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2014年4月30日 (水)

廃線跡を歩く(愛岐トンネル群)

先日、日経新聞文化面の廃線トンネルの記事を見て、とりあえず名古屋行きを決定。27日の日曜日に現地、「愛岐トンネル群」を訪ねた。

まずは名古屋駅から定光寺駅に向かう。ここは「さわやかウォーキング」で来たことあるな。結構たくさんの人が降りる。大多数はトンネルの一般公開を目指して、駅から北に向かって歩き出す。しばらく庄内川沿いに進んだところで、小さな崖地に設置された急な階段を上り高台に出ると、スタート地点となる3号トンネルが現れる。(下の写真)

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トンネルは1号から14号まで、9号が撤去されているため、全部で13が残る。公開されているのは3号から6号までの4つのトンネル。下の写真は5号トンネル。

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5号トンネルと6号トンネルの間の「広場」では、コンサートもやってた。

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公開コースは全長1.7kmを往復する。下の写真は今のところゴール(折り返し)地点になる6号トンネルの多治見口。6号の長さは333m、これは4つのトンネルの中で最長。

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ということで以下に、日経新聞4月24日付文化面「忘却のトンネル 再生の光」(愛岐トンネル群保存再生委員会事務局長の村上真善氏)から一部を引用する。

旧国鉄中央線の高蔵寺駅(愛知県春日井市)と多治見駅(岐阜県多治見市)を結んだ廃線跡に13基のトンネルが今も残る。開通は1900年。複線電化された新線の建設により、1966年に廃線になった区間だ。

これだけ多くの廃トンネルが集まっている場所は全国的にも珍しいという。2009年にはJR定光寺駅(春日井市)と岐阜県との県境の間にある4基のトンネルが経済産業省の「近代化産業遺産」に指定された。

実は、これらのトンネルは旧線の廃線後、40年以上も放置され地元でも忘れ去られていた。私が事務局長を務める「愛岐トンネル群保存再生委員会」は07年、トンネルの再生を目指した活動を開始。雑木や雑草、竹やぶを取り払い、レンガや植生などについても調査。

定光寺駅を起点にした春と秋の年2回の一般公開では昨年、計2万人の来場者があった。
12年には廃線を活用した町おこしに取り組む各地の団体を招いて「全国トンネル廃線活用サミット」を開催。
今後の目標は、定光寺駅から次の古虎渓駅(多治見市)までの廃線を歩き通せるようにすること。

・・・今回の春の公開は終了、次の秋の公開は11月下旬とのこと。歩行コース延長の実現はもちろん、できれば公開の回数や期間も拡大されるといいな。

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2014年4月28日 (月)

16世紀、銀が変えた世界

今の世界の基礎は16世紀に形成された。『中国化する日本 増補版』(與那覇潤・著、文春文庫)からメモする。

明朝時代の中国人はとにかく銀に飢えているので、銀さえ持っていけば代わりに何でも売ってくれます。かくして西はラテンアメリカから東は日本まで、全世界の銀がブラックホールに吸い寄せられるがごとく中国へ一方的に流入するという、1500年代後半の現象を「銀の大行進」と呼びます。これがその後の世界を変えたのだというのが、現在のグローバル・ヒストリーの一番の基本線です。

日本で戦国時代と呼ばれる16世紀は、実は全世界が戦国乱世になります。
そして、この大混乱をどのように収拾したかが、それぞれの地域の将来を決定することになる。私は「世界中のいかなる地域であっても、1600年頃に作られた社会が、今日まで続いているんだと思え」と、あらゆる授業で言っています。つまり日本なら江戸時代、中国では明朝にとってかわった清朝、ヨーロッパでは宗教戦争を収束させたいわゆる「ウェストファリア体制」=近代主権国家のレジームです。

「銀の大行進」がもたらしたのが、かの有名な産業革命です。
これまでも見たこともないような銀の大量流入によってインフレーション(価格革命という)が起きた。
長期にわたるインフレというのは、要は今借金をしても返済時には負債が大幅に目減りしているということですから、ここは一発、大規模に資本を投下して起業してみるか、という話になる。こうして産業資本が生まれ、「世界の辺境の後進地帯ヨーロッパが、文明の中心たる中国を追い抜く」という奇跡の逆転劇が起きたというのが、現在の西洋史の通説的理解です。

・・・16世紀、日本はもちろんドイツも戦国乱世だった。自分も織田信長とカール5世をアイドルとするだけに、16世紀が世界史のターニング・ポイントというのは充分「実感」できます。

