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2012年12月29日 (土)

森喜朗の語る「大連立」

日経新聞「私の履歴書」、今月の執筆者は森喜朗・元首相。本日付紙面に掲載されたのは、2007年福田内閣時に持ち上がった大連立の話。以下にメモする。

(参院選で大敗した安倍さんに)代わって首相になった福田さんは参院がねじれて非常に苦労した。そこへ大連立問題が急浮上したのである。読売新聞の渡辺恒雄さんから私に電話があった。
「(小沢)一郎が何度もおれに『大連立をやりたい』と言ってくる。あんたが一郎と話をしてくれないか」

私は福田さんの了解をとって渡辺さんが指定したパレスホテルに出向いた。そこへ小沢さんもやってきた。小沢さんは張り切っていた。
「おれは参院選で大勝して党内から選挙の神様みたいに尊敬されている。今なら党内は全部おれの言うことを聞く。みんな、おれのマジックにかかっているんだよ」
「民主党にはろくな人材がいない。みんなバカばっかりだ。このまま政権をとっても危うい。一度、大連立を経験した方がいいと思うんだ」

小沢さんは大変な鼻息だった。私は「大連立で何をやるの」と聞いた。「まず消費税を片付けよう」と小沢さんは言った。私も賛成した。
増税
だけではまずいと思い、私は「憲法改正もやろう」と提案した。小沢さんも「いいよ、やろう」と応じた。これで政策の大筋が固まった。

2回目の会談では閣僚ポストを詰めた。「あなたは入閣するの」と聞くと小沢さんは「国会答弁が面倒だが、入閣せざるを得ないだろうな。副総理かなあ」と答えた。

私はこれでできたかなと思ったが、小沢さんが民主党に持ち帰ると見事に党内の猛反対に遭って、この話はご破算になった。小沢さんから詫びの言葉もなかった。その後の民主党は手のひらを返したように強硬路線を突っ走った。

・・・大連立というのは相当詰めていた話だったとは、ちょっと驚き。実現していたら、政界再編の動きなど、後の展開は随分違ったものになっていただろうに。

しかし、小沢ってもともと消費増税賛成の人だよなあ。細川内閣の国民福祉税構想の昔から・・・のはずなのに、今年の動きは何だったんだろう。全く意味不明の人だ。

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2012年12月26日 (水)

ピース又吉の「本屋ラブ」

経済誌に、お笑い芸人のインタビュー記事が載ってると、それだけで(笑)。電子書籍が話題になる中、改めて紙の本の魅力を語るのは、「読書芸人」としても活躍するピースの又吉直樹。「週刊東洋経済」(12/29・1/5合併号)から、以下にメモする。

僕にとって本を読むことの魅力は、自分の感覚を確認することと、発見することです。面白い本と出合ったら、共感することで自分の感覚を確認できるし、自分では思いもよらない発想を発見できる。

電子書籍が普及しても、紙の本が消滅するとは思いません。僕は電子書籍で作品を読んでも、内容が気に入ったら、紙の本も買ってしまうでしょう。内容だけではなく、書店に行ったり、ページをめくったり、そういう行為全体を含めて「本」だと思うんです。

電子書籍を使うようになっても、本屋に行く楽しみは自分にとっては変わらないと思います。読みたい本が決まっているときに電子書籍は便利ですが、自分の知識だけでは、選ぶ本の幅は広がりにくいもの。本屋で棚を見て歩くという行為は、買おうと思っていなかった本を買うことにもつながります。小説を買おうと書店に行って、隣に「絶対に性格が明るくなれる」という新書を見つけて、思わず買ってしまう。そういう出合いが好きですね。

・・・長髪で、ちょっと怪しい文学青年風の又吉君。年が若くても、紙の本や書店が好きという人の思いや感覚は、自分のような中高年と変わらないなと感じる。

自分も、時間があると何となく本屋に行くことが多い。まあ単純に本が好きなんだと思う。5年くらい前、電話で話をする機会があった大おばさんから、「本の好きな子だったねえ」と言われて、そうだったんだよなと自分でも改めて思ったけど、なぜ本が好きなのか自分では分からない。しかし自分が好きなものについて、なぜ好きかという理由が分かっている人なんているのかな。まあとにかく、本が好きな人間は、ただ飲み食いするように本を読むだけなのだ。

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2012年12月25日 (火)

池上彰の「問い質す」力

テレビ東京の選挙特番における池上彰の活躍は、多くの視聴者から賞賛を集めた。本日ネット配信された「ニューズウィーク日本版」記事では、池上さんが自らのジャーナリストとしての姿勢を語っているのでメモ。

党首や候補者への私のインタビューは、ジャーナリストとして当然のことをしたまでで、これに関する評価は面映いものがあります。というのも、たとえばアメリカのテレビの政治番組なら、政治家に対しての容赦ない切り込み、突っ込みは当然のことだからです。

日本なら「失礼な質問」に当たるようなことでも、平然として質問をしますし、質問を受けた側も、怒ることなく(怒ったら負けですから)、見事に答えます。そんな当然のことをやってみたに過ぎないのです。

