父親の死というもの
作家の村上龍が、父親の死について書いた文章からメモしてみる(「父の葬儀の夜に」、『賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』所収)。
88歳という高齢だったし、ある程度覚悟はしていた。それに、まさに眠るように、突然に息を引き取ったわけで、大往生だなと思えたのだが、さすがに喪失感にとらわれた。
何だかんだ言って大したものだと父のことを思った。亡くなる直前まで、自分で車を運転して買い物などに行っていた。亡くなった当日も、朝食と昼食はちゃんと食べた。杖もつかず、自力で行動し、絵を描き続けた。両親とも教師だったので、二人合わせると年金はかなりの額になり、経済的な依存もゼロだった。亡くなるまで、介護も受けず、誰の世話にもならず、誰にも迷惑をかけなかった。
・・・父親の葬儀が終わった夜に、作家はひとりウイスキーを飲みながら、「自分なりの供養」として、小学生の頃父親と一緒に見た映画をDVDで見直すのだが、何というのか父親への確かな敬愛が静かに伝わってくる文章だった。
私事ながら9月に、自分の父も82歳で死んだ。しかし自分の場合は、殆ど何の感慨も湧かなかった。
たぶん母親の死は、男の9割以上にとって非常に悲しい出来事だろう。しかし父親の死を男がどう感じるかは、相当個人差があるんじゃないかと思う。それは当然の事ながら、生前の父親との関係性に依るわけで。
とにかくもう自分の両親はこの世にいない。こうなると、後は自分の残りの人生を全うするだけだな、という感じになる。
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