« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »

2013年12月29日 (日)

キリスト教を創ったパウロ

パウロについて、『聖書の常識』(山本七平・著、文春学藝ライブラリー)からメモする。

「パウロなくしてキリスト教なし」ということは確かにいえる。その意味で彼は、以後の西欧文明の方向を定めた、というより、世界の文明の方向を定めた人といえる。

パウロには「内なる人」と「外なる人」という言葉があるが、この考え方もこれに該当する言葉も旧約聖書にはない。いわば、この思想は新約聖書、とくに国際人パウロにおいて独特なものと考えられる。

パウロにこの独特な思想が出てくるのは、やはり彼の生涯との関係で理解すべきであろう。いわば彼の一生は「外なる人」としてはローマ法に従い、その保護をうけ、また自らもそれを利用する人間だが、「内なる人」はあくまでも、ユダヤ人であった。

だがこれは、ユダヤ人には認め得ないことであった。彼らにとっては、神との契約が絶対であり、その契約である律法を厳守することが信仰であり救済であるから、パウロのような考え方をうけ入れる余地はあり得ない。

そしてこの考え方は、「内なる規範」と「外なる規範」というかたちで、その後の西欧文明の方向を決定した。いわば「法」はあくまでも外的規範であって、その人の内心に立ち入ることは許されない、という原則が確立していなければ、「信教の自由」もまた「言論の自由」も、あり得ないからである。

キリスト教とユダヤ教の分裂は、実にパウロにはじまるといってよい。

・・・この復刊本の解説は佐藤優が担当。その解説文からもメモしよう。

『聖書の常識』で語られている「常識」は、現代プロテスタント神学が考える標準的なキリスト教観だ。すなわち、キリスト教は、イエス・キリストが救いであるということを基礎とする救済宗教である。イエスは自らをキリスト教徒とは考えていなかった。ユダヤ教から分離したキリスト教という新しい宗教を創ったのは、生前のイエスと会ったことのないパウロだ。そして、イエスを救世主と信じる人は、パウロと同じようにイエスに会えるのである。

・・・ということで、とりあえずキリスト教とはそういう宗教だ、と憶えておこう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月25日 (水)

ニーチェの敵はパウロ

先日、池田信夫先生のブログで「パウロ主義批判として読めば、ニーチェは今でも価値がある」との指摘を目にした時、自分の中で、ある本の内容とリンクする感覚があった。その本、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(深井智郎・著、岩波書店)の第4章「ニーチェは神学を救うのか」からメモする。

ニーチェも(その友人である神学者の)オーファーベックも、イエスの教えのラディカルな神の国の到来の教えや現世批判を再解釈して、「キリスト教という宗教」を生み出してしまったパウロやカイサリアのエウセビオスを批判した。
彼らによれば、イエスとパウロの間には明らかな断絶がある、ということになる。

イエスが教えたのは、この世の倫理・道徳・社会制度や国家の終焉であった。ところがパウロもエウセビオスも、イエスが教えたような神の国の到来、この世の終わりではなく、現世を生き抜くための宗教団体としての教会的キリスト教を作り出してしまい、イエスが教えた福音をこの世の道徳にしてしまう基盤を作り出したというのである。それ故に、ニーチェが批判しているのは、イエスではなく、パウロ的な宗教としての教会的キリスト教ということになる。

それではイエスは何を教えたのか。それはこの世が終わって到来する「神の国」、つまりこの世はもう終わるのだという緊迫した、ラディカルな終末論である。それは強力な現世否定であるから、この世の価値観や市民道徳であるはずもない。
ニーチェによればこの世の市民道徳となったキリスト教ほどイエス本来の教えと矛盾し、それからかけ離れてしまったものはないということになる。これがニーチェのキリスト教批判の基本構造である。

・・・どんな宗教も、最初から今あるような形であったわけではない。当たり前だけど。つまり宗教も歴史的に形成されるものである。欧米社会の基盤体制としてのキリスト教にも、長い歴史がある。その基礎はパウロが築き、やがてローマ帝国の国教となる。そしてカトリックと正教に分裂し、さらにカトリックの中からプロテスタントが現れる・・・。このパウロに始まる教会的キリスト教の制度的発展、その歴史の帰結として整えられた市民道徳は、ニーチェの眼には人生を生ぬるいものにする「頽廃」的な規範としか見えなかった。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月23日 (月)