こうしたインタビューが評価されるということは、逆に言えば、これまでの政治番組や選挙特番が、政治家に対して、厳しい質問をしてこなかっただけなのではないでしょうか。

いまの日本の政治家に関しては、その質が低いのではないかと批判されます。それはその通りなのですが、政治家と真剣勝負をしてこなかった日本の政治ジャーナリズムにも責任があるのだと思います。

まずは、政治報道に関わるジャーナリズムが、「いい質問」を鍛え上げること。日本の政治を立て直すためには、ここから始めてはいかがでしょうか。政治家を育てるような質問を考えるのです。

・・・選挙特番における池上さんの政治家に対する質問は、文字通り「問い質す」というもので、番組の中で怒りを見せたシンタローは「負け」だったな。

こういう質問で思い出すのは、4年前に福田首相が辞任会見で中国新聞記者の問いかけに苛立ちを見せた場面。あのリアクションで、福田氏は結局は総理の器でなかったことが明らかになった、それくらいの意義がある質問だったと思う。

とにかく記者は国民に代わって政治家を問い質して欲しいし、そういう質問に感情的に反応すれば、それは政治家の負けというのは間違いない。

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2012年12月24日 (月)

日銀、豹変する

12月22日付及び23日付の日経新聞記事「日銀 未踏の領域」からメモする。

自公が衆院で3分の2超の議席を確保したことは日銀にとって最大の誤算だった。安倍氏の唱える日銀法改正が現実味を増す。
「大胆な金融緩和に協力しなければ、日銀の独立性が大きく損なわれる。それだけは避けなければ・・・・・・」。ある日銀の有力OBはいう。日銀が今回、政治の圧力に屈したのは明白で、独立性を事実上、失ったようにもみえる。だが、日銀が最後のとりでとして守りたかったのは、金融政策の独立性というよりは、政治による人事介入からの独立性だという。

旧日銀法は真珠湾攻撃の翌年の1942年、国家総動員体制の一環で施行された。戦後も、内閣は総裁・副総裁の任命権だけでなく、総裁の解任権を持つ政府主導の仕組みが残った。98年の日銀法改正でようやく内閣の総裁解任権が消えた。これで初めて日銀の独立性が保障された。

日銀法改正で内閣が再び総裁の解任権を手にすれば、日銀の人事の独立性は守れない――。想定を超える自民党の圧勝が日銀を突き動かした。

変身を迫られているのは日銀だけではない。
「失業率が6.5%以下になるまで事実上のゼロ金利を続ける」。12日、米連邦準備理事会(FRB)のバーナンキ議長の発言が金融市場の話題をさらった。前日の11日には英イングランド銀行(中央銀行)のカーニー次期総裁が「名目GDP(国内総生産)の水準を金融政策の指標とすることが有効だ」と発言した。

主要国の中銀で思い切った動きが相次ぐ背景には、先進国がそろって低成長に陥る未曾有の経済情勢がある。
なかなか回復しない景気にいら立つ国民の怒りを背景に、中銀に新たな知恵を求める政治圧力は強まった。円高、失業、低成長――。国ごとに課題は違うが、新しい手法を追い求めざるをえない事情は共通する。
それでも日銀の変貌ぶりは際立つ。

「メンバーが全く変わっていないのに、今度は2%の物価目標に言及された。驚きを持って感じている」。民主党政権の経済財政相として日銀の決定会合に出席した前原誠司氏はいう。1%の物価上昇率にさえ慎重だった日銀執行部を「整合性、連続性、継続性があるのか」と批判した。

・・・いろいろな都合、事情はあるのだろうが、日銀は豹変した。前原氏の驚きは我々の驚きでもある。

それはそれとして、アベちゃん、6年前の首相就任時は「美しい国、ニッポン」とかトンチンカンなこと言ってたが、今回は経済政策を前面に打ち出して現実的な政治家になってきたようだな。

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2012年12月22日 (土)

年金制度の抜本改革

総選挙では争点にすらならなかったが、政策としての重要度は1、2を争うと思われる社会保障制度改革。鈴木亘・学習院大学教授は、日経新聞電子版12月21日発信のインタビュー記事(今の高齢者はもらいすぎ 年金問題解決の糸口は)で、年金の賦課方式から積立方式への転換、「清算事業団」方式による年金債務の超長期返済、相続税の活用などを語っている。提言の概要は、今年7月19日付日経新聞「経済教室」(年金債務分離、税で処理を)に述べられているので以下にメモする。

年金財政はもはや崖っぷちの状態にある。どのような抜本改革が必要か。筆者は「年金清算事業団創設による積み立て方式移行」こそが真の問題解決方法だと考える。積み立て方式とは、若いころに納付した保険料を積み立て、老後にそれを取り崩して年金を受け取る方式だ。

今の高齢者やもうすぐ高齢者になる人に対し、政府が支払いを約束している年金総額に対し、政府の手元にある積立金は全く足りない状況だ。筆者の推計では、厚生・共済・国民年金を合わせた公的年金全体で750兆円の「債務超過」に陥っている。

