吉川広家陣跡
今秋のJR東海さわやかウォーキングは、「家康公400年」ということで関連コースを多数設定。本日開催の「家康」ウォーキングは、関ヶ原駅を出発して古戦場の中心から東に向かい、中山道を進んで地元の市民まつり「ふれあい垂井ピア」にも立ち寄りながら、垂井駅に至る約12.1㎞のコース。
関ヶ原の西軍陣地、東軍陣地は何度か歩いたことがあるけど、今回のコースに含まれていた徳川家康の桃配山陣地のほか、山内一豊、浅野幸長(よしなが)、池田輝政、吉川広家の各陣跡は、いずれも自分は初めて訪問する場所でした。
特にどんな場所なのか興味を持っていたのは吉川広家の陣地。まあ実際の現地は空き地に看板と旗が立っているだけなんですが。
西軍に属する毛利陣営の吉川広家は、親しい間柄の黒田長政を通じて東軍との和睦を画策。戦闘不参加も約束して、これで毛利家は安泰と信じていた。
決戦当日、家康の背後を突くこともできる場所に毛利軍は布陣していたが、最前列の広家の部隊が何のかんのと理由を付けて動かなかったため、毛利軍は陣地に釘付けにされたまま、戦いは東軍勝利に終わった。
戦後、西軍の「総大将」毛利輝元の責任を重く見た家康は、いったんは毛利家取り潰しの方針を打ち出す。広家は愕然としただろう。本家存続を必死に訴える。家康も考え直して、広家に与えるはずだった周防・長門2ヵ国を毛利の所領とすることに決着。毛利家は120万石から30万石の大名に成り下がり、広家は岩国3万石の領主に収まった。
凋落はしたが、とにかく存続した毛利の長州が、260年後には徳川幕府打倒に向けて走り出すのだから、何にせよ吉川広家の行動は後世に大きな影響を及ぼした、と思うと歴史の妙を感じる。
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