十字軍とレコンキスタの反ユダヤ
古代と中世のヨーロッパにおける反ユダヤの思想と運動について、『世界史の中のパレスチナ問題』(臼杵陽・著、講談社現代新書)の第一部(第2講と第4講)からメモする。
パウロをはじめとする初期キリスト教会の指導者たちは、ローマ帝国の(イエス処刑の)責任をユダヤ教徒に押し付けて、伝道の対象として異邦人(非ユダヤ教徒)を選ぶことになります。キリスト教のユダヤ教からの決定的な決別です。
キリスト教はその母体であるユダヤ教の律法を教義的に否定します。キリスト教が宗教的に自立するには原理的にユダヤ教を否定する必要があったのでした。そこにこそ、キリスト教には反ユダヤ教的契機が成立当初から内在したといえる理由があるのです。
中世キリスト教社会ではユダヤ教徒を嫌悪する差別感情が定着していったため、ユダヤ教徒の職業は制限されていくことになりました。1078年にローマ教皇グレゴリウス七世がユダヤ教徒に対し「公職追放令」を発布。すべての職業組合から締め出されたユダヤ教徒は、キリスト教徒には禁止されていた金融業に手を染めていきました。
十字軍は、西ヨーロッパのカトリック教徒の国々が11世紀末から13世紀末までエルサレム奪還を名目として断続的に行ったイスラーム世界への軍事遠征です。十字軍はユダヤ教徒の迫害の歴史を考える場合、画期的な事件と位置づけることができます。この事件を境にユダヤ教徒への差別が新たな段階に入ったからです。ヨーロッパの「内なる敵」としてのユダヤ教徒がヨーロッパの「外なる敵」のムスリムと内通する不倶戴天の敵として位置づけられて、十字軍がユダヤ教徒への迫害に拍車をかけることになるのです。十字軍はユダヤ教徒を殺戮の対象にしていましたが、宗教的なレベルでの反ユダヤ主義が十字軍には刻印されているといわざるをえないのです。
一方で、イベリア半島ではキリスト教徒によるムスリム追討戦争であるレコンキスタ(再征服運動)が展開していました。1492年1月、グラナダ王国のアルハンブラ宮殿にイサベルとフェルナンドの両王が入城しました。レコンキスタが完了した瞬間です。同年3月、両王は「アラゴンおよびカスティーリャからのユダヤ教徒追放に関する一般勅令」を発布します。その内容は、その年の7月末までにすべてのユダヤ教徒を領土から追放するというものです。
十字軍は同時に、イタリア・ルネサンスに先立つ「12世紀ルネサンス」と呼ばれるヨーロッパにおけるアラビア語からラテン語への翻訳運動という大きな波を生み出しました。この「12世紀ルネサンス」で重要な点は、西欧世界がイスラム文明に出会ったという事実です。
また、スペインのレコンキスタ運動の過程でも、トレドなどの都市でアラビア語の医学・数学などの文献が翻訳されました。とりわけ、イベリア半島のユダヤ教徒がこの大翻訳運動で果たした役割は特筆に値します。
・・・中世の終わりまでに、ユダヤ教徒はヨーロッパ社会の片隅に追いやられてしまったとも言えるし、その反面では金融や翻訳の活動を担うことにより社会の中で一定の役割を果たしていたとも言える。十字軍の戦争は、ヒト・モノ・カネの移動と共に異文化も運んだ。懐かしのポストモダン風に言えば、戦争とは「交通」である。とか。
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