積み立て方式移行とは、ごく簡単にいえば、この750兆円の莫大な債務を、年金制度から切り離して税金で処理をする改革だ。年金の話というよりも、企業の経営再建の話だと思った方が分かりやすい。例えば、国は「国鉄清算事業団」を設立して国鉄債務の大半を引き受け、JRを身軽な状態にして経営再建を進めた。

年金の事業再建も同じように考えられる。再建のためには、債務を年金制度から分離し、「年金清算事業団」に移せばよい。年金制度はその途端に身軽になるので健全な経営が可能となる。

しかし積み立て方式移行は「手品」ではない。年金自体は問題が解決しても、一方で年金清算事業団には膨大な債務が存在する。この債務処理を結局、若者世代や将来世代が「増税」という形で背負うのであれば「元のもくあみ」である。しかし、積み立て方式移行で債務処理を税の世界に移せば話は変わる。消費税引き上げや年金課税強化をすれば、高齢者世代に負担を求められる。

ただ、高齢者世代も生きている間に予定外の負担増を求められては困るだろう。そこで、彼らが亡くなってから、その相続資産に一律課税する「年金目的の新型相続税」を創設してはどうか。それでも不足する債務処理の財源として、遠い将来の世代まで薄く広く負担する「年金目的の追加所得税」を創設する。国が設立した年金清算事業団は倒産することはないから、100年でも150年でも債務を背負い続け、将来世代にわたり少しずつ債務を返却する計画が立てられる。

・・・鈴木先生は年金のほか、医療や介護なども含めた社会保障制度への公費(税金)の投入を制限することも主張している。とにかく先生の提言は抜本的かつ明快だと思われるのだが、どうして現実の政治に活かされないのでしょうか。

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2012年12月19日 (水)

5七銀とか5二銀とか

昨日、将棋棋士の米長邦雄死去のニュースが伝えられた。享年69歳。本日付日経新聞文化面に掲載された中原誠の書いた哀悼の文を読むと、なぜか名人戦で米長相手に自分の指した妙手「先手5七銀」について述べているのだった。(苦笑)

僕は将棋についてはオールドファン。何しろ一番熱心だった頃はもう30年以上も前のことで、まさに当時の将棋のタイトル戦は、中原―米長の対戦が繰り返されていた時代だった。

「先手5七銀」は歴史的な妙手。第何期の名人戦か調べる気も無いので記憶だけで書くと、たしか自陣の銀を4八から5七に動かして、相手の馬に取らせる手だった。狙いは馬の効き筋を変えるというものだったが、何しろわざわざ一手をかけてタダ取りさせる手である。記憶に残らないわけがない。

しかし駒をタダで取らせる手と言えば、NHKのテレビ将棋で、羽生善治が加藤一二三相手に放った「先手5二銀」の印象が強烈だ。盤上の駒を進めるのでなくて、持ち駒を敵陣に打ち込む、タダで捨てる手。取れば、相手の王様は即詰みという、まさに必殺の決め手。しかも録画のテレビ番組とはいえ、その「瞬間」を見ることができたのだから、それはもう目が覚めるような「体験」とも言える見ものだった。

そうそう、この羽生―加藤戦の解説者は米長だったな。「奇しくも」と言っていいのか、よく分かりませんが。

分野が全然違うんだけど、今年の夏に元ディープパープルのジョン・ロード(71歳)の死去を知った時と同じように、米長邦雄の死についても、自分のティーンエイジャーの頃の憧れの才人が鬼籍に入る時期がやってきたんだなという感慨がある。

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2012年12月18日 (火)

経済運営に魔法はない

本日付の日経新聞1面掲載「新政権 3分の2の重み」(経済再生 魔法はない)及び投資・財務面掲載「一目均衡」(トレンド転換期の経済運営)の二つのコラム記事から、新政権の行うべき経済運営についてメモする。なお前者の執筆者は実哲也・編集委員、後者は末村篤・特別編集委員。

自民党圧勝の選挙結果を受けて、株式市場は「親ビジネス」への政策転換の見極めに向かうと思われる。(末村)

市場が勢いづく裏側には、3年続いた民主党政権下では成長が軽視されてきたとの認識もある。世界各国が経済活性化やビジネス環境の改善にしのぎを削っているのに、そうした時代の流れへの感度が鈍く、対応が遅れた印象は否めない。
安倍晋三自民党総裁が選挙戦で最も力を込めたのは、日銀による金融緩和の強化だ。(実)

しかし、日銀の金融政策の評価や金融緩和の効果と副作用を巡る議論は、「神学論争」の様相を呈し、財政刺激策には先祖返りの批判も根強い。(末村)

問われるのは、新政権が民の活力を引き出し、成長力を持続的に高めるための政策を前に動かせるかどうかだ。
反対が強そうな改革は避け、金融政策や財政政策頼みで日本経済を立て直そうとするなら、古い自民党への逆戻りだ。(実)

日本独り負けの「円高・デフレ」トレンドは転換点を迎えつつあるのではないか。制御不能に陥る危険を伴う極端な政策をとらずとも、出遅れといわれる日本株が見直される可能性は高い。過度な円安は輸入インフレを招く恐れがあり、財政出動はもろ刃の剣だ。
災害復興や原発事故収束を優先し、持続可能な社会に向けた制度改革、イノベーションを促す環境整備、仕事を分かち合うワークシェアリングなど、時代対応の地道な政策が大切だ。(末村)

