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2014年5月24日 (土)

マクシミリアンと同時代の教皇

最近、江村洋先生の書いたハプスブルク君主の評伝(カール5世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ)が次々に文庫化された。結構な事だと思う。で、関連する江村作品はあとひとつ、『中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン一世伝』がある。でも、これは文庫化しないような気がしたものだから、とりあえず図書館から借り出して読んでみた。

マクシミリアン一世(1459~1519)は苦労の多いドイツ王(神聖ローマ皇帝)だった。何しろまず国内のドイツ諸侯が言うことを聞かない。ライバルのフランス国王は性格の悪い人が続くし、ローマ教皇も癖のある人ばかり。これらの人々に囲まれた皇帝は、戦争をやるための資金繰りにいつも頭を悩ませていたという印象。

で、今さらながら気が付いたのは、マクシミリアンの時代の、要するにルネサンス最盛期のローマ教皇は、頭に「超」の付く生臭坊主の時代だったということ。アレクサンデル6世、ユリウス2世、そしてレオ10世。『ローマ教皇事典』(三交社)を参照してメモする。

アレクサンデル6世(在位1492~1503)
ボルジア家出身の悪名高い教皇。チェーザレ・ボルジアの父。聖職者でありながら、子供を多数もうけた。教皇選挙の際は、なりふり構わず賄賂をばらまき役職を約束して必要な票を獲得。教皇就任後の関心は、もっぱらボルジア家の繁栄と自らの贅沢三昧・放蕩三昧の生活に向けられた。チェーザレのローマ貴族および教皇領征服計画を支援、教皇領のほとんどはボルジア家の領地に。
1509年8月18日急死。毒殺も疑われたが、実際にはマラリアが死因らしい。

ユリウス2世(在位1503~1513)
戦争と芸術擁護で知られる教皇。アレクサンデルを継いだピウス3世の一ヵ月弱の短い在位の後、巧妙に賄賂を配り役職を約束して、教皇の座を射止める。その在位の始まりの日から、1513年2月21日、熱病で死去する日まで、ユリウスは、教皇庁が失った領地を取り戻すために、あるいは教皇領を狙う外国の野望を打ち砕くために、教皇軍の先頭に立って戦場を駆け回っていた。
美術のパトロンとしての貢献大。ブラマンテ、ラファエロ、ミケランジェロらを手厚く庇護。

レオ10世(在位1513~1521)
メディチ家出身。当時の最高の人文主義者たちから教育を受ける。38歳の若さで、賄賂も聖職売買も使わず教皇に選ばれた。
レオは莫大な教皇庁財産を、狩猟、舞踏会、晩餐会、観劇その他のありとあらゆる贅沢・娯楽に費消。間もなく教皇庁の財政は破綻、レオは銀行家から高利の借金をする羽目になり、さらにその返済のために免罪符や枢機卿位をせっせと売ることになる。
レオの治世に暗い影を投げかけたのがマルティン・ルターだった。レオの後継者たちは宗教改革の矢面に立たされる羽目になるのである。

・・・時はルネサンス、人間らしさにポジティブな時代。教皇も人間味あふれるというかあふれすぎの、人間臭いというか人間臭すぎる時代だった、ということかいな。

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