カール4世の「金印勅書」
神聖ローマ皇帝、カール4世が発布した「金印勅書」(1356年)。皇帝選挙を制度化したこの法令において、皇帝を選ぶ権利を持ついわゆる「選帝侯」7人のメンバーから、なぜハプスブルク家が外されていたのか。昨日の朝日カルチャーセンター「神聖ローマ帝国とハプスブルク」(皆川卓先生)講義資料からメモする。
金印勅書は皇帝の選挙手続きを定めると共に、今後皇帝を選ぶ選挙権を持つ諸侯「選帝候」を限定。3人の聖職者諸侯であるマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教と、4人の一般諸侯であるボヘミア王、ライン宮中伯(のちプファルツ選帝候と呼ばれる)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯である。カールのルクセンブルク家が君臨するボヘミア王が入っている反面、ハプスブルク家のオーストリア公とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公は外されている。
多くの歴史家はこのことから、帝位争いのライバルであったハプスブルク家とヴィッテルスバッハ家を選挙権者から外すのが、「金印勅書」の目的であったと推定している。
しかし最近は、ドイツの法制史家アルミン・ヴォルフの発表した新解釈が支持されつつある。
ヴォルフによれば、「選帝侯」となった諸侯は、全てこれまでの神聖ローマ皇帝の即位式で儀典を務めた聖職者か、初代神聖ローマ皇帝オットー1世(911~73)の女系のみで繋がる子孫である。これに対して、ルクセンブルク、ヴィッテルスバッハ、ハプスブルクの3家は、オットー1世と男系および女系でつながり、選ぶ側の諸侯よりも明らかに過去の皇帝に近い血統である。これは、はるかに格式が高いことを意味する。
従って皇帝選挙は、初代皇帝の広い意味での「ファミリー」による家長選びであり、3家はその中で「選ぶ側」ではなく「選ばれる側」(つまり皇帝の有資格者)であったと推定される。
この説によれば、ハプスブルク家が「金印勅書」を恨む筋合いは全くなかったことになる。しかし、皇帝カール4世は、一つだけこの「隠された掟」を破る条項を滑り込ませておいた。それは自家ルクセンブルク家のボヘミア王を「選ぶ側」=選帝侯にも入れていることである。従って「金印勅書」の発布によってルクセンブルク家は他の2家にもない「自分で自分を選ぶ」お手盛りの特権を得たわけで、ルクセンブルク家が帝位争いで一歩リードしたのは否定できなかった。
・・・皇帝選挙を自らに有利な仕組みとしたルクセンブルク家だったが、金印勅書からおよそ80年後に断絶。帝位の転がり込んできたハプスブルク家は以後、皇帝世襲体制を確立していくことになる。
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