経済再生に魔法があるわけではない。行き過ぎた円高を抑えるとともに、成長強化策も思い切って実行に移す。あわせて財政再建へ着実にコマを進める。そうした総合戦略を迅速に進めない限り、日本経済の復活は難しい。(実)

・・・金融緩和と財政出動を積極的にやるのも今さらというか、限界が見えてるというか。成長と福祉の持続を可能とする制度改革に地道に取り組むしかない。

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2012年12月17日 (月)

自民党圧勝ですか

今回の総選挙の結果を見ると、小選挙区制って極端だなぁというか、消極的選択でも「圧勝」になってしまうというのが良く分かった。

2005年の「郵政解散」の時は、小泉さん、あんたがやりたいっていうならやりなよ、って感じで自民党圧勝。
ところが2009年の「政権交代」の時は、自民党がダメだから、民主党に一回やらせてみようという感じで圧勝。
今回も、民主党がダメだから自民党に戻そうということで圧勝。

こうなると、今後も政権与党がダメだからこっち、みたいなネガティブな選択で政権交代が起きるのかという感じがして、それも何だかなぁである。

今回の自民党の新議席は294、選挙前119にプラス175。民主党は新議席57、同230からマイナス173。二大政党については、一方が減らした分だけ他方が増加した格好で、まさにオセロゲーム。

いわゆる第三極。維新の新議席54、選挙前11にプラス43。みんなの新議席18、同8にプラス10。一方、未来は新議席9、同62からマイナス53。こちらも「勝ち組」の増加分が、「負け組」の減少分と見合いになっている、いわばゼロサムゲームだ。

で、未来は大部分が民主離党組の「小沢系」。未来他で選挙を戦った民主離党組は、小選挙区「1勝70敗」の成績。小沢一郎だけが当選して「今やひとり」状態に。

前回は小泉チルドレンが消えて、今回は小沢ガールズが消えた。今回自民党の当選者は元職の人が多いらしいから、政治家としてはまだマシかも知れないが。

まあとにかく今回は民主党から離党した「小沢系」が壊滅して、その空席を維新とみんなが占めたという格好になった。再起を目指す民主党も含めて3党が今後、自公政権とどう渡り合うのかが見どころかと。でもオザワという攪乱要因がやっと影響力を失ったと思ったら、今度はシンタローという攪乱要因が出てきたな。(苦笑)

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2012年12月16日 (日)

レインボー初来日から36年

「レインボー・オン・ステージ」のデラックス・エディションを輸入盤で聴いた。従来の「オン・ステージ」(ライブ音源は日本とヨーロッパ)に、1976年初来日時の音源だけで構成したボーナス盤を付けた2枚組。CDジャケットには大阪のライブとクレジットされているが、ネット上のレビューを拝見すると、東京・武道館のライブとのこと。最初、大阪と聞いて思い出したのは、来日公演終了後に、FM放送でさわりだけ紹介されたレインボーのライブ。これが大阪の音源で、リッチー・ブラックモアが即興で弾いた「パープル・ヘイズ」の荒々しいリフが印象に残っていただけに、ちょっと残念。もちろんブートでも聴けるんでしょうけど、個人的にはブートを買う気までは無いしなあ。

で、1976年12月16日武道館公演は、高校生だった僕も友だち数人と行った。初めてのロック・コンサート体験。当時の切符を見るとB席2500円とある。LP1枚と同じ値段なので意外と安い。もちろん高校生にはかなりの大金だけど。席は2階のかなり上の方で、しかもステージの殆ど真横だったから、僕たちは結局2階の正面に移動して、ライブの間は遥か遠方のステージをずっと立ち見していた。

オープニングはキルザキング。といっても新曲だったので、何の曲をやってるのか全く分からなかったけど。ミストゥリーテッドは意外だった。ディープパープルの曲も何かやるかなとは思っていたけど。しかし今でも、ロニー・ジェイムス・ディオの声はミストゥリーテッドには合わない気がする。銀嶺の覇者に入る時にレイジーを弾くとか、曲間にブルースを挿入するとか、当時のリッチーのライブならではの展開はカッコ良かった、としか言いようがない。

開演前の待ち時間、何処かの誰かの声が聞こえてきた。「去年ここでディープパープルやったんだよな。バーンやったぜ。しらけたバーンだったな」。そう、その一年前の1975年12月、第4期ディープパープルが来日していた。リッチーに代わったトミー・ボーリンの左手の故障で最悪との伝説が残るライブ。自分も後に発売されたライブ盤を聴いて「なるほどしらけたバーンだ」と思った。

当時の出来事を時系列で並べると、1975年春、リッチーがディープパープルを脱退、同年12月ディープパープル来日、翌1976年夏ディープパープル解散、同年12月トミー・ボーリン25歳で死去、そしてレインボー来日。ロックを聴き始めた僕にとって大事件ばかり起きた、ドラマチックな展開の時期だった。

あれから36年。と、ひと口に言ってしまうのだが、長い年月には違いない。実際にロニーとコージー・パウエルは既に故人。改めていろいろ思い出してみないと、感慨と言えるほどの感慨が出てこない。長い時間が経つ、というのはそういうことらしい。