皇帝フリードリッヒの人物記録

同時代人から見た神聖ローマ皇帝フリードリッヒ二世とはいかなる人物であったのか。『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生・著、新潮社)から、年代記作者の皇帝に対する評価をメモする。まずは反皇帝側に立つ記録者の証言。

不幸にも、生涯を通して彼は、ローマ・カトリック教会への敵対をやめなかった。
いかなる宗教も信ぜず、不信仰の徒として生きた彼は、エピキュロス的享楽主義者であり、霊魂の不滅を信じなかった。
常に行動していた。中背だが、容姿振舞は美しく、彼に初めて会ったとき、わたしはすぐに彼が好きになった。そのときも彼は、相手によってただちに変えるほど、多くの言語を難なくあやつっていた。
もしも彼が、良きカトリック教徒として神と教会への忠誠を欠かさなかったならば、同時代の君主の誰よりも傑出した統治者になっていたにちがいない。

・・・そして皇帝側に立つ記録者の見方。

何よりも確かなのは、フリードリッヒは開けた精神の人であったということだ。言動は常に大胆だったが、それも彼自身の賢明さによって均衡を保つことは知っていた。彼が生きた時代の主流であった考え方に妨害されることさえなければ、より偉大な業績を残すこともできたろう。
学芸の奨励ばかりか教育面の充実にも熱心で、皇帝自身も、自身の知性の表現には熱心だった。自然科学への深い関心と、その成果でもある『鷹狩りの書』を書くことによって。
しかし、何と言っても特筆に値するのは、法治国家建設への彼の強烈な熱意であろう。法律は誰に対しても公正に施行されるべきという信念は、あらゆる妨害を前にしてもゆらぐことはなかったのである。

・・・次のイギリス人修道士の記録に含まれる言葉は、広く世に知られることになる。

世俗の君主の中では最も偉大な統治者であり、世界の驚異であり、多くの面ですばらしくも新しいことを成した改革者であった。

・・・「世界の驚異」(STVPOR MVNDI、ストゥポール・ムンディ)は以後、フリードリッヒ2世を指す言葉となる。それは偉大な君主に捧げられた「尊称」と言ってよいだろう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月21日 (土)

フェデリーコ2世と古代ローマ

マンガ家ヤマザキマリがエッセイ『男性論』(文春新書)の中で、フェデリーコ2世について語っている部分から以下にメモする。

古代ローマ的精神性とバイタリティを全身全霊で受け継いで復興させようとしていたのが、神聖ローマ帝国のフェデリーコ2世(ドイツ語読みではフリードリヒ)という人物です。
父親は神聖ローマ皇帝。母親は南イタリアを司っていたノルマン朝シチリア王国の王女コンスタンツァ。
シチリア王国とは西ローマ帝国が崩壊してしばらく後、シチリアのパレルモを中心に、北方から船に乗ってやって来たノルマン人によって築き上げられた王朝。
フェデリーコは当時、多様性の極みともいえる環境にあった国際都市パレルモで、学識ある選りすぐりの
聖職者たちによって最高の教育を施されます。

当時十字軍遠征はいまだ収束には至っていませんでした。しかし、彼はその巧みな外交術を発揮して、キリスト教とイスラム教、どちらの宗教観にも無理なコンディションを強制しない無血の平和条約を締結させます。

フェデリーコは中世時代にあって、中央集権的な国家体制こそが必要だと考えていました。
彼が理想とした中央
集権的な国家体制には抜かりのない官僚組織が必須。そこで、この時代の宗教という偏った独占的教養から飛び出して、リベラルな感性に基づいたさまざまな分野におけるオーソリティを育むことこそ、国家強壮の基本的理念と考えた。そうして、教会から独立した教育機関としてナポリ大学も創設するのです。

フェデリーコは(シチリア王国の統治体制に)合理的で体系的な法律を導入することを考えます。シチリア王国の法典はローマ法の緻密な研究を基本にしたもので、中世ヨーロッパにおける最も完璧な成文法体系になりました。宗教ではなく、法による国家と民衆の統制を理想と考えたフェデリーコが参考にしたものは、カトリック教会の法体制ではなく、まさに古代ローマの繁栄の軌跡だったのです。

