デカルト的「精神」は近代的「魂」
『哲学のメガネ』(三好由紀彦・著、河出書房新社)第3章「死を経験したものは誰もいない?」からメモする。
デカルトは、「私は考える、ゆえに私はある」という命題の完全性、絶対性はどこから由来するのかを引き続き探求しようとする。デカルトは次のように語る。
当の観念は、私よりも完全でかつ私が考えうるあらゆる完全性をみずからのうちにもつところの存在者、すなわちひとことでいえば、神であるところの存在者、によって、私のうちにおかれたものである、というほかはなかった。(「方法序説」)
デカルトは、この「われ思う、ゆえにわれあり」の根拠をけっきょくはキリスト教の神、すなわち死後の世界の神に求めざるを得なかった。ゆえに彼にとって「われ=精神」とはあくまでも「死後の経験=霊魂」と同じものだったのである。
デカルトは人間的自我を目覚めさせ、近代哲学の扉を開けたものとされているが、その物心二元論によってむしろキリスト教的世界観は強化され、また彼の自我の背後には神がしっかりと仕込まれていたのである。
・・・デカルト的物心二元論における実体とは、精神と物体である。人間の理性は神の理性の分有であるならば、理性を持つ精神は、「魂」の近代バージョンと思えばいいんだろうな。
正直なところ「我思う故に我在り」というフレーズ、どうもこれだけでは分かるような分からんような、と昔から感じていた。近頃思うのは、哲学も歴史的産物というか、時代背景も見た方がいいな、ということ。西洋哲学はやはりキリスト教的な思考のバイアスがかかっているわけだし、デカルトが生きていたのは三十年戦争の時代。宗教分裂により混乱する社会の中で、確実なものを求めたデカルトは「我思う故に我在り」に辿り着いた。ということなんだろう。
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