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2013年12月 7日 (土)

神聖ローマ帝国とヘーゲル

昔は哲学といえば、時代を超越する普遍的真理のイメージがあったような気もするが、今はどうなんだろう。自分的には、結局のところ哲学も歴史的社会的文化的産物であるというほかない感じだな・・・『ヘーゲルとその時代』(権左武志・著、岩波新書)「第2章 帝国の崩壊と『精神現象学』」からメモする。

ヘーゲルは、1801年から翌年にかけて「ドイツ国制論」主要草稿を執筆し、歴史的転換期にあるドイツの現実を論じている。
では、ヘーゲルが属していた神聖ローマ帝国とは、どのような政治秩序であり、現在の国民国家とはいかに異なっていたのだろうか。

神聖ローマ帝国には、次の三つの政治的特徴があった。
第一に、帝国の中心をなす皇帝は、古代ローマ皇帝を継承するヨーロッパ唯一の皇帝を自任するとともに、カトリック教会の守護者として北イタリアを長らく支配した。皇帝の位は、相続されず、選帝侯により選挙で選ばれた。
第二に、帝国の政策の多くは、選帝侯、聖俗の諸侯、帝国都市代表といった帝国の諸身分が参加する帝国議会で決定された。
第三に、聖俗の諸侯は、皇帝から授与された帝国封土として領邦(ラント)をそれぞれ支配する領邦君主でもあった。ドイツの宗教内戦を終わらせたウェストファリア条約(1648年)の結果、皇帝権力が制約される一方で、それぞれの領邦君主へ集権化する領邦絶対主義が進んだ。このような状態は、今日の主権国家からおよそ程遠いものである。

ドイツ観念論の精神史的背景としてプロテスタントの神学的伝統、古代ギリシアの発見、さらに第三に挙げられるのは、帝国における政治的統一の不在である。

1790年代に対仏戦争の対外危機が迫った時、帝国が内部分裂する傾向が次第に加速していく。
バーゼル講和条約(1795年)に示されたプロイセンの対仏戦線離脱、そしてラシュタット会議(1797年)に見られたフランス共和国の帝国化こそ、ヘーゲルが「ドイツ国制論」を執筆する直接の動機だった。

・・・17世紀前半の三十年戦争とウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国は事実上解体。ドイツの国情に由来する「分裂と統一」は、ドイツ観念論(特にカント後)の思想的課題となる。ヘーゲルの「ドイツ国制論」は完成を見ないまま、1806年に神聖ローマ帝国の終焉が公式に宣言される。翌1807年、『精神現象学』公刊。「分裂と統一」の克服を目指すヘーゲルの思弁、その本格的な第一歩である。

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