今年はUKが再来日した。年末には2007年レッド・ツェッペリン再結成ライブ商品が発売された。何だかんだと70年代ティーンエイジャーの古い記憶が呼び起こされる訳ですが・・・もう音楽自体にはそれ程熱心ではないけれど、それでもブリティッシュ・ハードロックとプログレッシブロックは、今でも僕にとって音楽の最上級に位置している。

36年という長い長い年月を経ても、基本的にあんまり変わらない自分の音楽の嗜好・・・特にどうこう言う気もなくて、まあ、こんなもんなんでしょうね。

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2012年12月15日 (土)

2013年の株と為替(若林栄四)

また若林栄四氏の本が出てるよ。で、ついつい買っちゃうよ。『不連続の日本経済』(日本実業出版社)から、来年2013年の相場予測の部分をメモ。

(ドル円相場)
2011年10月の75円53銭と2012年2月の76円03銭のダブルボトムでこの円高相場は終わっている。ほぼ完ぺきに黄金分割の日柄を踏んだ相場であるからだ。したがって75~76円というのはこれから二度と破られない円高水準であると考えている。

とはいえ、まだ相場は80円前後に低迷している。すでに大きな日柄は到来し、ドル底打ちは済んでいるが、もうひとつ大きな、いってみればゲーム・チェンジャーが必要なようにみえる。そのゲーム・チェンジャーはおそらく米国でインフレ懸念が出てくることではないかと考えている。つまり米国金利の上昇である。では米国金利はいつから、緩和態勢からインフレ懸念態勢に変わるのか。大局でそれをとらえようとすると、2013年後半ではないか。

2013年後半からドルがバーティカル(垂直)に上昇する局面に入る。バーティカルな相場の発射台は85円あたりだろうと考えられる。となると2013年前半は80~85円の推移に終始することになるだろう。さて2013年後半に発射されたロケットはいつどこまで上昇するか。長期的な見通しでは2025年190円とみているが、短期的には2015年第1四半期までの上昇ではないかと考えている。121円あたりが目標値となりそうである。

(ユーロ円相場)
まだユーロの下げ相場は終わっていない。この相場が底をつけるのは2013年第2もしくは第3四半期、相場は90円近いレベルまで下落する恐れがある。底打ちを見た相場は、140円を目指すもののように見える。

(日本株)
1万600円のレベルはきつい上値抵抗であるが、2013年11月に向けて、そのレベルをクリアして1万2000円台トライするものと考えている。その後、2014年は、いったん調整局面に入るだろう。

(米国株)
2013年第2~第3四半期が重要な日柄である。その日柄まではおそらく米国経済に対してまだ悲観的な見方が主流であろうが、2013年7月以降は一気に米国民のネガティブ・センチメントが払拭され、明るい将来をプロジェクト(投影)できるような流れになるものと考えている。2013年5月まで相場が弱含む場合、ターゲットは1万ドルから1万1000ドル前後。いずれにせよ、2013年後半は相場が大きく上昇するだろう。

・・・どうやら来年の投資環境は特に後半、かなり期待できるみたいです。思えばリーマン・ショック2年後の2010年末、証券会社の投資レポートは新年の株相場1万2000円を唱えていた。しかしそれも震災と原発事故で吹っ飛んだ。株価1万2000円のシナリオは2年後ずれして、ようやく現実味を帯びてきたという感じ。

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2012年12月12日 (水)

バブルと「辰巳」相場

バブルが起きて欲しいのはやまやまなれど・・・本日付の日経新聞電子版記事「くすぶるバブル待望論、問題は実現手段」(日本経済研究センターの前田昌孝氏)からメモ。

野田佳彦首相が衆院解散を表明した11月14日を境に東京株式相場は様変わりになったが、政権公約の実現度は別として、自民党が唱えている200兆円の公共事業実施と積極的な金融緩和策の組み合わせを市場は前向きに評価した可能性がある。

新聞社の事前の世論調査通りに、衆院選で自民党が圧勝し、安倍晋三自民党総裁が首相に就けば、リフレ政策実現の可能性が高まったとみて、株を買おうという動きが強まる可能性もある。確かに、極端なリフレ政策には反対論も多く、「財政出動と金融緩和が組み合わさると、日本経済がバブルになるからダメだ」という声もある。ただ、バブルには良い面もあり、一概には否定できない。

バブル局面では経済の先行きに対して明るい見方をする人が増えるし、企業業績が好転し、法人税収も上がる可能性がある。バブルの芽になりそうなことを全部つむような政策運営をすれば、経済の先行きに対する期待は膨らまないし、企業にも設備投資意欲など出てこない。「絶対にバブルはダメだ」などとかたくなになる必要はあるまい。

東京株式市場では過去2回、えとが辰または巳の年にバブルが発生していた。日経平均が3万8915円の史上最高値を付けた1989年は巳年だったし、情報技術(IT)バブルの波に乗って2万0833円の高値を付けた2000年は辰年だった。「辰巳天井」あるいは「戌亥の借金、辰巳で返せ」という相場格言通りの展開だった。辰年だった今年はバブルと言えるほど相場が盛り上がっていないので、巳年の来年には大相場があるかもしれない。