ところで、この本の主題である「中国化」については、自分にはあまり腑に落ちない概念だった。宋王朝の体制が今のグローバリズムの走りとか言われても、「ソウなんですか」というオヤジギャグ的反応するしかないような(苦笑)・・・本の結論部分を読むと、ヨナハ先生どこまで本気なのって感じもする。

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2014年4月26日 (土)

「ウィーン包囲」の映画

映画「神聖ローマ、運命の日」は、17世紀のオスマン帝国のウィーン包囲を描いた作品。以下に、プログラムの解説コラムからメモする。(寄稿者は菊池良生・明治大学教授。ハプスブルク分野ではお馴染みの先生)

1683年のことである。
この時、トルコはバルカン半島を制圧し、さらにはハンガリーのほぼ3分の2を手中にしている。残るはいよいよウィーン。ルイ14世からフランスの中立の約束を取り付けたスルタンは、大宰相カラ・ムスタファに30万の軍隊を与えウィーンを包囲させた。7月早々のことだ。世に言う第二次ウィーン包囲である。(第一次は1529年)

13世紀以来、ウィーンを城下町として膝下に押さえ、15世紀からは神聖ローマ皇帝(ドイツ王)位をほぼ独占してきたハプスブルク家はこの時、苦境にあった。
ドイツ
30年戦争(1618~48年)の敗北で、皇帝家ハプスブルク家の権威は地に落ちていた。神聖ローマ帝国(ドイツ王国)はドイツ諸侯の分権支配にあった。それをハプスブルク家は、この戦争を通じて一元的中央集権体制に衣替えしようとしたのである。しかしそれはものの見事に失敗し、ドイツのグロテスクなまでの分裂が固定化した。
戦後、フランスが超大国となり、ハプスブルクは今やトルコの脅威にさらされているのだ。

しかし、こうなると神の摂理が働くものである。神の見えざる手が、あまりにもフランスに振れすぎた振り子を少し戻すのだ。
まずはドイツ300諸侯。もともと分権支配なのだから、帝国には全国的徴税システムなどはありはしない。ところがプロテスタント諸侯も含めて、ドイツ諸侯はトルコ税(対トルコ戦軍事費)だけは徴収に応じるのだ。
次に超大国フランスを警戒するオランダ、イギリスらヨーロッパ各国の思惑があった。

こうしてハプスブルクは第二次ウィーン包囲を乗り切った。それだけではない。ハプスブルクの名将、プリンツ・オイゲンは1697年7月、ゼンタの戦いで自軍に倍する10万のトルコ軍を大破した。その2年後、トルコは屈辱的なカルロヴィッツ条約により、ヨーロッパへの領土的野心を放棄することになった。

・・・映画は、神聖ローマの話というより、オスマンのカラ・ムスタファの映画という感じ。(しかし修道士マルコって、結局この人何なんだかよく分からないっす)

プリンツ・オイゲンはチョイ役。この時がデビュー戦だから仕方ないですけど。

ポーランドはこの頃は強かったみたいだな。18世紀には国が無くなっちゃいますが。

最近の映像作品は肉弾戦の場面がリアルなので(「レッド・クリフ」とか「坂の上の雲」とか)、見るからに「痛い」し、何で人間はこんなことずっとやってきたのかと思っちゃう。

しかしイスラムのヨーロッパ攻撃を描いたこの映画の原題が「1683年9月11日」というのは、どういう意図があるのかね。実際には、決戦の日は9月12日だったみたいだし。

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2014年4月24日 (木)

竹田城の背後に秀吉あり

「天空の城」として人気を集める竹田城。山上の巨大な石垣が築かれた理由とは――日経新聞電子版4/20付の記事からメモする。

朝来市埋蔵文化財センターの田端基館長によると、竹田城の石垣が現在の姿に整備されたのは戦国時代末期の1590年代中ごろ。当時は石垣の上にやぐらや天守といった建築物もあったらしい。「これほどの石垣を持つ山城は全国的にもまれです」

どのようにして造られたのか。「坂の勾配がきついので麓から石を運ぶのは難しい。山の至る所にある石取り場から滑車などを使って人力で引っ張り上げたと想像されます」(田端館長)

地元の観光案内所が配布する資料には、「1585年、赤松広英が竹田城主になる」との記載がある。放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場する若き戦国武将だ。領地の大きさを示す石高は約2万2千石と当時の徳川家康の100分の1以下。日本屈指の山城の主にしてはいささか物足りない。