・・・フェデリーコはハドリアヌス帝を彷彿とさせる、というヤマザキマリらしい見方も示されているけど、それはさておき、古代精神の復興が中世を乗り越えて新しい時代を開く道につながる、というのがルネサンスの「逆説性」であるならば、フェデリーコ2世は、この「歴史の逆説」を体現した人物であるように思う。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月14日 (土)

レディ・ジェーン・グレイ

地下鉄の駅構内で、堀北真希主演の舞台「九日間の女王」の大きなポスターを見た時、ちょっとした衝撃に打たれた。白いドレスに白い目隠しをされた女優の姿に、あの話かと思い当たったのは、実は今年の夏に読んだ歴史本で初めて知った(苦笑)英国史の出来事。絵画「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の画像も掲載されたその本、『名画で読み解く「世界史」』(祝田秀全・監修、世界文化社)からメモする。

Photo_3イギリスではヘンリ8世の死後、3番目の妻ジェーン・シーモアとの間に生まれた唯一の男子エドワード6世が即位したが、短命だった。その後はエドワード6世の異母姉であるメアリ1世が即位するが、この直前、ジェーン・グレイ事件が起こっている。

1553年、エドワード6世の死後、陰謀により、ヘンリ8世の妹の孫ジェーン・グレイが女王に祭り上げられた。
ヘンリ8世は、生前王位継承順位をエドワード、メアリ、メアリの異母妹のエリザベス、そしてジェーン・グレイの順に定めていた。
いわばダーク・ホースだったジェーン・グレイを担ぎ出したのはジョン・ダドリーという人物だ。彼は早々と彼女の後見人になり、息子と結婚させて舅におさまって陰謀を巡らせた。
そして病床のエドワードに迫り、ジェーン・グレイを王位継承者に指定する勅状を手に入れ、エドワードの死後、彼女を女王につけたのである。

しかしこの強引な陰謀は多くの貴族の反発も招いた。ただちに反撃に出たメアリ王女は、ダドリーらを捕え、ジェーン・グレイを退位に追い込んで、ロンドン塔に幽閉した。ジェーン・グレイが女王の座についてからわずか9日後のことだった。

「9日間の女王」ジェーン・グレイは、1554年2月に処刑された。
ただし、メアリ1世は当初、彼女を処刑する気はなかったといわれている。しかしジェーン・グレイの実父が反乱を起こした際、ジェーンがカトリックへの改宗を拒否したため、メアリによって処刑されたという。

・・・ジェーンは聡明で美しい女性だったが、自らの知らないうちに政争や宗教対立に巻き込まれた挙句、16歳という若さで処刑された。痛ましすぎる。まさに悲劇なんだけど、多分日本人には馴染みが薄い話と思われるだけに、人気女優の主演で舞台化っていうのは、かなり意外感がある。公演日程は来年2/26~3/16。ちょっと興味はあるけど、チケット代1万円はキビしいな。(苦笑)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月12日 (木)

皇帝フリードリヒ2世とイスラム

11月の「地中海学会月報」(364号)掲載「君主の魅力 中世地中海に君臨したフリードリヒ2世」(今春のブリヂストン美術館・土曜講座における高山博先生の講演要旨)からメモする。

十字軍の歴史の中で、一度の戦闘を交えることもなく、エジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレム回復に成功した十字軍がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の第5回十字軍である。

一般に『アレクサンドリア総主教の歴史』として知られるアラビア語年代記によれば、フリードリヒ2世とカーミル(イスラム教のスルタン)との間に少なくとも3度の使節の往来があった。一つ目は、フリードリヒ2世からカーミルへ派遣された使節である。二つ目の使節、つまり、カーミルからフリードリヒ2世への使節は、ファフル・アッディーンの使節として研究者のあいだでよく知られているものである。
三つ目の使節、つまり、帰還するファフル・アッディーンの使節とともにカーミルのもとへやってきた
フリードリヒ2世の新たな使節がエジプトへ到着したのは、1227年8~9月頃である。

