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2017年9月18日 (月)

関ヶ原合戦のリアル(その3)

関ヶ原合戦の布陣図というと、明治時代の陸軍参謀本部作成の資料図が利用されることが多い。しかし、その図に史料的根拠は全く無いという。白峰先生の想定では、石田方本隊は山中に密集した形で東向きに布陣。先に山中に着陣していた大谷隊は関ヶ原まで前進。また小早川隊は松尾山の麓に降りていた可能性がある。家康方主力も関ヶ原に進出、ついに決戦が始まる――雑誌『歴史群像』10月号、白峰旬先生寄稿「関ヶ原合戦の真実」からのメモを続ける。

伊達政宗書状には「15日未明、家康方軍勢は山中に布陣する石田方軍勢に対して無二に切りかかって押し崩し」とある。吉川広家自筆書状案でも「家康方軍勢が山中へ押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした」とあり、近衛前久も「家康方軍勢が即時に切りかかって大勝利であった」と記している。通説と異なり、石田方本隊が開戦から短時間で壊滅したことは間違いない。

石田方本隊の大垣からの転進と山中布陣の目的が、南宮山の毛利勢と連携して家康方を挟撃する態勢を取ることにあったとすれば、家康方主力が15日早朝に関ヶ原へ展開し、開戦となったことは想定外であり、不意を突かれた石田方は一方的に攻め込まれ、短時間で敗北してしまったのだろう。

また、小早川秀秋の裏切りのタイミングについても『16・7世紀イエズス会日本報告書』には、開戦と同時に行われたと明記されており、一進一退の攻防戦が秀秋の裏切りで一気に決したというのも後世の俗説なのである。

(合戦の概要)
9月15日早朝、家康方軍勢は関ヶ原にまで進出。福島正則・黒田長政の手組を先備とする家康方先手勢は山中の石田方本隊の前面に展開し、徳川本隊はその後方で大谷吉継隊と相対して布陣した。そして夜明けとともに、徳川本隊が攻撃を仕掛け、大谷隊は必死に応戦。だが、ほどなく、小早川秀秋隊が背後から突如として大谷隊を攻撃。大谷隊は殲滅され、吉継は戦死を遂げた。

そして、午前10時頃、家康方先手勢も山中の石田方本隊の宇喜多隊・石田隊に対して攻撃を開始する。2時間ほど経った昼12時頃までには宇喜多・石田両隊は追い崩され、ある程度密集して布陣していた石田方本隊の各備は、ドミノ倒しのように次々と各陣を突き崩されてしまう。

石田方本隊の先備は壊滅し、二番備の島津義弘勢は退却を決意。家康方先手勢の「猛勢の真中へ」攻めかかり、東側への突破を図る。義弘主従はからくも突破に成功し、残った家臣と共に、そのまま伊勢街道から撤退していった。

・・・このように可能な限り関ヶ原合戦の姿をリアルに描き直して提示されると、確かに今までの通説は単なるストーリーでしかないな、という感じになる。一次史料の制約の中で史実を復元するのも容易ではないと思われるけど、今後も白峰先生ほか専門家の方々のさらなる研究の進展を期待するばかりだ。

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2017年9月17日 (日)

関ヶ原合戦のリアル(その2)

石田方本隊は大垣城を出て関ヶ原へ向かう。しかし徳川3万の軍勢到着に怖じ気づいた毛利勢が、早々と家康に「降伏」していたことは、石田三成にとって大いなる誤算だった。雑誌『歴史群像』10月号、白峰旬先生寄稿「関ヶ原合戦の真実」からのメモを続ける。

一方、美濃口の石田方本隊、すなわち石田三成ら大垣籠城衆にとっても、すぐ北に現れた大軍は脅威であった。

14日の夜、戦況は大きく動き出した。石田方本隊が突如大垣城を出て「外曲輪」(そとぐるわ)を焼き払い、関ヶ原方面へ移動を開始したのである。

伊達政宗は石田方の転進について「大垣城への『助衆』(南宮山の毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて(大垣城を出て転進し)美濃の『山中』というところへ打ち返して陣取りをした」と家臣に説明している。

この「山中」とは関ヶ原盆地の南西、現在の岐阜県不破郡関ヶ原町山中一帯を指す地名である。

14日時点の家康の作戦は、福島正則・池田輝政らの家康方先手勢が大垣城の攻囲を続けつつ、家康自身(徳川本隊)が大垣城の後詰で来援した南宮山の毛利勢を撃破するというものである。その点を考慮して石田方の意図を考える必要がある。

山中に布陣した石田方本隊は、家康が南宮山の毛利勢に対して攻撃を仕掛ければ、その背後もしくは側面に回り込み、徳川勢を南宮山の毛利勢と挟撃するつもりだったのではないだろうか。

ところが、そこに予想外の事態が起きる。土壇場で吉川広家が家康に対して「降伏」に近い形で攻撃中止を取り付けたのである。当面、南宮山の毛利勢との戦闘を回避した家康は、大垣城の石田本隊が関ヶ原方面へ転進したという報に接すると、石田方本隊の捕捉・撃滅に作戦を変更、大垣城攻囲中の先手勢も含めた家康方主力を関ヶ原方面へ向かわせたのだ。南宮山の毛利勢がすでに家康方に「降伏」しているなど考えもしていない三成らにとって、家康方主力が関ヶ原に進出してきたのは想定外の事態であったに違いない。