朝来市教育委員会の中島雄二さんは、「小さな大名である赤松広秀だけで築城できる規模ではない」と断言する。「時の権力者である豊臣秀吉の意向が働く国家プロジェクトだった可能性が高い」

中島さんは、竹田城から直線距離で約15キロメートルの場所にある生野銀山(兵庫県朝来市)の存在を指摘する。当時の生野銀山は石見銀山(島根県大田市)、多田銀山(兵庫県猪名川町)などと並ぶ一大鉱山。1567年には日本最大の鉱脈が発見され、古文書に「銀の出ること土砂のごとし」と記されるほど栄えていた。

豪華絢爛な建造物を愛する派手好みな秀吉にとって、生野銀山はいわば“お財布”。そんな重要拠点を守るべく「にらみを利かす役割」(中島さん)を担ったのが、竹田城だったわけだ。

秀吉の死後まもない1600年、石田三成率いる豊臣方は関ヶ原の戦いで敗北。豊臣色を排除したい徳川幕府の誕生で、竹田城は10年にも満たない短い栄華を終え、歴史のうねりに消えていった。

・・・竹田城が天下支配の要のひとつとして威容を誇っていた時期はごく短かったようだが、残された姿は今でも、人々に驚異に近い賛嘆の念を呼び起こす。当時の土木建築技術水準の高さを、山上の巨大石垣群はこれからも長きにわたって伝えていくはずだ。

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2014年4月21日 (月)

「劣化した55年体制」の閉塞

歴史学者の與那覇潤は、今の政治状況を「劣化した55年体制」だと評している。以下に、『中国化する日本・増補版』(文春文庫)に収められた宇野常寛との対談から、與那覇先生の発言をメモする。

いまにして振り返ると、「政権交代さえすればうまくいく」というのが、日本に残っていた最後の「西洋化のストーリー」だったと思うんです。欧米並みに政権交代のある民主主義にすれば、それでOKなんだと。ところが鳩山政権でみんながっくり来て。

インテリ層が「政権交代可能な二大政党制」を高望みしたのが90年代以降の政治改革だったけど、結果としていまは社会党がなくて、公明党が与党に回ってしまった「劣化した55年体制」になっている。

それ(第2次安倍内閣)が長期政権になってゆくとすると、将来、細川連立も小泉改革も民主党政権もぜんぶ「行政改革の担い手」をめぐる混乱に過ぎなくて、日本は首尾一貫して55年体制を基盤とする、オールド自民党の治める国なんだという物語が公定の歴史観になるかもしれない。

・・・昨年末に、政界再編というか野党再編を目指して「結いの党」(変な名前だ)が旗揚げした時も、何だかピンとこなかったけど、これはおそらく「二大政党制」はもう無理だ、できない、ダメだという感じが世の中的にも漂っているからじゃないだろか。で、結局ベテランの政党にやってもらうしかない、みたいな。別にそれが「良い」と思ってるわけでもないけど、それこそ細川も小泉も民主党も何だったんだ、20年経ってもこれかい、という薄ら寒い思いが残る中、現実にはそれしかない、という感じかと。

「劣化した55年体制」はいずれは打破される・・・こともしばらくなさそうなので、これも何となく崩れていくのを待つしかないとすれば、しょうもない現実はまだまだ続くことになる。のかね。

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2014年4月20日 (日)

科学信仰、「ニュートン教」の限界

生物学者の本川達雄は、自然科学を「ニュートン教」と呼んで批判する。以下に『池上彰の教養のススメ』(日経BP社発行)から、本川先生の述べるところをメモする。

生物にとっては常に現実だけが正しい。理想は存在しない。なにせ生物の都合と関係なく、環境は変化し得るわけですから。そんな環境=現実に、自らを合わせることで生物は生き残ってきた。それが進化です。進化とは、理想へ向かっての進歩とは、まったく違うものです。ところが生きものの中で人間だけは違う道筋を辿りました。古代ギリシャ以来、現実じゃない、脳内でつくりあげた理想こそが正しいとした。究極のイデアの世界を追い求め、宗教をつくって神の世界を想像した。対する現実は、理想に届かぬできそこないのような扱いを受けています。マルクス主義もそうでしたね。
宗教が
理想とする「あの世」だけを考えて、「この世=現実」をないがしろにするのは本末転倒でしょう。

