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2016年8月31日 (水)

進撃の「庵野ゴジラ」

庵野秀明の脚本・総監督による映画「シン・ゴジラ」。最初あんまり観る気がしなかった。だって「エヴァンゲリオン」の庵野だろ~。キモチワルイ出来になってるんじゃないか。実際、新ゴジラのビジュアルは自分には気持ち悪かったし。

ところが興行収入・評価共に良いという話を聞いて、いちおう見ておきますか、くらいの気持ちで先日映画館に足を運んだ。
そしたら、意外と面白かった。というか凄い映画だと思った。とにかく演出テンポが良い。そしてフルCGのゴジラ。東京に進撃して、自衛隊のヘリコプターや戦車からの攻撃をものともせずに、凄まじい破壊を続けるゴジラの姿を見ると、もう映画って、何でもCGで出来ちゃう時代なんだと思える。

これまでのゴジラ映画というと、人間の側は主人公たちの他は自衛隊と博士、みたいな感じだったと思うけど、「シン・ゴジラ」では政府関係者が大量に登場。勢い会議シーンも多くなるけど、演出テンポが良いこともあり飽きさせない。
そしてすでに多く語られていると思うけど、この映画はまさに「3.11」後のゴジラ映画だと言える。最初のゴジラ(昭29)はまさに原水爆、戦争の記憶を背負った怪獣として現われた。その30年後に復活したゴジラ(昭59)も、冷戦終盤の核戦争勃発の恐れを背景としており、核兵器と重なる大怪獣のイメージを大きく変えるものではなかった。ところが「シン・ゴジラ」がイメージさせるものは、制御不能状態の原子力発電所だ。最後のクライマックスであるゴジラ凍結作戦の場面も、福島原発事故の際の原子炉を冷やすための必死の放水作業を思い起こさせる。(最近のNHK原発事故の再現ドラマで所長を演じていた大杉漣が、この作品では総理大臣役で妙な既視感 苦笑)

「3.11」という未曽有の災害の経験の後に登場した「シン・ゴジラ」は、ゴジラの体現するものを「原爆・戦争」から「原発・災害」に転換してみせたのだ。同時に危機に立ち向かい対処しようとする人間、というか日本人の組織的な努力を描くことで、単なる怪獣映画を超えたリアリティを獲得していると思える。

「シン・ゴジラ」は公開1ヵ月で観客360万人を動員、興行収入は50億円を超えたという。この映画を見に行く理由は人それぞれだろうけど、この現象そのものが、日本人の「危機」に対する意識や感覚が、かつてよりも鋭敏になっていることを示しているのではないか。そんな感じがしてくる。

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2016年8月28日 (日)

ワイマール的混沌

昨今は「解釈改憲」批判と絡めてドイツのワイマール共和国、ヒトラー登場の時代について語る向きもちらほら目に付くなか、たとえば「先進的な憲法と民主主義的な選挙から独裁者ヒトラーは生まれた」という見方は、いささか誇張された歪みのある物言いではなかろうか。『デモクラシーは、仁義である』(岡田憲治・著、角川新書)からメモする。

アドルフ・ヒットラーは、第一次世界大戦後の混乱期にミュンヘンで無鉄砲な実力蜂起未遂事件を起こす危険人物とされました。しかし、その後国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を再建し、選挙のたびに躍進と没落を繰り返しつつも、他の自由主義、保守主義政治家が「あんなキワモノは私どもが管理しますから大丈夫です」と高をくくってヒンデンブルク大統領に言ってしまったことや、社会民主党と共産党の左派勢力の内ゲバも手伝って、1933年1月には政権の座に就いてしまいました。
間髪を容れず授権法という「すべての権力をヒットラー個人に授ける」、民主政治を即死させる法律を本当にわずかな審議で可決させ、以後ドイツとヨーロッパを暗黒の世界へと導いていきます。

ヒットラーが全権を握り、地獄への道に轍をつけ始める直前に、ドイツは当時の世界ではもっとも先進的な憲法である、ワイマール憲法を持っていました。このドイツの憲法は「権力の制限」という立憲主義にくわえて、人権規定からもう一歩踏み込み、社会権すら盛り込んだものでした。
しかし、どれだけ立派な統治の設計図(憲法)があっても、「でもそんなの関係ねぇ!」と誰かが言って、それを放置するなら、絵に描いた餅です。