ただ問題は、仮に政府や日銀が「今の日本経済にはバブルが必要だ」と判断しても、実現に向けての有効な政策手段が見当たらないことだ。規制緩和などの地道な努力によって、景気の先行きに対する期待感を徐々に高めつつ、お金の流れがミクロで目詰まりしないように的確な政策を講じれば、「良いバブル」が形成される可能性は高まるが、それこそ政府や日銀のきめ細かな政策能力が試されるだろう。

・・・バブルが起きて欲しいのはやまやまなれど、際限のない金融緩和は通貨の信認を危うくするだろうし、無闇に財政出動すれば国家財政は破綻の淵に近づくだろうし、政策の大胆な展開には二の足を踏む感覚もある。今のところ更なる円安進行を願うほかない感じ。

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2012年12月10日 (月)

国民国家VS「独立」地域

たまたまひと月前の「週刊エコノミスト」(11/20号)を眺め返したら、スコットランドの独立志向を伝える記事が目に付いて、地域が独自性を追求するのはスペインのカタルーニャだけじゃないというか、どうも近代国民国家からの離脱志向がトレンドみたいな感じ。記事(執筆者は山崎幹根・北海道大学公共政策大学院教授)からメモする。

スコットランドが、英国からの分離・独立の是非を問う住民投票を2014年までに実施することになった。経済的な自立を求める意識の高まりが背景にあり、超国家組織としての欧州連合(EU)の役割が拡大する一方、従来の「国民国家」という枠組みが相対化していることも影響している。欧州ではスペインのカタルーニャやバスク、ベルギーのフラマンでも独立運動が盛り上がっており、地域にとって望ましい統治のあり方を問いかけている。

これらの独立運動の主張の背景に共通するのは、歴史的、文化的に強固な独自性を持ち、経済的な自立を求めていることだ。カタルーニャ州やバスク州、フラマン州はそれぞれの国のなかでも相対的に豊かな地域であり、スコットランドと事情は異なる。しかし、自らの域内で稼いだ富を他の地域へ移転するのではなく、自らのために使いたいという意識は同じであり、欧州全体を覆う景気の低迷が直接的に関係している。

「国民国家」とはこれまで、「領土」「主権」「国民」の3要素を合わせて確立することを意味してきた。近代以降は、「国家には1つの国民が存在するべきである」との考えから、国家が社会、文化、経済面で国民の一体性を上から形作ろうとしてきた。一方、国家の「独立」とは、1960年代のアフリカ諸国に代表されるように、国家に抑圧されていた民族や文化、宗教の開放、そしてアイデンティティーの確立を大義とする「少数派の抵抗」の性格が強かった。

しかし、EUの発足(92年)や共通通貨ユーロの導入(99年)など欧州統合の加速は、国民国家の役割を相対化するように作用した。また、地域間格差是正のためのEUの補助金が国家単位ではなく地域単位で活用されるなど、EUと地域との直接の結びつきも強まっている。国民国家中心の秩序が見直しを迫られるようになり、地域にとって望ましい統治の単位を追求するなかで、最近の欧州各地の独立運動は「強者の離脱」という図式に様変わりしている。

独立を語ることとは、地域の側の自立だけでなく、国家のあり方への問題提起でもある。独立の要求を突き付けられた国家の側に、どのような理念によって国家の統合を維持するのかも問われている。

・・・世界不況に対応する動きとして、国家が一丸となって求心力を強めるパターンもあれば、国内の強い地域が独立を志向する遠心力の働くパターンもある。そう簡単に地域の「独立」が現実になるわけではないとしても、先進国におけるグローバル化の新たな局面が現われてきているような気もする。

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2012年12月 7日 (金)

カタルーニャの「独立」

本日付日経新聞の総合面記事(スペイン断裂 欧州の縮図)からメモする。

スペイン北東部のカタルーニャ州議会選が11月下旬に投開票され、スペインからの独立を訴える勢力が議席の過半数を獲得した。国内総生産(GDP)の約2割を稼ぐ州で持ち上がった独立騒ぎ。なぜ独立機運が高まったのか。

スペインはもともとカタルーニャやカスティーリャ、アラゴンなど複数の国で構成されていた。18世紀初めに勃発した「スペイン継承戦争」をきっかけにカタルーニャは独立国の地位を失い、スペインに組み込まれた。20世紀に入って独立運動が活発になり、地方選挙で勝利した政党が1934年に「カタルーニャ共和国」の成立を宣言した。

だがスペイン内戦後のフランコ独裁政権は独立を認めず、カタルーニャ語の使用を制限するなど弾圧を加えた。78年に自治を回復したが、独立を目指す考え方は社会の通底にある。

独立意識に再び火を付けたのは欧州債務危機だ。「中央政府は緊縮財政をやめろ」「雇用を増やせ」。9月11日、カタルーニャ全土に150万人が集まった。

同州はスペインの全17州で最も大きい経済規模を持つ。毎年150億ユーロを超える税収が中央政府に吸い取られ、経済成長が遅れた州に渡る。同州も欧州危機のあおりで病院など公的サービスの一時停止に追い込まれた。「富が奪われている」という不満は根強い。

