「義とされる」とは
人は信仰によって義とされる、って何のこっちゃと非キリスト教徒は思うわけだが、とりあえず『プロテスタンティズム』(深井智朗・著、中公新書)第3章からメモしよう。
キリスト教の救いとは「義とされる」ということである。しかし「義」とは説明の難しい考え方だ。
義とは神との関係の正しさのことであり、罪とはこの正しい関係の破壊のことである。
神の教えに反したり、神の存在や恩寵を否定したり、拒否することは罪である。関係が破壊されているからだ。人間が罪人であるのは、自らこの関係を破壊したからである。
この罪の状態では人間は天国に行けないのだから、神との壊れてしまった関係を修復しなければならない。
しかしルターは、人間の側の努力によって正しい関係を回復することや、自分は義とされたという確信を持つことは不可能だと考えた。
ルターが聖書に発見した事実は、神は義を持つだけではなく、それを与えることが可能だということであった。義人とは、神によって義とされた人を指すというのが、ルターが聖書を読み、そこから引き出した結論であった。
この神の義を人間が受け取るために、この世に来たのがキリストとしてのイエスである。キリストとしてのイエスは神の子であるから、まさに義を持った存在だ。罪や過ちのないイエスが私たちの罪や過ちを引き取り、その代わりに義を与える。
ルターはこの発見を、「キリストの義と人間の罪が交換される」という、いわば神秘主義的な表現によって説明した。
ルターは、神が人間を救うという行為を人間はただ受け取るのであり、神がなすことを信頼するのが信仰だと考えたのである。
・・・義とは、神との正しい関係である、と言われればまあ分かるような気もする。けど、義を「持つ」とか、「与える」とか言われると、やっぱりよく分からなくなる。はあ。
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