ところが文明が進んでいくと、旧来の宗教とは全く別の、新しい「宗教」を人間はつくり上げてしまった。宗教的な「あの世」に対する、「この世」の真理を記す宗教。それが自然科学です。自然科学の代表が古典物理学で、大成したのがニュートンですから、私はこの宗教を「ニュートン教」と呼んでいます。

ニュートン教に入信すると、科学の理論を疑いのない「真実」として受け止めてしまう。根本的な「なぜ」を問わなくなる。科学ばかりを見て「現実」を見なくなる。

ニュートン教では、科学はいつも進歩し、右肩上がりに進行していきます。元には戻りません。資源が無限にあればこれでよいかもしれませんが、有限な世界では、このやり方では、いつか破滅するしかありません。地球が保ちませんから。

・・・「あの世」と「この世」という言葉を使って、自分なりに言い直すと、西欧形而上学(キリスト教とプラトン哲学の合体)とは、「あの世」に「この世」を動かす原理があるとする思考だ。つまり「あの世」は絶対的で完全、「この世」は相対的で不完全。「あの世」は「この世」に対して優位にある。という思考。

しかし科学は、「この世」の中に「この世」を動かす原理を発見した。物理法則だ。科学はその原理を応用した技術を進歩させて、文明を大いに発展させた。

生物は環境=現実に自らを合わせる。ところが人間という生き物は、自分の望むように現実を作り変えてきた。その活動は科学の発展と共に加速し、いまや自らの生存基盤である地球環境の破壊につながりつつある。宗教や形而上学は「この世」を観念的に蔑ろにしたが、「ニュートン教」は「この世」をまさに物理的に脅かしつつあるのだ。

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2014年4月 6日 (日)

平等院を見に行く

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大修理のほぼ終了した平等院を見に行った。
鳳凰堂は赤味の強い朱色に塗りなおされて面目を一新。

天気は曇り一時雨、時に晴れ間も出るという不安定な気候。それでも修理が終わり内部拝観も再開したばかりということで、多くの人が訪れていた。自分が入ったのは朝9時半頃だったが、拝観は既に2時間待ちの状況。内部拝観はまたの機会にして、ここに来れば当然のように、隣接しているミュージアムに入り、雲中供養菩薩像を見る。

雲中供養菩薩像。今年の1月も、サントリー美術館の展覧会で間近に目にする機会があった。なぜか僕は雲中供養菩薩像がとても好きで。11年前に、この平等院のミュージアムで初めて見た時は、彼らの奏でる音楽が聞こえてきたような気がした。日本人の繊細かつ洗練された感性が作り出した本当に素晴らしい彫刻作品だと思う。

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2014年4月 2日 (水)

和食とは何ぞや、と考える

カレーライスやラーメンは和食に入るのか?・・・ヤフーニュースにピックアップされていた「アエラ」3/31号記事からメモする。

寿司にとんかつ、てんぷら、カレーライス・・・・・・日頃食べている料理の、どこまでが和食なのか。

『和食と日本文化』(小学館)などの著書がある国士舘大学教授の原田信男さんは、「日本人が作り出した日本にしかない料理」と定義する。独自の発展を遂げたカレーライスやラーメンも、和食に入るという。
原田さんは、「和食の原型が完成したのは室町時代」と言う。中国から精進料理が入ってくると、素材を加工し昆布出汁をベースに味付けして出すようになった。江戸時代後期になると、上流階級の食文化が庶民にまで広まる。
1871(明治4)年、天皇の「肉食再開宣言」後、西洋料理、中国料理が積極的に取り入れられ、和食と組み合わせる折衷料理が発展し、現在に至る。
「和食の内容は時代によって違うし、文化は様々な国や地域との相互関係の中で発展
するもの」(原田さん)

一方、和食にカレーやラーメンを入れるかは微妙、と言うのは、『家庭料理の近代』(吉川弘文館)などの著書がある東京家政学院大学名誉教授の江原絢子さん。江原さんが考える和食とは、ご飯に汁やおかずを合わせる料理だからだ。
「歴史の中で一番長く続いてきたのが、コメなど穀類を炊いたご飯を主食にする文化です」(江原さん)
近代を、西洋料理や中国料理をいかにご飯に合わせるか工夫した時代と位置づける。

・・・自分は、カレーライスやラーメンを「和食」とは呼べない。「日本食」とか「国民食」なら、オッケーなんだけど。定義のことで言えば、自分は江原さんに近い。要するに和食とは「伝統的な日本食」であり、「近代的な日本食」であるカレーやラーメンは和食ではない、と思う。

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