ニーチェの敵はパウロ
先日、池田信夫先生のブログで「パウロ主義批判として読めば、ニーチェは今でも価値がある」との指摘を目にした時、自分の中で、ある本の内容とリンクする感覚があった。その本、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(深井智郎・著、岩波書店)の第4章「ニーチェは神学を救うのか」からメモする。
ニーチェも(その友人である神学者の)オーファーベックも、イエスの教えのラディカルな神の国の到来の教えや現世批判を再解釈して、「キリスト教という宗教」を生み出してしまったパウロやカイサリアのエウセビオスを批判した。
彼らによれば、イエスとパウロの間には明らかな断絶がある、ということになる。
イエスが教えたのは、この世の倫理・道徳・社会制度や国家の終焉であった。ところがパウロもエウセビオスも、イエスが教えたような神の国の到来、この世の終わりではなく、現世を生き抜くための宗教団体としての教会的キリスト教を作り出してしまい、イエスが教えた福音をこの世の道徳にしてしまう基盤を作り出したというのである。それ故に、ニーチェが批判しているのは、イエスではなく、パウロ的な宗教としての教会的キリスト教ということになる。
それではイエスは何を教えたのか。それはこの世が終わって到来する「神の国」、つまりこの世はもう終わるのだという緊迫した、ラディカルな終末論である。それは強力な現世否定であるから、この世の価値観や市民道徳であるはずもない。
ニーチェによればこの世の市民道徳となったキリスト教ほどイエス本来の教えと矛盾し、それからかけ離れてしまったものはないということになる。これがニーチェのキリスト教批判の基本構造である。
・・・どんな宗教も、最初から今あるような形であったわけではない。当たり前だけど。つまり宗教も歴史的に形成されるものである。欧米社会の基盤体制としてのキリスト教にも、長い歴史がある。その基礎はパウロが築き、やがてローマ帝国の国教となる。そしてカトリックと正教に分裂し、さらにカトリックの中からプロテスタントが現れる・・・。このパウロに始まる教会的キリスト教の制度的発展、その歴史の帰結として整えられた市民道徳は、ニーチェの眼には人生を生ぬるいものにする「頽廃」的な規範としか見えなかった。
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