ヒットラーは政権についてすぐに「憲法を停止してあらゆる権限を行政に与える」という、ワイマール憲法のアキレス腱である「緊急事態条項」を多用します。ナチスやヒットラーに批判的だった言論人、政党人、政治家が2万5000人以上も牢獄に入れられたことも忘れてはなりません。そして、その力でついにあの「授権法」が作られます。

言い換えれば、ナチスの台頭を招いたのはもっぱらワイマール憲法「だったから」ではありません。その制度をきちんと運用して、立憲政治を命がけで守ろうとするエリートの危機感が足らず、最後までヒットラーとナチスを「キワモノ」扱いをしたという、民主政治の具体的「運営」だったということです。

・・・独裁者ヒトラーは、いわば「政局」の産物だった。ドイツの保守的エスタブリッシュメント層が、台頭するナチスと共産党、二つの勢力から「よりまし」な方を選んだにすぎない。ところが、ナチスが簡単に手懐けられると思ったのは、大きな見込み違いだった。保守層はナチスを甘く見ていたというほかない。
さらに当時のドイツ国内外の政治経済状況を見れば、敗戦と帝国崩壊、左右両勢力の衝突、ヴェルサイユ体制、ハイパーインフレ、そしてアメリカ発大恐慌と、まさに大事件が積み重なる歴史的「混沌」状況の中から、独裁者が生まれたと考えるべきだろう。
そんなこんなで、「民主的憲法から独裁者が生まれた」というのは、面白おかしい言い回しとしては有りだと思うけど、歴史認識として正確かと言えば、それはないだろうと。

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2016年8月 9日 (火)

「株主主権論」と「格差拡大」

本日付日経新聞「経済教室」、岩井克人先生の寄稿(「株主主権論」の誤りを正せ)からメモする。

米国の共和党大会で不動産王ドナルド・トランプ氏が大統領候補に選出され、英国の国民投票では欧州連合(EU)離脱派が過半数を制した。
この2つの出来事には多くの共通点がある。移民への反感、自由貿易への抵抗、金融自由化への反発。だがこうした反グローバル主義の底流にあるのは「格差」の拡大だ。グローバル化の中で巨万の富を得ているエリート層に対して、残りの非エリート層が異議申し立てをしているのだ。

格差批判は世界的な広がりを持つ。だが私が注目するのは、それが米英で最も先鋭的な形で表れたことである。両国での格差の急拡大こそ、米英型資本主義が旗印にしてきた「株主主権論」の破綻を意味するからにほかならない。

株主主権論とは、会社は株主のものであり、経営者は株主の代理人として、株主資本の収益率を最大化すべしという主張だ。だが株主主権論の旗印の下で実際に大きく上昇したのは、資本所得ではなく、経営者の報酬だった。

米国では最高経営責任者(CEO)と平均的労働者の報酬の比率は60年代には25倍だったのが、近年では350倍以上になっている。150億円という天文学的な報酬を稼ぐCEOもいる。経営者報酬の高騰こそ、米国での格差拡大の最大の原因だ。

なぜこうした逆説が生まれたのか。それは株主主権論が理論上の誤りだからだ。
株主主権論は、会社の経営者には会社に対する「忠実義務」という倫理的義務が課されていることに目を塞いでいる。会社は法人である。法律上の人でしかない会社を現実に人として動かすには、会社に代わって決定を下し契約を結ぶ生身の人が不可欠だ。それが経営者なのだ。もし経営者に自己利益の追求を許すと、会社の名の下に自分を利する人事決定や報酬契約を行うことが可能となる。それを抑制するのが忠実義務である。

ところが株主主権論は、経営者は株主の代理人だと称して、この倫理的義務を株式オプションなどの経済インセンティブ(誘因)に置き換えてしまった。まさにそれは、自己利益追求への招待状だ。そして実際、米英の経営者は自らの報酬を高騰させ始めた。その帰結が、トランプ旋風とEU離脱派勝利なのだ。

・・・1980年代末の社会主義の消滅以降、経済のグローバル化と共に、新自由主義あるいは株主資本主義が蔓延した。しかし今や冷戦終了後の時代の流れは、確かに曲がり角に来ていると思われる。その感覚から、「冷戦後」は終わった、という認識を導き出しても良いだろう。

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