本の中央であり、貧しい辺境の地に住む東国の人たちが、西国の豊かさを奪い取ろうと都を目指すという構図が、8世紀から16世紀までの日本史の基本的なトレンドである、と著者は見る。そして関所のある地は、東から見れば畿内への入り口、西から見れば敵を食い止める防衛ラインであり、攻める東国と守る西国が衝突する場所、まさに攻防の重要ポイントとなるのである。
まず壬申の乱。672年に起きた古代史上最大の内戦である。この時、天智天皇の弟・大海人皇子は、現在の関ヶ原辺りに自軍の本拠地を置いた。そこで兵を集めて近江、大和で天智の息子・大友皇子と戦い勝利。天武天皇として即位すると、不破、鈴鹿、愛発の三ヵ所に関所を置いた。天武天皇は関ヶ原という場所の重要性を最初に認めた人物なのである。
次の青野ヶ原の戦いは1338年に、北畠顕家が率いる軍勢と室町幕府軍との間で行われた合戦。顕家は『神皇正統記』で知られる北畠親房の嫡男。1336年に足利尊氏は北朝の天皇を担いで幕府を開いたが、後醍醐天皇は吉野で南朝を旗揚げして抵抗。後醍醐天皇から京都奪還を命じられた北畠顕家は、奥州から軍勢を率いて京を目指した。幕府軍は美濃・青野ヶ原を防衛ラインとして、北畠軍を迎え撃つ。この防衛ラインを突破できずに、北畠軍は伊勢に転進。これにより北朝と将軍権力は、国の中央を占める権威・権力を確立したのである。
そして1600年に起きた関ヶ原の戦い。この戦いに勝った徳川家康は1603年江戸に幕府を開き、日本の中心が京都・大坂から江戸に移るという大変化がもたらされた。これにより、東の反乱分子が西の中央に戦いを挑むという構図は終焉を迎えたのである。
日本の歴史において長い間、西と東の発展の速度には差があった。西と東に社会的文化的格差がある時代において、「関ヶ原」は東西を分けるラインとして機能し、そこで起こる戦いの結果は、中央権力の転換または維持に大きな影響を及ぼした。関ヶ原の戦いと江戸幕府の開始以降、東が西に追いつく格好で、ようやく東と西はひとつの「日本」となるまでに発展を遂げたと言えるのだろう。この「ひとつの日本」の成立は、幕末から日本が急速に近代的国民国家へと変貌を遂げる際にも、相当なアドバンテージとなったのではないだろうか。