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2013年10月31日 (木)

ゼロ金利が示す資本の過剰

水野和夫といえば、我らが証券業界出身のエコノミスト。その毎日新聞(10/28付夕刊)寄稿(資本主義の「過剰」性、是正を)からメモ。

5000年の「金利の歴史」において、現在、日本の10年国債利回りは前人未到の超低金利にある。1997年9月に2.0%を下回って以来、この9月で17年目に突入した。これまでの超低金利の「記録保持者」は中世末、地中海経済圏で最も繁栄したイタリア・ジェノバだった。1611年から21年の11年間2.0%を下回り、19年に利回りは1.125%まで低下し過去最低となった。日本の国債利回りは今年4月に0.315%となったので、期間、水準(価格)ともに世界記録を更新中である。

資本の自己増殖が効率的に行われているか否かを測る尺度が利子率(利潤率)である。資本主義が最初の危機を迎えたのが17世紀初頭のイタリアだった。その象徴が超低利潤率を表すイタリアの利回りだ。
「長い16世紀」と呼ばれる時代(1450~1650年)はまさに地中海世界の危機だった。それを乗り越えたのは周辺にあったオランダやイギリスで、彼らは新しい理念を掲げ、七つの海を統合し、空間を全地球に広げ、高い利潤率を確保した。
それから400年たって、日本で17世紀のイタリアをはるかに上回る超低金利が実現した。先進国が成熟化し、アフリカがグローバル化するにいたって、もはや新しい実物投資空間はないからである。

先進国と新興国との間では20世紀末から所得水準が近づき、同時に先進国内では貧困問題が発生した。この事実は資本主義が周辺を必要とするシステムであることを示唆している。中心と周辺からなり、かつその両者を結びつけるイデオロギー的な諸力・諸装置を備えているのが帝国である(17世紀以降は英国と米国が非公式の帝国)。グローバリゼーションは21世紀における「帝国」の諸装置であり、先進国の外側にあった「周辺」を先進国内につくるプロセスだ。

資本の利潤率(利子率)が著しく低いのは資本が過剰だからである。現在起きているゼロインフレ・ゼロ成長・ゼロ金利は資本主義の「過剰」性を是正するプロセスなのである。

・・・ここには、水野氏の「資本主義と世界史」観が凝縮されているという感じである。

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2013年10月15日 (火)

「使徒言行録」の読み方

佐藤優によれば、聖書の「使徒言行録」は「人生の実用書」として読めるそうな。『聖書を読む』(中村うさぎとの対談、文藝春秋)から、「使徒言行録」について語っている部分をメモ。

中村:アソシエーションとコミュニティの違いは何ですか。
佐藤:コミュニティというのは自然に発生するもの。アソシエーションは自発的結社。
中村:じゃあ、ペトロの始めたこの教団もアソシエーションなんだね。何だかものすごく嫌いになっていくの。「使徒言行録」を読めば読むほど、キリスト教の集団が。
佐藤:それが、まさに「使徒言行録」を読む大きな目的なわけで、イエスのいるときはあれほど魅力的な一つのグループであり、素晴らしいイエスの言説のもとにまとまっていたわけでしょ。それが死んでからわずかの間に、こういういやらしいような組織になっていって、自己保身みたいなことしか考えない人たちや、組織の論理しか考えないようになっていく。その人間の性(さが)というものが酷いってことを正直に書いている記録と考えると、面白いですよね。
明らかにイエスには、自分がキリスト教なんて新しい宗教を開いたつもりは微塵もなかった。「本来の神様に返る」とは言ったんだけれども、ユダヤ教から大きく離れるものではない。しかし、パウロは「イエスさんがおっしゃるには」と、イエスの名をやたらと使って新しい宗教をつくるわけですよね。その新興宗教を使って世界的な規模に拡大するということなんで、経営者としての能力も優れている。相当なオーガナイザーであり、口八丁手八丁であり、相当なずるさもある。しかし、その中には何かに取り憑かれた純粋さもあると。そして、本当に重要なこと以外、なんでも妥協してしまう柔軟さも備えており、キリスト教が成功した秘訣というのは、このパウロという男にあると思うんですよね。

中村:でも、やっぱり聖書の中で一番政治的なものだよね、「使徒言行録」って。なんか無垢じゃない(笑)。特にパウロが登場してからは、本当に非常に狡猾で、純朴さのかけらもない。
佐藤:でも、やっぱり生き残る技法は大したもんですね。これを読んでると、エネルギーが湧いてくるじゃないですか。
中村:それは佐藤さんが政治が好きだからだよ。
佐藤:いや、本当にいい本ですよ。
中村:はっきり言って、佐藤さんはパウロです(笑)。

・・・とにかく、実質的にはパウロがキリスト教を作った。そして教団を組織してキリスト教を広めた。で、教団、つまり人間の集団の運営には良くも悪くもいろんなことがあるよな、という感じがする。

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2013年10月14日 (月)