・・・石田方が大垣城を出た理由は、通説では西進する気配を見せた家康方を関ヶ原で迎え撃つため。なのだが、白峰先生の説によれば、家康の南宮山(毛利)攻めに備えた動きということになる。

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2017年9月16日 (土)

関ヶ原合戦のリアル(その1)

主に軍記物をベースに組み立てられた関ヶ原合戦の「通説」に対して、一次史料による見直しを進めている白峰旬先生。雑誌『歴史群像』10月号への寄稿「関ヶ原合戦の真実」の中で、合戦の新たな姿を提示している。まず決戦当日(1600年9月15日)直前の、家康方と毛利勢の動きについてメモする。

東海道を西上していた家康率いる徳川本隊は9月11日に清須へ着陣した。

この時点での家康の具体的な作戦については、関ヶ原合戦後の9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗の書状に詳しい。このなかで政宗は、家康方の作戦について、「(石田方本隊が籠もる)大垣城への押さえに以前から岐阜表に陣取りをしている衆(福島正則・池田輝政など)を差し向け、南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)が討ち果たすつもりである」と述べている。

毛利勢の撃破という明確な意図の下、家康は美濃へ軍を進め、13日には岐阜へ、翌14日、すなわち決戦の前日には、大垣の北に位置する赤坂へ進出した。この家康の着陣が石田方に大きな動揺をもたらすことになる。

まずは毛利勢である。家康方先手勢に攻囲された大垣城の救援のため、ひとまず南宮山に布陣したが、家康率いる徳川の大軍の出現という想定外の危機に陥る。その兵力差は歴然で、正面から対戦するのは圧倒的に不利な状況であった。そのため、家康との決戦を回避しようと動いたのが吉川広家である。

通説では、かねてより家康方と内通していた広家が9月14日に起請文を提出して毛利勢の合戦不参加を申し入れ、15日の合戦では広家のサボタージュ行為により、毛利勢は参戦できなかったとされている。

しかし、実際のところ、広家が行ったのは南宮山の毛利勢への攻撃中止を求める工作に過ぎない。端的に言えば、家康直率の徳川本隊の攻撃を恐れて家康に「命乞い」をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった。

・・・南宮山は大垣城の西、中山道の垂井の南に位置する。さらに垂井から西に進むと関ヶ原である。家康は自ら徳川の大軍3万を率いて、南宮山に布陣した毛利勢を攻める予定だった。この「家康の後詰決戦構想」は、白峰先生が上記寄稿で初めて示したとのことである。

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2017年9月10日 (日)

ルドルフ一世の志

ハプスブルク王朝の「始祖」として後世に記憶される、ドイツ王ルドルフ一世(1218-1291)だが、当人の意識としては、皇帝フリードリヒ二世(1194-1250)の後継者たらんとしていたという。『ハプスブルク帝国』(岩﨑周一・著、講談社現代新書)からメモする。
従来、ルードルフ一世のドイツ王としての活動に対する評価は低かった。しかし今日では、ルードルフがシュタウフェン朝、とりわけ皇帝フリードリヒ二世の後継者たることを自任し、帝国の再建に尽力したことが明らかにされている。
ルードルフ一世は、「巡幸王権」のスタイルを踏襲した。これは、特定の首都をおくことなく各地を王が移動し、諸侯・貴族・都市などの諸勢力と個別に関係を取り結びながら統治するもので、中世ヨーロッパ王権の基本的な統治スタイルである。ルードルフはこうして各地を巡り、権利関係を整理して「大空位時代」に失われた帝国領の回復に努め、王権を強化した。
ルードルフは歴代のドイツ王が葬られている大聖堂がそびえるシュパイアーで最期を迎えることを望み、シュタウフェン家のドイツ王フィリップの棺の隣に自身の棺を安置すること等を遺言した後、73歳でその生涯を閉じた。死を悟ってからのこの一連の行動は、ルードルフが正統なるシュタウフェン朝の後継者であることをいかに強く意識していたかをよく示している。
ルードルフは、かつてのシュタウフェン朝の地位にハプスブルク家を引き上げることこそが神意であると信じ、その生涯を送ったのであった。
・・・ルドルフのドイツ王選出の経緯については、フリードリヒ二世亡き後、皇帝の「大空位時代」が続いたドイツにおいて、選帝侯が自分たちの御しやすい皇帝として選んだ結果であると通説的に語られてきたのだが、その見方も修正されつつあるという。つまり、決して弱小貧乏伯ではなく、経歴と手腕から見て、充分王に相応しい人物として選ばれた、ということである。
またそれ以上に興味深く感じるのは、ハプスブルク王朝の始祖がフリードリヒ二世をリスペクトしていたという「つながり」である。おそらくルドルフにも、フリードリヒ二世は偉大な君主として強く記憶されていたのだろう。 

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