実際に独立できるのか。マス州首相は2014年に独立を問う住民投票を実施する方針だが、中央政府は「憲法違反」と主張。同州が投票を強行すれば差し止めも辞さない構えだ。いま独立を支持している住民も一枚岩ではない。独立を果たしても欧州連合(EU)加盟の道筋が見えないためだ。

カタルーニャ州の独立騒ぎは、ドイツなど北部欧州と南欧の対立が続くユーロ圏の縮図だ。成長軌道を取り戻さない限り、別の国でも同様の動きが強まる可能性がある。

*カタルーニャ州:人口約750万人(スペインの16%)
         名目GDP2000億ユーロ(スペインの18.7%)
         失業率22.5%(スペイン平均は25%)
         公用語はカタルーニャ語とスペイン語

・・・一年前にやはり日経新聞から、イタリア「南北問題」の記事についてメモしたけど、スペインのカタルーニャ「独立」問題も、一国内で豊かな地域の不満がくすぶっているのは、ほぼ同じ構図といえる。昨日の日経紙上のコラム「大機小機」では、地域格差=地方分権の問題として捉えられていた。

ヨーロッパを見ていて思うに、今回の世界不況の荒波の中で、国家連合レベルでも国家レベルでも、統合の危機が露わになっているという印象だ。かつて冷戦終了後に、国家統合のイデオロギーが消滅したユーゴスラヴィアは解体した。今度は経済格差が国家を解体するのか。その際国家の再統合を可能とする原理はあるのか。しかしおそらく、それもまた経済的な方法で解決するほかないように思える。

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2012年12月 6日 (木)

スペインの「分裂」

本日付日経新聞市況欄コラム「大機小機」(スペインの地方選挙)からメモする。

11月25日、スペインのカタルーニャ州で議会選挙が行われ、独立を訴える勢力が過半数を獲得した。地方財政への不満もあり、我が国にとっても人ごとではない問題をはらんでいる。

スペイン最大の経済規模を誇る同州はバルセロナを州都とし、独立意識が強い州のひとつである。近年、スペインの経済危機が深まるなか、比較的裕福な同州で、他州への財政移転を強いられるのはもはやごめんであると中央政府への不満が強まっていた。

選挙結果を受けて、中央政府は徴税権問題のほか、緊縮政策の見直しなどで独立派に譲歩するとの見方が有力だ。ただ、より危機的な事態にある州を数多く抱える中央政府にとって、カタルーニャ州からの財源移転は必要だ。譲歩によって市場が財政再建への不安を抱けば、スペインの危機はさらに悪化しかねない。

一国の持続的な成長を実現するには、地方経済の底上げが不可避で、地方に一定の自主性を認めることも重要である。地方の多様性を全国統一のルールで縛ることの弊害は、近年さまざまな分野で顕在化している。しかし、いずれの国でも地域格差は厳然として存在する。それをいかに克服してバランスのとれた成長を実現するか。地方分権の大きな課題である。

・・・南欧では、スペインのカタルーニャ「独立」のほかにも、イタリア「南北」の経済格差問題もくすぶる。リーマン・ショックやソブリン危機による経済不況に世界が覆われる中で、国に余裕がなくなり、地域エゴが露わになるような事態が出現しつつある。これは「地方分権」の問題なのか。大げさに言えば「国家統合の危機」の芽生えのようにも見える。

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2012年12月 3日 (月)

佐藤優の講演会で

昨日2日、八重洲ブックセンターで開催された佐藤優の講演会に出かけた。できれば尋ねてみたいことがあったので、会場の入口で質問を書くためのメモ用紙を渡された時、非常に有り難いと思った。知りたかったこと、それは『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著、講談社現代新書)に対する評価である。

先月、「ウェブ平凡」の中で、佐藤氏の同書に対するポジティブな文章を見つけた時、少々意外に思った。というのは、発行当初から同書は「間違いだらけだ」とネット上で批判(本も出ている)されており、信仰者(佐藤氏もクリスチャン)の評価は基本的にネガティブだという印象を持っていたので。そんなこともあり、ご本人にもう少し詳しく聞いてみたいと思った次第。

講演(政治と歴史の話)は45分、その後質問応答タイムが45分。メモで集められた質問にすべて答える(20問以上はあったと思う)という大サービスぶり。で、自分の質問に対する答えは大体以下のようなもの。

『ふしぎなキリスト教』に関する、キリスト教側の人の批判は、本当に瑣末な重箱の隅を突いた細かい事実誤認の指摘で、ポッパーの反証主義の手続きからすると、それで橋爪さんや大澤さんの言ってることが崩れるわけではないのです。あとは高踏的な批判――信仰や聖書学が分かってないとか、ギリシャ語を知らないとか、これは意味がない。
橋爪・大澤はキリスト教という現象にまじめに取り組もうとしている。日本人はキリスト教を知らないし、人権とか国家主権の発想はキリスト教の中から出てきている、そういう大づかみのものの見方としては正しいですよ。
たとえばマックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』は、ユダヤ教の律法学者から見れば、間違いだらけじゃないかという話になります。しかしだからといって、この社会学的アプローチが意味を持たないということではないですね。

