中東政治の原点は「東方問題」
現代中東政治のパターンは、19世紀の「東方問題」(ヨーロッパ対オスマン帝国の外交紛争)の時代に形成された――『世界史の中のパレスチナ問題』(臼杵陽・著、講談社現代新書)の第一部(第5講)からメモする。
オスマン帝国(1299~1922)は多民族から構成されるイスラーム帝国ですので帝国内には非ムスリムの宗教共同体が多数存在しました。イスラーム法に基づく統治システムをもっているオスマン帝国は、帝国内の非ムスリムに対して、それぞれの宗派が宗教・伝統・習慣などを維持できるように、各宗派に広範な自治権を認めました。この宗教・宗派共同体を「ミッレト」と呼び、ミッレトの自治に基づく統治システムをミッレト制と呼んでいます。
オスマン帝国内にはギリシア正教会、アルメニア教会、ユダヤ教会の三大ミッレトがありました。オスマン帝国が衰退すると、ミッレトは、宗教・宗派共同体から民族運動の場へと変化。換言すると、「民族集団」としての自己主張を行うようになって、オスマン帝国からの分離・独立を求めるようになりました。
オスマン帝国衰退期の18世紀後半から19世紀後半までの約一世紀間に起こった東方問題は、ヨーロッパ側から見れば、英仏露墺などのヨーロッパ諸列強によるオスマン帝国領をめぐる外交紛争です。反対にオスマン帝国側から見れば、ヨーロッパ諸列強の介入によって帝国内の宗教・宗派紛争が激化させられてミッレト制が崩壊していく過程ということになります。換言すれば、東方問題を通じて宗教共同体の自治システムがオスマン帝国を内部から蝕んでいくことになったのです。
例えばフランスはオスマン帝国内のカトリック教会あるいはローマ教皇の権威を受け入れた東方教会であるユニエート(合同)教会を支援し、ロシアはギリシア正教会を保護し、イギリスはユダヤ教徒やドルーズ派ムスリムを保護するといった宗教・宗派レベルの同胞同士の連携関係によって外交紛争が帝国内の宗教・宗派問題に転化され、宗教的な代理戦争のような様相を呈したのです。
外交と内政が密接に結びつくという現代中東政治のパターンはまさにこの時期に形成されたものです。国内政治でありながら国際政治として現象し、その逆もまた可なり、だからです。換言すれば、国内政治と国際政治を切り離すことができないという現代中東政治の特徴です。
・・・イスラムの寛容が帝国内に認めた異教徒共同体の存在が、後に強大化したキリスト教近代国家が介入してくる口実となったのも皮肉な話だ。19世紀、バルカン半島に進出したロシアとオーストリア、とりわけロシアとの戦争を繰り返したオスマン帝国は、20世紀に入り2度のバルカン戦争を経て第一次世界大戦に突入。敗北から解体消滅への道を辿ることになる。
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