キリスト教の不可解
『聖書を読む』(文藝春秋)から、佐藤優の語るキリスト教のポイントをメモしてみる。
ヨーロッパやユダヤ・キリスト教文明では「霊」と「魂」はまったく違うものなんです。プネウマが霊で、プシュケーが魂。プネウマには個性がない。ありとあらゆるものが生きていくところの原理がプネウマ。それに対し、見えないところを含めてその人の個性をつくるものがプシュケー。ですから、プネウマのないところでプシュケーだけがあるはずはない。個性を取り去った後でも、命の原理みたいなものはあると考えた。それがプネウマ。プネウマというのは、風、炎、そんなもので表現されます。
イエスは神のことを父と呼んでいる。父なる神と子なる神と、あと聖霊なる神というのが三位一体なんだけれども、この解釈は難しい。三位一体は、父・子・聖霊なる神がいるにもかかわらず、神は一つであると。三が一であるという、わけがわからないことになっていて、キリスト教の重要なポイントでありながら、これは永遠の神秘なんです。
キリスト教のもう一つのポイントというのは、キリスト論。イエス・キリストというのは真の神であって真の人である、という教義がある。じゃ、こいつは人なのか神なのかというと、よくわからない。ただ、ほかの宗教の教祖様というのは、時代を経るにつれてだんだん神様に近づいていく。ところが、キリスト教では、神様に近づくと引き下ろす機能というのが必ず働くんです。なぜかといえば、原罪説があるから。我々はあまりにも罪深い。イエス・キリストが神様と一体だと、罪深い我々とつながるところがない。それでは救われない。
・・・プネウマとプシュケーの区別は、その後の西洋思想の流れとして、普遍と個物の区別へとつながるような感じ。三位一体や神人論は、結局何だかよくわからないってことですな。ただイエス・キリストと我々のつながりという話は面白い。つまり、この世の我々と、この世を超越した存在がどうやって関わるのか、という問題。そもそも関われるわけないじゃん、とも思うところではあるが、そこは宗教ならば超越的存在からの一方的な「啓示」だと言って済ませることができる。しかしその後も西洋思想は、近代に入ってもデカルト、スピノザ、カント、ヘーゲルと、この問題を巡ってあーだこーだと考え続けるのである。
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