・・・信仰者の批判に対する信仰者の反批判に乗っかって、自分も少し感想を述べると、同書は「最強の入門書」と称するに値しない駄本であると批判者は言うのだが、版元の販売フレーズであろう「最強の入門書」に拘るのは、どうもポイントがズレてる気がする。また、「こんなに誤りの多い本が受け入れられてしまうのはなぜだろう」という思いも、批判者にはあるようだが、一般読者は間違いと指摘されないと間違いが分からないレベル(自分が基準です。苦笑)なので、間違いの多い少ないと売れる売れないは関係ないのです、たぶん。

要するに同書を客観的なキリスト教の「入門書」として読んでいる人が多いとは思えないし、むしろ読者の大半は「橋爪・大澤から見たキリスト教の本」であると了解しているだろうから、同書を「誤りだらけの入門書」と評価するのは、基本的に批判の方向が間違っていると思う。もちろん誤りの指摘そのものは一般読者にも有益なのだが、どうもその目くじら立てる批判の姿勢には何か嫌なものを感じる。あるいは「駄本」が売れるとキリスト教が誤解されるという危機感があるのかも知れないが、何か余裕のない振る舞いに見えるのだな。

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2012年12月 2日 (日)

「罪をあがなう」とは?

以下は、『神を哲学した中世』(八木雄二・著、新潮選書)からのメモ。

どのあたりから一般のキリスト教徒がもっている信者らしさを生じているのかと言えば、旧約聖書に伝えられているユダヤ教信仰の信仰心である。キリスト教徒の心情を知るためには、新約聖書よりも旧約聖書に頼る必要がある。

(旧約聖書の)『詩篇』を読むことは、キリスト教がもつ歴史的背景を知るうえでも重要である。たとえばキリスト教には「罪をあがなう」という言葉がある。あがなうとは、辞書によれば、買い戻すという意味である。罪をつぐなう、と言うのならわかるが、罪をあがなうとはどういう意味か。しかし『詩篇』を読んでいると、そこには日本人が知らない背景があることに気づかされる。

すなわち、人間は神を主人として、その神に仕える奴隷であってよい、という心情である。神こそが本当の良き主人である。ところが、その神に仕えることができず、他のものの奴隷になっている身が、今のつらい状態である。自分は今、悪い主人の奴隷でいる。願いは、良き主人に「買い取って」もらうことである。

これが、「罪をあがなう」という言葉でイメージされる人生である。それはつらい日々を耐えたのちに神が実現してくれる良き人生であり、天国に行くことである。

こうした感覚は、奴隷売買がふつうであった時代の感覚であり、国民が国王の権力の前でなすすべもない、ということがふつうであった時代の感覚である。それが『詩篇』を通じて、キリスト教信仰の基盤となっている。

・・・キリスト教は「奴隷道徳」であるとニーチェは言った。キリスト教の「ルサンチマン」感覚、それは多くユダヤ教的心性に由来するのだろう。しかし、もともとは大昔の地域限定の教えが、やがて地域も時代も超えて大きく広がっていくというのは、やっぱり「ふしぎなキリスト教」だなあ。

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2012年12月 1日 (土)

グローバル近代とキリスト教

やっぱりふしぎなキリスト教』(大澤真幸、橋爪大三郎、大貫隆、高橋源一郎・著、左右社)の内容は、今年3月に行われた同タイトルのシンポジウム及び昨年8月書店主催のトークイベントの記録を中心に構成されている。両イベントに参加した自分は、やっぱり買うしかないでしょう。ということで、同書の大澤発言から以下にメモ。

キリスト教由来の文明がグローバルスタンダード化しています。これはなぜか、ということに関して、二つの典型的な説明がありうるかと思います。

たとえばWindowsが、コンピュータの世界で、ほとんどデファクトスタンダードになっている。それは、Windowsが、OSとして素晴らしかったからではありません。Windowsが覇権を握ったのは、マイクロソフトが商売上手だったからです。キリスト教についても同じように考えることもできる。キリスト教や聖書がすばらしくて、キリスト教が浸透したのではなく、キリスト教徒がたまたま戦争が上手だったからではないか。

他方で、これとは逆に、キリスト教由来のアイデアが、世界を席巻していることには、キリスト教に内在する理由があるのではないか、そのように考えることもできます。つまり、キリスト教に人間をインヴォルヴする魅力があった、という可能性もあるわけです。ただし、念のために付け加えておきますが、この「魅力」というのは、キリスト教の教義や神学が理論的に優れている、ということとは関係がありません。
ともあれ、この両極の二つの説明法がありうるわけです。

・・・キリスト教そのものの善し悪しは別にして、キリスト教拡大の理由としては、やっぱりローマ帝国の宗教になっちゃったことが大きいんじゃないかと感じる。そして(西)ローマ帝国は滅亡後も、ヨーロッパのゲルマン民族国家に対して、ブランドまたはトラウマとして作用し続けたことを思えば、キリスト教にも「帝国の宗教」というオーラがあったんじゃないかと想像するんだけど、どうでしょうかね。

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