このような状況のなかで、1228年6月、フリードリヒ2世は十字軍を率いてイタリアを出航したのである。彼の船は、9月にアッコに到着した。フリードリヒ2世は、アッコに到着するとすぐにカーミルへ使節を送り、エルサレムを手に入れるための交渉を始めた。

1229年2月11日、ついに、カーミルはフリードリヒ2世にエルサレムを明け渡すというヤッファ協定が結ばれた。
エルサレムは、皇帝の統治下に置かれたが、この聖都の内部にあるイスラム教徒の聖所、すなわち、岩のドームとアクサー・モスクを含むハラム・アッシャリーフ区は、イスラム教徒の管理下に置かれ、イスラム教徒はこの場所に自由に出入りし礼拝を行うことを認められた。

・・・高山先生は、「フリードリヒ2世の十字軍を、中東の君主との外交関係という文脈の中に置くことは、当時の地中海地域を理解するための新たな視点を提供」する、と指摘している。

思うに、出身地シチリア王国の多文化共存的伝統に則ったフリードリヒ2世のイスラムとの交流は、ローマ・カトリック十字軍の掲げる聖戦=異教徒殲滅への意志を、無意味なものにしたのである。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 7日 (土)

神聖ローマ帝国とヘーゲル

昔は哲学といえば、時代を超越する普遍的真理のイメージがあったような気もするが、今はどうなんだろう。自分的には、結局のところ哲学も歴史的社会的文化的産物であるというほかない感じだな・・・『ヘーゲルとその時代』(権左武志・著、岩波新書)「第2章 帝国の崩壊と『精神現象学』」からメモする。

ヘーゲルは、1801年から翌年にかけて「ドイツ国制論」主要草稿を執筆し、歴史的転換期にあるドイツの現実を論じている。
では、ヘーゲルが属していた神聖ローマ帝国とは、どのような政治秩序であり、現在の国民国家とはいかに異なっていたのだろうか。

神聖ローマ帝国には、次の三つの政治的特徴があった。
第一に、帝国の中心をなす皇帝は、古代ローマ皇帝を継承するヨーロッパ唯一の皇帝を自任するとともに、カトリック教会の守護者として北イタリアを長らく支配した。皇帝の位は、相続されず、選帝侯により選挙で選ばれた。
第二に、帝国の政策の多くは、選帝侯、聖俗の諸侯、帝国都市代表といった帝国の諸身分が参加する帝国議会で決定された。
第三に、聖俗の諸侯は、皇帝から授与された帝国封土として領邦(ラント)をそれぞれ支配する領邦君主でもあった。ドイツの宗教内戦を終わらせたウェストファリア条約(1648年)の結果、皇帝権力が制約される一方で、それぞれの領邦君主へ集権化する領邦絶対主義が進んだ。このような状態は、今日の主権国家からおよそ程遠いものである。

ドイツ観念論の精神史的背景としてプロテスタントの神学的伝統、古代ギリシアの発見、さらに第三に挙げられるのは、帝国における政治的統一の不在である。

1790年代に対仏戦争の対外危機が迫った時、帝国が内部分裂する傾向が次第に加速していく。
バーゼル講和条約(1795年)に示されたプロイセンの対仏戦線離脱、そしてラシュタット会議(1797年)に見られたフランス共和国の帝国化こそ、ヘーゲルが「ドイツ国制論」を執筆する直接の動機だった。

・・・17世紀前半の三十年戦争とウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国は事実上解体。ドイツの国情に由来する「分裂と統一」は、ドイツ観念論(特にカント後)の思想的課題となる。ヘーゲルの「ドイツ国制論」は完成を見ないまま、1806年に神聖ローマ帝国の終焉が公式に宣言される。翌1807年、『精神現象学』公刊。「分裂と統一」の克服を目指すヘーゲルの思弁、その本格的な第一歩である。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 6日 (金)

「ルネサンス」的皇帝の輝き

神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世(1194~1250)といえば、まるで中世キリスト教世界を超越したかのような事績から、ルネサンス人の先駆けとも評価されている君主。まずは文庫クセジュの新刊『シチリアの歴史』からメモする。