キリスト教の不可解

聖書を読む』(文藝春秋)から、佐藤優の語るキリスト教のポイントをメモしてみる。

ヨーロッパやユダヤ・キリスト教文明では「霊」と「魂」はまったく違うものなんです。プネウマが霊で、プシュケーが魂。プネウマには個性がない。ありとあらゆるものが生きていくところの原理がプネウマ。それに対し、見えないところを含めてその人の個性をつくるものがプシュケー。ですから、プネウマのないところでプシュケーだけがあるはずはない。個性を取り去った後でも、命の原理みたいなものはあると考えた。それがプネウマ。プネウマというのは、風、炎、そんなもので表現されます。

イエスは神のことを父と呼んでいる。父なる神と子なる神と、あと聖霊なる神というのが三位一体なんだけれども、この解釈は難しい。三位一体は、父・子・聖霊なる神がいるにもかかわらず、神は一つであると。三が一であるという、わけがわからないことになっていて、キリスト教の重要なポイントでありながら、これは永遠の神秘なんです。

キリスト教のもう一つのポイントというのは、キリスト論。イエス・キリストというのは真の神であって真の人である、という教義がある。じゃ、こいつは人なのか神なのかというと、よくわからない。ただ、ほかの宗教の教祖様というのは、時代を経るにつれてだんだん神様に近づいていく。ところが、キリスト教では、神様に近づくと引き下ろす機能というのが必ず働くんです。なぜかといえば、原罪説があるから。我々はあまりにも罪深い。イエス・キリストが神様と一体だと、罪深い我々とつながるところがない。それでは救われない。

・・・プネウマとプシュケーの区別は、その後の西洋思想の流れとして、普遍と個物の区別へとつながるような感じ。三位一体や神人論は、結局何だかよくわからないってことですな。ただイエス・キリストと我々のつながりという話は面白い。つまり、この世の我々と、この世を超越した存在がどうやって関わるのか、という問題。そもそも関われるわけないじゃん、とも思うところではあるが、そこは宗教ならば超越的存在からの一方的な「啓示」だと言って済ませることができる。しかしその後も西洋思想は、近代に入ってもデカルト、スピノザ、カント、ヘーゲルと、この問題を巡ってあーだこーだと考え続けるのである。

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2013年10月13日 (日)

貨幣と不死

中村うさぎは重病から生還したんだな。と思いつつ、中村と佐藤優の対談本『聖書を読む』(文藝春秋)から、二人が死について語っている部分をメモ。

中村:このところ佐藤さんは、人生の持ち時間ってことをよく言うんだけど。
佐藤:ちょっと関係のない話をすると、今、雑誌の編集者と話していると、マネーと健康のことしか話題にしないんです。読者の基本的関心が金と健康なんですと言う。資本主義社会の中でアトム(原子)のようにバラバラにされた人間は、この残された持ち時間を、マネーと健康のことを考えて生きているんです。僕はそれと少し違うことを考えて生きたい。人間はいつか死ぬんです。必ず死ぬ。ところが、死なないシステムというのがあるわけですよ。
中村:死なないシステムってどこにあるの?
佐藤:それが貨幣。貨幣というのは常に市場に残り続けるんです。だから、金を集めたいという思想は「不死の思想」とすごく近い。貨幣を徹底して追求するのは、永遠に死にたくないという思想とすごく近いんですよ。編集者がマネーと健康の話しかしないというのも、それなんです。人生の持ち時間に話を戻すと、人間は死ぬんですよね。だとすると、メメント・モリ――死ぬ準備をちゃんとしないといけないんです。
中村:メメント・モリというのは「死を忘れるな」ということでしょ。私はね、今もメメント・モリで生きてるの。死を忘れないで、いつか終末があると思って生きている。そうしないと堕落してしまう、という思いが私の中に刷り込まれているんです。終末があるというふうに考えると、自分の人生には限りがあり、世界にも終わりがあるわけでしょ。でも私の場合、世界の終わりというのは、全世界が災害とかによって滅亡するんじゃなくて、私が死んだら私の世界が終わるというかんじなわけですよ。
佐藤:それは僕にとってもそうだし、みんなそうだと思う。ただ、今はあまりにも、永遠に生きつづけたい人が多くてね。

・・・カネを集めることは不死を志向することだ、というのは自分も同感する話。なぜなら、この社会においてカネは万能だから。この社会ではカネが無ければ生きていけない。それが現実。カネをたくさん持てば持つほど、人は死から遠ざかることができる。カネをたくさん持つことによる万能感は死を打ち消すことができる。現実には人は必ず死ぬのだから、結局その「不死」の感覚は幻想であるとしても。

昔、「歴史の終わりと最後の人間」(フランシス・フクヤマ)という本があった。タイトルは、ヘーゲルとニーチェの言葉を繋ぎ合わせたもの。この言い方を使えば、「歴史の終わり」を生きる「最後の人間」は、金儲けと長生きのことしか考えない、ということだろうか。しかし、こんな書き方をしてしまうと、これはやっぱり「堕落」だなと思ってしまう。(苦笑)

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