フリードリヒ二世は、コスモポリタンな精神の持ち主だった。幼くして彼はフランス語、ギリシア語、イタリア語、アラビア語を学んでいた。比類ない知性に恵まれた彼は、科学、哲学を育成し、イタリア詩派創設者の一人となった。その教養、政治思想、宗教的無関心、鷹揚さ、理性崇拝のゆえに、フリードリヒはルネサンス期のイタリア君主に比肩する。彼をみるとき、われわれはマキャヴェリの同時代人たちを思わずにはいられないのである。

もう一冊、新潮文庫『ルネサンスとは何であったのか』(塩野七生)からメモする。

フリードリッヒがローマ教会に突きつけたのは、より根源的な政治と宗教の分離であり、これはもう15世紀のマキアヴェッリの、そして18世紀になって起こる啓蒙主義の、前ぶれとしてもよい「ライコ」思想による中世体制への挑戦でした。

※ライコ(laico、伊):神の存在の否定まではしないが、宗教が関与する分野と関与すべきでない分野の区分けを、明確にする考え方を採る人のこと。

中世から脱しつつあったヨーロッパの心ある人々には、後のヨーロッパ諸国の形成に影響を与える「ライコ」的な国家のモデルが、彼が実現しようと努めた帝国にあることを理解できたにちがいない。また、真の国家とは政治や軍事のみでは成り立たず、経済も学問も文化も重視されてこそ文明国であるといえることも、彼の成した数々の業績から学んだはずです。それに加えて、フリードリッヒが体現した資質豊かな指導者の像。これこそが、ルネサンスが生むことになる、再生し自立した人間の形であるのですから。

・・・つい先日のこと、塩野七生が書いたフリードリヒ二世の本が今月出ると聞いて驚いた。2年前、カントーロヴィチの大著の翻訳が出た時も驚きつつ、とにかく読んだが、塩野本もいちおう読まなきゃいけないんだろうな~とか思ってるところ。あとは高山博先生にも、フリードリヒ二世で一冊書いて欲しいんだけどな。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 1日 (日)

小泉元首相の「脱原発」論

雑誌「プレジデント」(12/16号)掲載の小泉純一郎「日本人ならできる!」(9/24開催、プレジデント誌50周年記念フォーラムにおける講演記録)からメモする。

日本は、原発をゼロにすべきです。しかも、できるだけ早く、日本政府が「原発ゼロ」の方針を国民に提示すべきだと考えています。

私の話を聞いて「原発をゼロにする、などという主張は現実味がない。無責任だ」と言う人がいます。しかし、最終処分場という核のゴミを捨てる場所もないまま、核のゴミを出し続けるほうが、よほど無責任だと私は思います。

原子力発電を失った日本は経済成長が不可能になり、エネルギー供給を輸入に頼ることになった結果、諸外国に国家の命運を預けなくてはならなくなるという言説も多く聞かれます。それについて、私はこう考えています。日本国民は諸外国と比べても、優れた環境意識を持っていますから、さらに省エネルギー化の推進、代替エネルギー技術の実用化によって、事態を打開することは決して絵空事ではないはずです。

原発事故が起きてから、日本は三度も夏を乗り越えることができました。これこそ、日本には原発がなくても生き抜いていける対応能力があるという証拠です。私はそういう意味においても、政治が早く「将来原発をゼロにしよう」という目標を打ち出しさえすれば、多くの国民がこぞって協力してくれると思います。今こそ、「将来は、原発をなくす」とはっきりしたメッセージをリーダー自身が打ち出すことが必要なタイミングです。

・・・この講演で元首相は、これまでも日本は多くの危機を乗り越えてきたのであり、今回の原発問題も日本なら克服できるとのメッセージを強い調子で発信している。

元首相が「脱原発」を訴えることを決意したきっかけは、映画「100,000年後の安全」だという。その内容に衝撃を受けた元首相は、実際に今年8月、フィンランドに建設中の放射性廃棄物最終処理場「オンカロ」を視察して、「原発ゼロ」を目指すべきだと確信したそうだ。

あの映画を観たら原発否定派になるのは、よく分かる。(ブログ内過去記事

普通の生活者なら原発は止めたいと思うだろう。あとはしかるべき地位にいる人が決断するかしないか、という話。でも安倍ちゃんは、あんまり関心ないだろうな。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年11月 | トップページ | 2014年1月 »